バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

移民をテーマにしたダンス作品 -Gecko『Kin』-

Geckoは、2001年に芸術監督のAmit Lahavによって結成されたフィジカルシアターカンパニーだ。イギリス全土や国際ツアーも行っている有名なカンパニーのようである。

 

今回の作品『KIN』(家族、親族などの意味)はイギリスのナショナルシアターの委託で作られた作品で、移民をテーマにしている。今回私が観劇したマンチェスターのHOMEシアターでの上演が初演だったようで、課題として出たある一場面の作品分析をするのに、レビューが全くなく、メモと記憶が頼りで大変心もとなかった。

www.geckotheatre.com

 

 舞台は、大きく分けて、入国を管理しているような役人たちと、青い服を着た人達と、赤い服を着た人たちで構成される。青い服の人達は、劇序盤に迫害され、背中に一本線を書かれる場面があり、四人ほどの仲間全員その一本線が服に書かれていることから、ホロコーストから逃れてきたユダヤ人を表現していることが想像される。赤い服の人達は、劇の途中に、壁を模したセットを超えてやって来た人々でアジアや南米にルーツを持つ人が多い。

 

赤青どちらの服を着た人も、入国管理局のような所では追い払われて入国することができず、移民として大変な暮らしを余儀なくされている。青の人がもともと住んでいたところに赤の人が押しかけてくることで、争いも起きるのだが、戦争によって最終的には皆ボートでまた新たな地を目指す。オープンエンドで彼らの航海が成功したのかどうかは語られない。

 

ことばで説明するとあらすじは簡単なのだが、場面場面がダンスで表現され、反復が印象的に用いられる。例えば、舞台は最初入国を管理している役人たちの酒を飲みながらのダンスで始まるのだが、その時はこの人たちが何者かという情報がないのでとても楽しそうに見える。しかし、青や赤の人を無下に扱うのを見た後で同じような場面が繰り返されると、自分の見方が変わったことに気づかされる。また、舞台奥に月か太陽のような円い舞台照明が出てきて踊るというシーンは、抽象的で、移民の様子なのか、新しい生活の希求なのか解釈が広がるのだが、青と赤それぞれで同じ場面が繰り返され、彼らの境遇が同一であることが示されている。また、最後のボートのシーンでは、青赤どちらの服を着た人も、全員がライフジャケットを着けて、同じ振付をする。しかも、入国管理の役人の人達もライフジャケットを着けて登場するので、誰もが移民になりうる、また移民の歴史が繰り返されることを示しているのかもしれないと思った。

 

印象的なシーンとしては、赤の人チームの一人が入国管理の役人にいじめられて、民族のアイデンティティーを示す帽子を奪われ、西洋風の帽子、ネクタイを着けさせられ、顔に白い粉をつけられるという明らかに人種差別を表しているシーン、また、祖先を表すようなパペットが出てきて、青赤同士の争いを止めようとするという、歴史から学べというようなシーンだ。

 

またGECKOという団体の特徴として、パフォーマーが様々なルーツを持っており、劇中でも英語以外のスペイン語、中国語などの様々な言語が用いられる。更に最後のシーンでは、それぞれ自身のルーツ、「両親が中国からの移民だけどイギリスで育ちました、今は○○で活動しています。」というようなことが語られ、誰もが移民になりうる、移民としての経験を歴史的に持っている、移民問題は他人事ではないというメッセージが強調されていると思った。

 

ダンスは躍動感があるし、音楽は美しいし、コメディ的な要素もあるし、盆回りはあるし、問題意識もあって、言葉が必要ないので、どこかの演劇祭に招聘されそうだ。授業で見ていなかったら見逃している可能性が高かったので、教えてもらって本当に良かった。

vimeo.com

劇場外観、歩いてこれる距離なのに友達とUberで来てしまった(みんな金持ち)

 

身体とジェンダーに関わるテーマ①SO LA FLAIR『HOW TO KEEP UP WITH THE KARDASHIANS』

 観た作品が溜まっていくばっかりで全然ブログを更新する時間が無い今日この頃、日本に来ている「スカーレット・プリンセス」チームのインスタグラム投稿を見ては、なぜ私は今日本にいないのかという気持ちになっています。日本は何故秋にばっかり劇を上演するのか、というか女王の葬式で現地での説明会が結局オンラインになったからそんなに早く来なくても良かったんじゃないか、市原佐都子の新作くらいは観てから行っても良かったんじゃないか…。まあ、日本にいても、東京に住んでないと結局そんなに演劇見れてなかっただろうと思って気を落ち着かせています。今回は、一年生向けの演劇学の授業の実習的なもので見た作品群の中でも、身体とジェンダーに関する作品(一つ目)の感想です。

 

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『HOW TO KEEP UP WITH THE KARDASHIANS(直訳:カーダシアンに追いつく方法)』 @Martin Harris Centre(大学の劇場)

上演前、奥にキム・カーダシアンのポスター

 この作品は、SO LA FLAIRというマンチェスター大学ソサエティ(サークル、クラブ活動のようなもの)出身の人達を中心としたアーティストグループによって作られた作品だ。コロナ前の2019年から創り始められ、今年のエディンバラ国際演劇祭のフリンジにも参加したらしい。

 タイトルは、自らの補正下着ブランドに「KIMONO」と名付けようとして炎上したことでも知られる、キム・カーダシアンを始めとする一家が出演する有名なドキュメンタリー番組「KEEPING UP WITH THE KARDASIANS(邦題:カーダシアン家のお騒がせセレブライフ)」を基にしており、実際に舞台上にも水着を着たカーダシアンのポスターのようなものがでかでかと掲げられている。しかし内容は、そのようなカーダシアンの番組や広告を通じて世の中に広められる画一的な美への懐疑であり、批判的に言及がされる。

 劇が始まると、七人の俳優が登場し、体を挑戦的に見せつけるような、キャバレーのようなダンスを行う。5歳から60歳位の女性やノンバイナリーの人にインタビューした自分の身体や美、アイデンティティーに関するインタビューを基に作られており、シーンの途中途中で、ボイスオーバーのような、俳優が音声に口を合わせる形で挿入された。また、それぞれ七人の俳優一人一人にフィーチャーするシーンがあり、実際に俳優と演出家が話し合いを重ねながら創ったらしい。例えば、鏡の前での経験だったり、ダイエットの話だったり、黒人女性が抑圧されるという話だったり、移民で美の価値観が変化したという話だったり、カウンセリングの話だったり、クラブの話だったりがそれぞれ展開される。かなり痛切でつらいような部分もあるのだが、それぞれのシーンで大体最後は、私の身体は他者に定義されないというような形で自信を取り戻す、パフォーマンスをするという形式になっている。コメディ的な要素も交えていて笑いもたまに起こっていたのだが、正直こういう話の筋が無くワークショップを通じて作られた作品はあまり予想もできず、何を言っているか分からないところがかなりあった。音楽も有名な番組やコマーシャルのミキシングみたいなものがされていたようなのだが、これもその背景を知らないので難しいなと感じた。

 フェミニズムや家父長制や資本主義と結びついた美の価値観への反抗はとても興味のある分野で、フラッシュを使ったパパラッチされているようなシーン、たばこを吸う、酒を飲む動きを使った振り付けなど個々のシーンは興味深いのだが、深く理解は出来ていないと思う。またこういう芝居は筋というものが無いため、異なるシーンの組み合わせという感じで散らばった印象を受ける。最後のシーンではアンバーの照明の中、一人が歌を歌うのだが、一回「I AM NOTガンダーラ」と聞こえてしまってから、頭の中がゴダイゴに支配されてしまった。本当に最悪な感想なのだが、このように自分の英語力のせいもあって消化不良のまま終わってしまったという感じだ。

 上演後に俳優、演出家、スタッフを囲んでの質疑応答があった。今までの感想でも述べてきたような、創作の背景やプロセス、作品の意図などが話された。まず俳優が名前を言ってから「I pronounce she/her, they/them」などと言うのが印象的だった。その後も友達同士でもそのような自己紹介があるので、こっちではもうそれが一般的になっているようだ。また、公演ごとのアドリブ、変更はあるかという質問で、フランスでの上演では客のほとんどが白人男性で劇場が静寂に包まれたというのが、容易に想像されて面白かった。

 

これはフェミニズムだったんだ‼パレスシアター『ドリームガールズ』

 大学から歩いて行けるマンチェスターパレスシアターには、ブロードウェイやウェストエンドでも上演のある大型ミュージカルのツアー公演がやって来る。今公演しているのが、来年日本でも日本版で初上演される『ドリームガールズ』だ。

パレスシアターの外観、一見ライオンキングをやってるのかと思ってしまう

 

 梅田芸術劇場で多分『メリー・ポピンズ』を観た時に、『ドリームガールズ』が上演されるという特報チラシを貰ったときも、今パレスシアターで上演されているのが『ドリームガールズ』だと知った時も少し古い作品すぎないかという考えが頭をよぎっていた。というのもミュージカルの初演が1981年で有名な映画化も2006年である。

 

 しかし、作品、特にミュージカル版を見るとテーマは全然古くないことに気づいた。観客の歓声と演出のおかげで、めちゃくちゃフェミニズムであることに気づいたからだ‼。

 

 『ドリームガールズ』全体のあらすじは省くが、とにかくソウルフルなボイスを持つエフィが元々プロデューサーのカーティスと恋愛関係にあり、グループでもセンターを務めていたのにも関わらず、カーティスが大衆の人気を獲得するために容貌のいいディーナをセンターに変更する。エフィはその変更が気に入らないことや体調不良(実は妊娠)によって悪い態度を取ったことでグループから追い出される。エフィの脱退後、彼女たちはスター街道を更に上り詰め、カーティスは特に注目を集めるセンターディーナと付き合い始める。

 

 このカーティスが悪い男で、エフィを捨てるし、ディーナは商品としか見てないし、悪事にも手を染めまくりなのだが、こちらの客席では、カーティスが彼女らに酷い態度を取るたびにエエとかハ?とか日本ではほとんどの観客が心の中に留めておくであろう感情が外に出る人が多い。そのような声で観客が一体となり、最終的にエフィがカーティスに言い返すところやディーナがカーティスに別れを告げる所では、激しい歓声とともに「Yes!!!」「よくやった!」というような野次が飛び交い、左前方の客はガッツポーズをして、カーティスにはブーイングを飛ばし、その場面は彼が絶対悪の勧善懲悪物を見ているようであった。

 

 また、映画版を予習で見ていたのだが、映画では短い会話のシーンだけで終わってしまうエフィとディーナの仲直りの場面にミュージカルではナンバーがあり、二人のデュエットが繰り広げられる。舞台上も観客のボルテージも最高潮で二人の絆というのがより強調されていた。その後の解散コンサートで歌われる主題歌のDreamgirlsは、映画でもミュージカルでも大きく盛り上がる感じはなくパッとしないし、エフィの登場も特に演出されずただ下手から出てくるだけだったので、仲直りのシーンがクライマックスで解散コンサートはエピローグという感じだった。

 

 まだまだセンサーの鈍い私は、これらの演出や客たちの反応によって、「あ、これは女達が自立し、友情関係を回復する話だったんだ」と気づいたのだった。

 

 ミュージカルとしては、ナンバーとナンバーのつなぎ方がかっこよくて、ダンスがアクロバティックだった。作品としてはどう考えてもエフィが主役という扱いで、エフィを演じるNicole Raquel Dennisの声がソウルフルだった。特に一幕終わりの“And I Am Telling You I'm Not Going”と再起をかけた“One Night Only”は圧巻だった。

 

 不思議なのは、あんなに盛り上がっておいて、カーテンコールはスタンディングオベーションをしないどころか拍手もせずにみんな結構帰ってしまうということ。それまでにも途中退席する客は結構いたのだが、直前まであんなにガッツポーズをして、感情移入して観ていたお客さんたちまでもがするするといなくなってしまうのがカルチャーショックだった。

 

https://www.manchester-theatre.co.uk/theatres/manchester-palace-theatre/dreamgirls.php(公演情報)

Atri Banerjee演出・ロイヤルエクスチェンジシアター『ガラスの動物園』

 マンチェスターに交換留学にやって来て絶賛言語の壁にぶつかっていますが、演劇のおかげでギリギリ元気にやってます。日本では全然書かないのに海外行った時だけブログ書くやないかと思われそうですが、ただの備忘録・感想でもあまり日本語で記録が残っていない公演だと面白いかなという一心なのでゆるしてください‼

https://www.royalexchange.co.uk/whats-on-and-tickets/the-glass-menagerie-2022(公式サイト)

https://www.theguardian.com/stage/2022/sep/08/the-glass-menagerie-review-royal-exchange-manchester(ガーディアン紙の劇評)

https://www.whatsonstage.com/manchester-theatre/reviews/the-glass-menagerie-at-royal-exchange_57320.html(WhatsOnStageの劇評)

 

 日本でも新国立劇場での招聘公演が決まっているテネシー・ウィリアムズ作の『ガラスの動物園』。昨年も上村聡史演出、岡田将生主演で行われた上演を観ていたので比較する部分も多かったが、上村版が原作の時代感に沿ってリアリズム的に作ったとすれば、新進の演出家Atri Banerjee版は現代により近づけていて、ほとんどセットが無い抽象的な舞台だった。

 ロイヤルエクスチェンジシアターの円形の舞台の中央にはアパートの外にあるクラブの“PARADISE”の文字がセットとして置かれており、冒頭にトムがライターで火をつける動作をすると反時計回りに回り始める。その後は、トムと母アマンダの口論のシーンになると回転が速くなったり、日が暮れたら白から暖色になったり、停電したら消えてしまったりと作品に呼応しながら回転し続ける。この大きなネオンサイン以外には、舞台と観客席を分けるように等間隔においてあるスピーカーと四脚の椅子以外はほとんどセットが無く役者も時計回りか反時計回りかで動きながら演技をする感じだった。

PARADISEのネオン

 印象的だったのは、ローラ役のRhiannon Clements、ビリー・アイリッシュのような格好をした現代の若者というような雰囲気で、一幕ではかなり母親に強気に言い返しているように見えた。原作では足を悪くしているという設定だったが、そのような演技は無いので不思議に思っていたところ、二幕で袖の短い服を着た時にはじめて彼女が左腕を欠損していることに気づいた。結構強気な印象だったのが段々段々弱さを見せていくような感じで、一幕の最初の雰囲気からすると、ジムに恋しているのが奇妙に思えるような感じでもあった。

 また、一幕でトムがローラに与えるスカーフがレインボーで、抽象的なほぼ色のない舞台ではこのレインボーが強烈に印象を残した。2019年の文学座の公演でもスカーフがレインボーだったというのを北村先生のブログ(https://saebou.hatenablog.com/entry/2019/06/29/171430)で読んでいたので、トムもしくはローラがLGBTQであるという解釈が広くなされているのだろうかと思った。今回の劇では、ローラがその後レインボーのスカーフを着けているので、彼女が異性愛規範に収まらない女性だということにトムが気付いていることの示唆かと思ったが、脚本には手を加えられていないので、劇はそのまま彼女がジムへ片思いしていたという話につづいていく。しかし、もしそうだとしたら、母親の結婚しろという圧力はよりつらいだろうなと感じた。

 

 その他の配役は、アマンダ役がハリーポッターシリーズでハリーの母親のリリー役をしたGeraldine Somerville、ローラ役が、トム役がJoshua James、ジム役がEloka Ivo。やはりアマンダはかなり強烈で、客席は笑いもかなり起きていた。

 上演前に女王への一分間の黙祷あった。3割くらいの観客は立っていなかった。

10年に一度の受難劇inオーバーアマガウ 'Passion Play' 感想

 7/7、七夕の日にオーバーアマガウの受難劇を観てきた。

例によって無事ここまでたどり着くのに必死であまり予習できておらず、今までの知識の蓄積とコロナ禍にオンラインで観たジーザス・クライスト・スーパースター、ヨセフの不思議なテクニカラー・ドリームコートといったロイド・ウェバー作品を思い出しながら観ることとなった。

 

 場面はキリストの最後の七日間に関わる話が進んでいく物語のパートと、黒い衣装を着た人たちの合唱シーンという二種類に大きく分かれていて、大体交互に進んでいく。合唱パートではソロに移った時に舞台奥がもう一つの額縁舞台のように開き、前述のヨセフだったり、モーセの話だったり、宗教画の再現のようなものが挿入されて、見どころのような感じになっていた。

 

 前半は14時半から始まる。登場する人物の多さでスペクタクルさを表現して来るのが力技感もあるが、子供たちはかわいいし、キリストはロバに乗って出てくるし、オーバーアマガウの宣伝を観た時によくでてくるこの入場のシーンには感動した。(このシーンのマグネットが欲しかったが、高い価格設定の場所でしか売ってないし、結局買えずに少し後悔している。)ロバ以外にも、上演では馬、鳥、羊、ラクダ等沢山動物が舞台に登場するが、それだけでも興奮してしまう。

その後、キリストがマグダラのマリアを救ったり、商人を追い出したり、色々あって第一部の最後は最後の晩餐だった。

 

 第二部は長めの休憩を挟んで20時から、裏切り者のユダの後悔とキリストの処刑、復活の匂わせなのだが、ユダの後悔は、比較的に丁寧に描かれていたように感じた。この部分の演出は時代や他の作品の影響を受けるのかもしれない。

 また、キリストがいたぶられるシーンがかなり延々と続くのが、クリスチャンではない私でも非常に可哀想に思えた。10ユーロという高値でブランケットを買ってしまうくらい、寒い会場でずっとほぼ裸のような状態で耐え、磔にされた状態で震えることなく死体として存在し続けるというのはかなり大変なのではないだろうか。キリスト役に関しては演技力以上に体力と忍耐力が必要な役だと感じた。

 ただ、キリストが磔で処刑されてしまってからエンディングまでは盛り上がるというよりも二人のマリアの哀しみ、監視のローマ兵の場面など粛々と進んでいって、5時間ほどの上演時間で疲れも蓄積していたのであまり集中して観ることができなかった。光を放ちながら復活して来たりするのかなと期待していたのだが…そういう復活場面は具体的には描かないことで想像を膨らませるというようなものなのだろうか。

 

 そのような奇跡に関する特別な演出はあまり無かったが、最後の晩餐やユダの後悔の場面で激しく雨が降ってきたり、キリストが父なる神に話しかける場面で雨が降っているのに日も差してきたときには、自然の不思議な力を感じた。

 終演は22時40分くらいで、カーテンコールが全く無いことに驚く。ほとんどの公演でスタンディングオベーションが起きるルーマニアを経験して、ヨーロッパはスタンディングオベーション文化なのだなと思っていたが、先日のドイツはオベーションところか1回のカーテンコールででほとんどの客が出てしまっていたし、色々国とか地域の特徴が出ていて面白い。

ともかく、客席からの退場もスムーズに進み、終電に間に合ったことに安堵しながら、宿泊地へ。

めちゃくちゃ夜に戻って、朝すぐに出発するのにホテル代が高い‥‥ドイツ二日目、そして観劇三昧の日々終了。

ミュンヘンとルートヴィッヒ二世の城をめぐった後、今またルーマニアにいます。

バイエルン歌劇場 ベルリオーズ「トロイアの人々」感想

 202276日、シビウからミュンヘンに降り立った私は早速バイエルン歌劇場でオペラを鑑賞した。演目は「トロイアの人々」で、Christophe Honoré演出、ウェルギリウスの「アエネーイス」を基にした作品だそうだ。チケットはU-30の割引で二列目なのに10ユーロだった。臨場感のある観劇体験だったが、逆に字幕は見にくく、予習も足りていないのでその点はご容赦願いたい。

 

 第一部は、ギリシャ悲劇のエウリピデス作「トロイアの女」と似たような状況で、カッサンドラを主役として進んでいく。カッサンドラの予言が信じてもらえないところから、トロイの木馬でのギリシャ軍入場、トロイアの女性たちの絶望という流れになってた。こちらは後述する第二幕に比べてベーシックな演出で、衣装もトロイアの王などが原色の鮮やかな色の衣装を着ている以外はモノクロな雰囲気だった。ただ、後半になると映像が使われるようになり、幕に土に埋められた男の映像が映ったり、下手にブラウン管のTVのようなものが砂嵐の状態で七台置かれていて、映像が映るようになり、その奥から人々が逃げてきたりしていた。また後半では舞台の中心に花が大量に置かれていて、それをなぎ倒すことによってギリシャ人の野蛮さが表現されていた。

 

 肝心のトロイの木馬なのだが、赤いネオンで「DAS PEFLD」(ドイツ語で馬)と書かれたものが降りて来るという演出になっていた。この文字を大きく表示する演出、日本では杉原邦生がよく使っている手法ではないかと思う。彼も「グリークス」や「オレステスとピュラデス」といった古代ギリシャ劇に関する劇を上演しているし、天井高めでバックステージの装置などが剝き出しで見えていたことや、色使いなどからも、彼の演出が強く想起された。

 

 第二部は、カルタゴの女王ディドを主役に、そこに漂流して来るトロイアの人々との交流、特にディドとエネの恋愛と別離を描いている。この第二部では、カルタゴが女王とその家族以外は男性で占められる国のようになっていて、幕開きから男性たちが裸で歩き回っている。さすがのドイツで、下も履いていない状態であるのには少し驚いてしまった。第一部よりも更に映像が使用されるようになっており、大きな二つのスクリーンが度々舞台上に登場する。これは、演出家が映画監督でもあるということとも関わっているのかもしれない。

 元来バレエが挿入されている場面があるのだが、今回の上演では映像で男性たちの乱交や流血が映し出されるという演出になっていた。この乱交の映像がかなり激しいもので、後ろの席の客が一列いなくなってしまうくらい途中退席が続出していた。気になったのは、そのカップルが男性同性愛者で占められ、第二部において女性のキャスティングが中心人物であるディドとその家族以外ほとんどいないということだ。第一部の最後にトロイアの女性達として出番があったからいいだろうということなのかもしれないが、結局話の筋に関わる所は異性愛のまま残さざる負えなくなっているし、そこは男性に限らなくてもいいのではないかとは感じた。

 

 また後半では、映像の使用もそうだが、途中カメラを持った人が生中継映像を取るような場面も出てきて、ケイティ・ミッチェルの演出を連想した(彼女の作品は今新国立で上演中だけれども…)。

 

 全体として、舞台に近い席ということもあって指揮者が目に入るのだが、今回の指揮者ダニエレ・ルスティオーニはかなり自身も激しく動くタイプの指揮者で、盛り上がる時には時々「うぐぅ」「んんん」などとうなり声のようなものも発する。悪いわけではないのだが、他の観客と同様に少し気になってみてしまった。また、オーケストラピットの中も少し見えるのだが、チェロを弾いている二人が年齢の離れた二人の男性で、楽譜をめくる時など仲がよさそうな雰囲気が出ていて良かった。

上演は五時間近くあり、外に出るともう真っ暗。

ドミトリーに帰ると自分の部屋は消灯していて、若者というより子供に近い男の子たちが修学旅行の夜のように廊下ではしゃぎまわっていた。ドイツ一日目…。

シビウ演劇祭九日目・十日目

また新しい担当カンパニー、ブカレストのTeatru Masucaが来て、その劇団に付きっきりだった。なのでその他は目玉の「ファウスト」を除き、日本にも来たイタリアのマクベス等評判がいいものも観ることができなかったが、その分、野外としてはしっかり舞台を作る方の劇団に付ききりで、色々面白い経験ができたと思う。

今回はルーマニアの劇団なので、言語的な面で少し不安もあったが、現地のボランティアの姉さんが大きく包み込んでくれるし、劇団の人も常連で馴れてるからかピリピリした緊張感というものがほとんどなく、たぶん一人だけ混ざっている日本人に関心を寄せてくれていたので、過ごしやすかった。テクニカルのおじさんたちはルーマニア語で話しかけてくるので雰囲気だけで話してたし、いつも冗談言ってくる、仕込み中にチェスやってる、何やってるかわからないおじさんとかが愉快だった。

 

ルーマニアTeatru MasucaのExodus

スモールスクエアというその名の通り、嘘つき橋の近くの小さな広場を使った野外公演

背景がたくさんのひまわりと青空の写真になっていて、ウクライナのことをテーマにしていると分かるようになっている。実際、最近のことを受けて創られた新作らしい。

絵の具を散らした、汚しのかけられた衣装を来た人々が戦禍を逃れて離散するという話で、台詞はなくノンバーバルのパフォーマンス。ダンスというよりも、ゆっくり動く機械仕掛けの人々という感じ。白塗りで、木製の旅行カバンを持っているので、維新派かなと一瞬思ったが、そんなこともないかもしれない。全体的には良かったが、爆発音が何発も立て続けに鳴る部分がかなり長く、子供たちが怯えていたし、ウクライナから実際避難してきている子達も多いと思われるので、少し大丈夫だろうかという気持ちにはなった。

 

同じく

Teatru MasucaのA perfect crime (the Angels from Văcărești)

二日目は異なる演目を上演していた。こちらは、‘Exodus’と異なり結構台詞やナレーションがある。登場人物は、ミカエル等の羽を背負った天使たちと、老人、老婦、若いカップル二人。ルーマニア語で進んでいくので細かい話までは分かっていないのだが、ブカレストの歴史ある教会をチャウチェスクが壊したことにまつわる話だった。若いカップルが結ばれ、そして自身たちも天使になっていくのだが、それを見守ってきた幸せな教会が崩壊し、天使たちも羽がもがれていく。視覚的には美しいパフォーマンスだが、それだけではなくかなり社会的なテーマを持って上演しているカンパニーなのだなということが二日間の公演を見て分かった。

 

ファウスト

演劇祭の目玉、シルヴィウ・プルカレーテ演出の作品、日本でも実際に寺山修司天井桟敷の公演を生で観ていたらこのような感じだったのかもしれないと、特に舞台奥で繰り広げられるワルプルギスの夜?のシーンで思った。激しいロックの音色の中で、人が吊り上げられて飛んでたり、豚の被り物を付けた人が踊り狂っていたり、水噴き出してたり、炎噴き出してたり、身体・身体・身体という感じだった。その中を赤色のゴージャスな衣装を着たオフェリア・ポピが進んでいくのがゴージャスで妖しく圧倒的な存在感だった。

 

スペクタクルすぎて圧倒されて逆に言うことが無いので、また冷静になってから追記したい。

 

Aerial Strada & Filarmonica de Stat SibiuのProject Sylphes feat. Orchestra

シビウの現地のオーケストラの音楽を背景に、クレーンに吊り上げられながらアクロバットをするというもの。最初は、宇宙服みたいな恰好で、大きな地球のバルーンが吊り下げられた上で踊っていて、無重力の宇宙空間風のパフォーマンスだった。地球を外して、色々なフォーメーションに変化していくのだが、見せ場で紙吹雪を大量に上空から散らし、照明に照らされ落ちていく紙吹雪とダンサーの姿は美しかった。

 

Drone & lasers show

初日にも観たが、少し違ったような気もする。ドローンもそれはそれですごいのだが、やっぱり花火も体験して見たかったなあという気持ちが残る…

 

https://199.hatenablog.jp/

↑同じくシビウに行っているめいさんのブログ、雰囲気がすごく伝わってくる。

こちらでも紹介

シビウ演劇祭~スカーレット・プリンセス~

会場前に貼られたチラシ、ここで入場まで待機


 2020年に日本来日が予定されていたものが延期され、ついに今年10月から東京芸術劇場で招聘公演が行われることが決まっている、シルヴィウ・プルカレーテ作・演出の「スカーレット・プリンセス」。シビウ国際演劇祭でも二日間22時から二時間半というスケジュールで上演された。

 他のどの公演でもそうなのだが、ボランティアスタッフはチケットを持った客が入って開演時間になった後空いている席に自由に座れるというルールで、現実で先着順チケット取りをしているみたいで、非常に楽しい。二回観に行ったが、一回目は二列目センター、二回目も花道より三列目を実力で確保することができた。プルカレーテの作品は、オンラインや映像で「テンペスト」「リチャード三世」「メタモルフォーゼ」「スカーレット・プリンセス」等を見て、生では野田版「夏の夜の夢」を観ていたが、それも遠い末席だった。今回非常に近い席で観て、やっぱり生で近くで観た方がスペクタクルで楽しめるなと痛感した。

 

 下調べをしていないし、歌舞伎の方の知識もこの前の歌舞伎座の公演を前編は歌舞伎座で、後編はオンラインとシネマで観に行っただけの感想なのでご容赦願いたい。また、鶴屋南北原作の歌舞伎の話ではあるし、比較してみるとより楽しいのだが、一方でどちらがいい悪いではなく、別のものだと割り切って楽しむものでもあると思う。

 

まずは全体として、キッチュでエロでグロでポップでめちゃくちゃっていう鶴屋南北とプルカレーテの作風がぴったりマッチングしているというのはほとんどすべての人が認める所だと思う。歌舞伎の方の原作が大体踏襲されているのだが、所々変更されているか、強調する力点が変化していて面白かった。

 

第一に、主演の桜姫・清玄・権助以外のアンサンブルがかなり存在感を増している気がする。もちろん、日本の公演では仁左衛門さんを追っかけすぎていて見ていなかっただけという可能性も考えられるが、特に吉田家の重宝都鳥の一巻が盗まれたことを巡る部分がより分かりやすく丁寧に場面を割いて描かれていたように感じた。入間悪五郎という桜姫の許嫁の悪者役は、歌舞伎で観た時にはあまり印象に残っていなかったのだが、かなり重要なキャラクターとして出てきていたのが新鮮だった。更に、剃髪して法衣のようなものを着ている女性が出てきたり、西洋のサーカス風衣装や甲冑を身につけた大きい人が舞台に存在してきて、たまに劇に介入してきたりするのだが、どういう存在であるかはよく分からなかった。多分よくわからないままでもいいんだと思う。

 

第二に、最後清玄が恐ろしい霊として出てきたり、それが権助と重なる場面はあまりなく、寧ろ清玄と白菊丸の因縁が舞台セットも使って強調されていた。幽霊という考え方がどの国でも親しみやすいわけではないという配慮だろうか。

 

 

第三に、桜姫が最後、権助か憎き仇であることに気づいて、子殺し、人殺しをするのだが、その行為がナレーターによってmurderをしたと繰り返されていて、よりそれが罪であるということが強調されているように感じた。最後のシーンも役割としては同じようなものではあるのだが、お家再興ではなく、ミュージカルシーンで終わるので、この先の桜姫の行く末はよりオープンエンドで想像を掻き立てるような感じだった。

 

 演者に着目すると、それぞれ皆とても役に合っていて、特に主演二人、オフェリア・ポピーの権助は、悪人であるにも関わらずチャーミングでポップでコミカルでキュートで、でもやっぱり悪いという新しい色悪の魅力を感じた。桜姫役のIustian turcuは普段の姿もキレイで目がぱっちりしてて、フレンドリーで、驚くべき程にただのファンなのだが、作中では権助に対する欲情が激しくて、めちゃくちゃなお姫様というのを体現していた。お姫様が女郎言葉を身につけて帰ってくる終盤の見所では、火を探しているところで見た目は全く異なっているのに、不思議と玉三郎さんが火がねぇなあと言っているシーンがフラッシュバックした。

 残月と長浦の二人の絡みもやはり面白くて、最高だった。男女が反転して演じられるのだがそのバランスも非常に良かった。葛飾のお十も洋装をしているのだが、動きがコミカルで、トテトテというような効果音を歩くのにつけられていてキュートだと感じた。

 

 拷問道具を持った怖い黒子や、もふもふの毛皮、銃を使って殺す等々細かいポイントはたくさんあるがとりあえずここら辺で終わっておきたい。

 

一日目より二日目の方が客の反応はよかった様に思うが、客の反応で言えば、休憩を挟んだ二幕目がより複雑になるからか、どこか失速する雰囲気があるかもしれない。

日本のツアーは、せっかくはるばる来てくれるのに、私は見れないのだが、日本で上演したらポピーとユスティの魅力にみんな悩殺されるんじゃないかな…

釣鐘の入墨が、ガムテープで、釣鐘のイラストにTNRSと上に書かれたものだったのだが、日本公演ではなにかお楽しみ演出があるか気になるので、誰か教えてほしい。

シビウ演劇祭七日目・八日目

新しいカンパニーTeatru Mascaというブカレストの劇団を迎える準備や実際にお出迎えがあったが、アウトドアでしかも現地のカンパニーなのでとりあえずやることは少なく、夜は公演を見ることができた。一日に何作品もはしごできる天国のような時間なので、終わらないでほしい。一生こういう生活をつづけたい…。

 

Focus and Chaliwaté Companyの“Sunday”

環境破壊をテーマにした舞台だが、舞台上で繰り広げられるものは基本的にコミカルでキュートでめちゃくちゃ楽しい。しかし当然色々な問題は考えさせられるし、環境問題を扱った舞台はそんなに観たこと無かったかもしれないと気づいた。いまシビウもめちゃくちゃ暑いし、日本も暑いらしいし、上演前には急に激しい雷雨に見舞われたりしたので、身に摘まされる思いがあった。

舞台は3パートに別れていて、地球温暖化と、竜巻などの異常気象、地震津波がそれぞれ扱われる。そしてそれぞれのパートも三つに別れていて、まず、ニュースを中継のような形で伝え、取材するクルーたち。彼らがそれぞれのパートの始まりになり、雪山、空?海で災害に巻き込まれる。そして、白熊、鳥、魚といった自然界、そして夫婦とおばあちゃんの暮らす家庭のそれぞれの状況下での姿が描かれる。

 

それぞれのパートも繋がっていて、クルーたちのニュースが家庭のテレビで流れたり、竜巻に巻き込まれた鳥が家に入ってきたりする。

 

とにかく、コメディチックで面白いし、車、動物のパペット、映像などの道具と効果も隙がなく見事だった。第三パートの地震の部分だけ少し手を加えないといけないかもしれないし、荷物を輸送するのが大変かもしれないが日本でも見たい。

 

サシャ・ヴァルツのKreatur

7日目にはスカーレット・プリンセスの為に途中抜けしたが、8日目には最前列で観ることができた。

基本的にダンサーは裸であることが多いのだが、着ている衣装も印象的で、モコモコトゲトゲした毛皮のようなものだったり、トゲトゲしたものだったり、素材が不思議。舞台の上手側に階段のような壁のような白いセットがあって、印象的に使われていた。

舞踏の授業のレジュメを引っ張り出して来たいくらいなのだが、その授業で習った「ケルパー(身体)」と同じく終盤ではダンサー同士が体をお互いに触りあったり、髪を振り回したりしていて、最後はその関心に帰結するのかなと思った。また、壁を使ったシーンでは、お互いに支えあったり乗り越えたり、そのあと叫んで他者に苛烈にあたる一人のダンサーがトゲトゲの衣装を着てその後出てきたりと、現代の社会問題や人々のコミュニケーションに関する問題を扱っているのだろうなということを感じた。

殆どのショーで男女問わず人の裸をみることがかなり多く、構えてみてしまう部分もあるのだが、日本でその女性の裸というものが性的対象物として扱われすぎているのだろうなと思った。

 

ルーマニアAndri BeyelerのRosalinda the cow

牧場の人と牛、豚、犬などの動物という設定で歌いながらストーリーが進んでいく。最初に町の様子が説明されるのだが、右に何々~そこから何キロ進んで~というような説明は「わが町」みたいだなと思った。牛が飛行機に乗ってアフリカに行ってしまうなど、色々面白いのだが、オリジナルストーリーであるため、英語の字幕を追い続けるのが大変で回りの人ほど楽しめていないかもしれない。

 

韓国Theatre Hooam & AtoBIZ LtdのBlack and White Tearoom – Counsellor

男二人の密室芝居で、最初から中盤まではかなりシリアスでスリリングに進む。

話は元々警官で今はカウンセラーになっている男性とそこに相談に訪れる男性の話で、二人の過去の因縁が明らかになるというものだ。作劇の基本に忠実に従っているというような感じで、相談に訪れる男が実は耳が聞こえていなかったということが、最初の登場で入っていいよと言われているにも関わらずドアをノックし続けていることで示唆されていたり、聞こえない音に関わる道具や金魚の餌、砂糖、遺骨などの粉といったモチーフが繰り返し用いられていたり、骨格がしっかりしているのだが、終盤でかなり変な方に進んでいく、そのギャップが面白かった。基本的には静かな演劇という感じなのだが、途中途中でかなりヒートアップして、叩いたり、飲み物をかけたり、叫んだりと、つかこうへいチックになり、それも私は好みだった。

途中途中で字幕が遅れることがあったのだが、もしかしたら耳が聞こえないという設定の芝居であるため意図的なものだったかもしれない。そうだとすると、彼らの話している言語の理解できない海外での公演の方が作品意図の伝わりやすいものになるだろうと思った。

 

イタリアTeatro per CasoのWorld of Wonder

大きいデカい光る白鳥の練り歩き。

 

スペインBatucada de Murcia & Carnival Group de AlicanteのBatucada in Carnival

オレンジのデカいカーニバル衣装を着た女性達の練り歩き

シビウ演劇祭五日目・六日目

五日目は担当している公演が終わり、ラドゥスタンカ劇場の看板女優オフィリア・ポピーの出演する「三人姉妹」を観るかどうするか散々迷った結果、宣伝の写真が面白そうだったダンス作品を観に行くことに決めた。

 

ベルギーCompagnie Mossoux-Bonté ‘Les Arrière-Mondes’

混乱、戦争、疫病の中を生きてきた、昔の贅を尽くした人々が蘇ってくるというようなコンセプト。舞台が幕で6つに区切られており、古ぼけたドレスなどを着たそれぞれのダンサーがそのスペースを使ってゆっくり動き出してくる。このプロローグは昔の亡霊が蘇ってくるというようなもので、かなり能と似ていると感じた。

 

最初は一人一人がそれぞれ動いているのだが、その身体表現はかなり舞踏に近いものだと感じた。服装も性別がよくわからないような装いをしていて、坊主だったり白っぽかったりする場面がかなり多いので、山海塾とかに影響を受けているのではないかと思う。

 

その後、中盤以降にかけては、ダンサー同士が交流するようになる。それはいいのだが、あまりにハプニング的な、驚かせようとするような要素が多く、首なし人間、手がたくさんある表現、急に顔が外れる等、その異形の演出が芸術的に面白いというよりは、お化け屋敷のような感じであまりいいとは思えなかった。

 

終盤、急に激しい音楽と共にヘドバンのような動きをしだして雰囲気がすごい変わったので、このまま終わっていくのかと思っていたら、突如として真顔、静寂に戻るというのを何回か繰り返すところが一番意味がわからなくて面白かった。

 

SWEDENのThe Art Group Fulの‘Baba Karam – through Jamileh and Khordadian The Summer Sneak Peek’

ハーバルマンでの野外パフォーマンスでイランの人気ダンスBaba Karamを利用したドラァグなショー。確かに、女性ダンサーが髭を付けていて、日本でいうROLLYみたいなダンサーが踊っていた。

 

宣伝画像からはもっと現代的でスタイリッシュなダンスを勝手に想像していたが、すごい古めかしいといったら悪いが、懐メロというような感じで、皆で踊ろうという感じで盛り上げる。なぜか最前列いたので私も踊っていた。

 

正直、自分自身が疎いこともあってパフォーマンスだけでは宣伝に書かれてるようなイランのテーマやドラァグさをあまり感じれず、ダンスもものすごい技術の高いものというわけでもないのだが、シビウの人たちは盛り上げるのがとても上手でかなり楽しかった。

 

六日目

カンパニーが昼に帰国したため、その後は暇になり沢山公演を観れた。

 

TrioMix

日本のJTのインターナショナル部門?JTIがGigi Căciuleanu și Fundația Art Productionと協力している公演のようで、VR作品だ。

自分の周囲を男性一人、女性二人のダンサーが回りながら踊るというもので、どこで誰が踊っているか分からないのでくるくる回りながら今踊っている人を探したり、自分の好きな人を追いかけることができる。日本の演劇でも最近VRは話題だが、自分の好きな俳優とかだとかなりいいだろうなと思った。

 

イタリアFormati Sensibili & BeSpectActiveのCONTEXT / SOLO

GONG Theatreの舞台に水が張ってあって、そこでひとりの女性ダンサーが踊る。非常にゆっくり、低い姿勢で舞台上に出てくるのだが、二階席からはほぼ何も見えなかったので、さすがに照明が暗すぎるように思う。舞台奥の画面にも水の流れのような映像が流され、水面も反射して、三角形の舞台装置がきれいに四角の形に見えたりする。舞台装置は美しいのだが、肝心のダンスの方は静寂という感じで、舞台から遠い席で見るとよくわからない部分が多かった。

 

イスラエルVertigo Dance CompanyのPardes

自分が担当していたカンパニーと異なるイスラエルのダンスカンパニー。こちらは手足を伸ばし体をダイナミックに使った群舞と、舞台奥と横にダンサーたちの影が美しく投影されるのが印象的だった。全員の衣装が統一されていて、その他の小道具も少なく舞台上のダンサーの身体に集中させるような雰囲気だった。面白かったのがダンサーの待機場所が舞台の三方にあって、踊っていないダンサーも思い思いに舞台上に待機しているということで、ブレヒト的な何か意図があってのことなのか、でもダンサーは特にこの公演では何かを演じてるわけではなさそうだし…、それとも稽古と本番の境目を曖昧にしているのか…等と考えてしまった。最後列の階段に座ってみていたので見えていないだけかもしれないが、あんまり水も飲んでなさそうだったのでその点は心配になった。

 

ルーマニアTeatrul Național Târgu-MureșのBetrayal

ハロルド・ピンターの「背信」の上演。そもそもこの男同士の友情と、女性と不倫と三角関係という話自体にあまり興味がないのだが、舞台美術が「リーマン・トリロジー」みたいに回るようになっていて宣伝写真が魅力的だったので観劇した。

 

驚いたのは、役者が全員、操り人形で操られているように非常にオーバーに動いて、台詞も全部録音で実際には喋ってはいないことだ。劇が一番新しい時から時を逆行していくという構成になっているため、何かその演出が後半効いてくるのかなと思いきや最後まで何も変わらずそのまま終わってしまって、何の効果を狙ったものなのか全く分からなかった。また、細かい部分ではあるのだが、ジェリーとロバートは親友であるという設定で、実際妻よりも愛しているというような男同士の関係を匂わせる台詞(笑いが起こっていた)もあるのだが、二人の演技では、人形仕掛けだからか全く親密そうには見えず、ロバートが白髪で歳の差がかなりあるように見えてしまった。

更に、終盤でウェイターがでてくるのだが、白いマスクを被ったスケキヨ状態で出てくる。これには、客席からも乾いた笑いが起きていたし、不必要な仮面の使用は個人的に俳優に対して失礼だと感じてしまう。

 

このあと、プルカレーテの「スカーレット・プリンセス」を二列目センターで観劇したのだが、また今日も観るつもりなので次回に回したい。

シビウにせっかくいるのにブログばっかりに時間をかけるのも良くないので、出かけたいと思う。