バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

冬霞の巴里感想(ネタばれあり)~ギリシャ劇の翻案という視点から~

 

 チケットは取れなかったが、4月2日(土)16:00~配信を見ることができた。

『冬霞の巴里』は古代ギリシャ劇、アイスキュロス作「オレステイア」を原案にしており、現代での古代ギリシャ劇上演という私の研究テーマに通ずる。(http://hdl.handle.net/11094/80625

ギリシャ劇は、様々な社会問題と絡めながら様々な演出方法で現在も上演されている。まだまだ勉強不足な事甚だしいが、普段よく見ている宝塚歌劇でどのように上演されるのかという点では非常に面白く、発見も多かったのでブログに残しておきたいと思う。

あらすじ

時は19世紀末パリ、ベル・エポックと呼ばれる都市文化の華やかさとは裏腹に、汚職と貧困が蔓延り、一部の民衆の間には無政府主義の思想が浸透していた。

そんなパリの街へ、青年オクターヴが姉のアンブルと共に帰って来る。二人の目的は、幼い頃、資産家の父を殺害した母と叔父達への復讐であった。父の死後、母は叔父と再婚。姉弟は田舎の寄宿学校を卒業した後、オクターヴは新聞記者に、アンブルは歌手となって暮らしていたが、祖父の葬儀を機にパリへ戻った。怪しげな下宿に移り住む二人に、素性の分からない男ヴァランタンが近づいて来る。やがて姉弟の企みは、異父弟ミッシェル、その許嫁エルミーヌをも巻き込んでゆく…。

古代ギリシアの作家アイスキュロスの悲劇作品三部作「オレステイア」をモチーフに、亡霊たち、忘れ去られた記憶、過去と現在、姉と弟の想いが交錯する。復讐の女神達(エリーニュス)が見下ろすガラス屋根の下、復讐劇の幕が上がる…!

公演解説 | 花組公演 『冬霞(ふゆがすみ)の巴里』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

 

食卓の演出

 長机を用いた食卓の場面は第一幕と第二幕で繰り返され、家族な不穏な関係を示し、クライマックスのドラマを巻き起こす場となっている。

 このような食卓のシーンは、「オレステイア」に特に指定がされている訳ではないが、その他の翻案上演でも使われている。例えば、ケイティ・ミッチェル演出のロンドンナショナルシアター版(1999)(参考写真:https://www.photostage.co.uk/people/katie-mitchell/oresteia-the-nt-1999.html)や、日本で上演されたものでも、ヤエル・ファーバー演出「モローラ―灰―」(2006)、ロバート・アイク作・演出「オレステイア」(2015)等がある。特にロバート・アイク翻案版は2019年に新国立劇場でも上演されており、元宝塚雪組トップスターの音月桂エレクトラ(=アンブル)役で出演していたので、もしかしたら参考にしているかもしれない(参考写真:https://www.nntt.jac.go.jp/enjoy/record/detail/37_015599.html)。

 このような演出は、家の中で家族が過ごす場のリアリズムを追求した結果ということも考えられるが、アトレウス一家の呪いにまつわる話に関連しているとも考えられる。というのは、ギリシャ神話ではアガメムノン(=オクターヴの父、和海しょう)の父アトレウスとアイギストス(ギョーム、飛龍つかさ)の父テュエステス同士が兄弟であり、王権をめぐって激しく争った。そしてアトレウスは妻が弟テュエステスと姦通していたことを知り、復讐のために彼の子供を料理し彼自身に食べさせたという伝説がある。先祖の代から食卓を囲み繰り返し復讐が行われているのだ。

つまり、(どこまで反映されているか分からないものの)あの一家は呪われており、食卓のシーンで血塗られた手が出てくるとき、そこには父(=アガメムノン)のみならず、そこに至るまでの様々な死者、復讐の女神たちがうごめいていることが示されていると考えられるかもしれない。

宝塚歌劇で上演するための変更について

 大きな変更は、19世紀末のパリに時代を移したことだろうが、時代を移すという翻案は盛んに行われており、非常に宝塚らしい変更のように感じた。作・演出の指田先生はフランス語学科出身(歌劇三月号座談会よりp.67)であるようなので、フランス物は得意なのだろうし(憶測)、もしかしたらジャン=ポール・サルトルが「オレステイア」を翻案した「蝿」(1943)を読んでいるかもしれない。

 一方で、宝塚歌劇に合うように、表現が抑えられている部分も多いと感じた。特に大きな変更は、血縁関係に関わるものだろう。オクターヴ(=オレステス、永久輝せあ)は、父と愛人の子供であり、姉のイネス(=イフィゲネイア、琴美くらら)とアンブル(=エレクトラ、星空美咲)はクロエ(=クリュタイムネストラ、紫門ゆりや)の連れ子であるため、姉弟そして、オクターヴと母クロエの間に血縁関係はない。

 そのような設定によってまず、オクターヴとアンブルの姉弟愛・近親相姦的タブーを回避している。(ただ、以前母子での結婚が描かれる「オイディプス王」(2015)を上演している。)ちなみに元となったオレステスエレクトラ姉弟の深い関係は、母殺しの後日談であるエウリピデス作「オレステス」でも描かれ、“禁断の”ものとして妖しい演出をする上演が多い。自殺しようかという前の二人の台詞を以下引用する

エーレクトラー 最愛の弟よ、姉にとっては懐かしく、愛しいその体、ひとつ生命をもつお前

オレステース その言葉に融けてしまいそうだ。そして、僕からもあなたを腕に抱きたい。ここまで来て恥じることがあろうか。ああ姉さんの胸、抱きしめる愛おしい人。惨めな二人にはこうして呼び合うことこそが、子供にも結婚の臥所にも代わるもの。

エーレクトラー ああ。許されるなら、二人で同じ剣に果てたい。杜松の木のひとつ棺に収まりたい。 (1045-1054行)

中務哲郎訳「オレステース」『ギリシア悲劇全集』第八巻 pp.313-314

本劇では母殺しをしなかった二人だが、しかしながらお互いに依存しあい、罪を共有してどのように生きていくかというのは気になる所である。

 また、アガメムノンは長女のイフィゲネイアをトロイア戦争の出航の為、人身御供として捧げるが、オクターヴの父とイネスは血縁関係がなく、また問題はあるものの自殺に追い込むという点で直接手を下してはいない。クロエもアンブルも配役によるものもあるだろうが、原作のクリュタイムネストラエレクトラに比べるとかなり落ち着いており、それぞれ殺人に積極的に手を貸しているようには見えない。そして結局母殺し、義父殺しは起こらない。これらの変更は、宝塚歌劇にふさわしいものにするためのものか、演出的な工夫かはっきりさせられるものでもないが、陰鬱とした時代を背景に、ギリシャ劇がじめっぽい日本式復讐劇に見事に変貌していると感じた。

 父と子の特別な結びつき

 古代ギリシャ劇では、オレステスは幼児の時に父アガメムノンは死に、他国の親戚の元に預けられる。そのため、オレステスが父親の仇討・母殺しを行う理由というのはアポロンの信託によるものであり、家父長制の維持に関わる論理だ。個人的な愛情や関係、思い出というのはオレステスには全くと言っていいほどない。

 一方、オクターヴの劇中の回想シーンでは、父親と過ごした平和な日々、大人になったら父親の事業を継ぐのだということが繰り返し強調される。このような父と息子の特別な結びつきは、前述したようにオクターヴが唯一血のつながった父親の子供であるという変更によって、ギリシャ劇がもともと持っていた他の姉妹との性別的な差異に血縁的な要素が加わり、より現代の観客が納得しやすいものとなっている。

 父の事業を引き継げず、仕事に精を出すこともなく、貧しい人々と暮らして、「こんなはずではなかったのに」という状況は、「王になるはずだったのに」というオレステスの抱える思いと同様である。偉大で英雄的な父親と落ちぶれている自分というのは対比構造になっているが、本劇ではオクターヴが偉大な父親(=アガメムノン)の偉大な姿の裏には有害な男らしさ、恐ろしい面があったということを認知するというシーンが描かれる。この点は翻案における工夫点で、作品全体のテーマにもつながっている。

 対して、エレクトラ・コンプレックスと名付けられるほどのエレクトラの父親への深い愛情は、アンブルの場合はあまり描かれず、加えてクロエの連れ子で実の親子でもない。これは主役があくまでも男役である宝塚のシステムによるものも大きいと考えられる。このようなアンブルの復讐にかける動機の薄さが、弟を共犯関係にするため、共依存的な関係にするために復讐をしようともちかけているのではないかという考察を盛んに生む要因の一つのようにも感じられる。

友人―ピュラデスとヴァランタン

 本劇には、一見オレステス大親友で復讐を手助けするピュラデスは存在しない。ピュラデスは原作では、出番がほとんどなく、その他の上演でも省略される場合が多いものの、彼の励ましがオレステスに復讐を踏み切らせることになるため、ピュラデスがいない上演は配役の段階で母殺しが失敗すると考えてしまう。

 少々脱線したが、ヴァランタン(=聖乃あすか)は、素性には謎が多いものの、オクターヴと同様に復讐者であり、オクターヴに悪い遊びを教える仲間・共犯者のようでもあり、最後の復讐劇の目撃人のようでかなりピュラデスとの共通性がある。一方で、最後にはテロリストとして、家族の劇に介入してくる。既存のギリシャ劇を土台に存在しない新しいキャラクターを投入するというのは、まさに異物が投げ込まれるようなものだ。今回のヴァランタンとその佇まいは変化を起こしていくキーとなる役として非常に魅力的だった。

 

おわりに

 その他にもイネス(=イフィゲネイア)と父(=アガメムノン)が幽霊として出てくる演出の共通性や、拳銃自殺した父が血まみれなのにに比べて真っ白な衣装のイネスに関する一言、復讐の女神たち三人を男役も演じたこと等語りつくせないが、取っ散らかりそうなのでここで筆をおきたい。

 前回の忠臣蔵もそうだが、ギリシャ劇も三大作家の作品でさえ簡単に言えば神話を基にした二次創作であり、同じオレステスの復讐劇を扱っていても作家ごとに様々な解釈が存在する。今回の作品もそのような見事な翻案作品の一つであり、これからも更に様々な作品(二次創作含め)が増えることを願っている。