バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

現実と悪夢の混濁-ナショナルシアター『The Ocean at the End of the Lane』

ニール・ゲイマンの小説を原作にした作品。ナショナルシアター制作で、2019年に初演したのち、現在ツアー公演を行っている。私はソルフォードのThe Lowryで14日と16日の二回観劇した。

二幕開場前の舞台

 

物語は、中年の主人公が父親の葬式で故郷に戻り、昔の家を訪れる所から始まる。そこで、仲の良かった少女レティの家を訪れ、レティがアヒル池を「Ocean」と呼んでいたことを思い出すと、思い出が次々蘇ってくる。子供時代、母親を亡くし、父親、妹と暮らしていた主人公は、読書が好きで、内向的な性格だった。父親の車の中で自殺していた人、その車の中に放置されていた誕生日プレゼントのグローブ、不思議な力を持つ少女レティとその母親・祖母…。主人公は、レティと親しくなり、一緒に過ごす中で昆虫のような怪物(フリーク)にも遭遇することになる。戦いの末、レティが倒したものの、怪物の攻撃でけがを負った主人公の体の中にその怪物は入り込み(?)、新しい父親の恋人として家にやって来る。当然恐怖を感じ拒絶する主人公だが、父親はそんな頑なな主人公を𠮟りつけるばかりで…。という感じで、ネグレクト気味で暴力をふるう父親、新しい女性の登場などの現実と、子供時代の悪夢が混ざり合うような感じで、ファンタジーの世界観が作られていた。

 

電飾のつけられた森のような木、LEDライトで四角く光る家の扉など、シンプルなのだが装置がどれも美しく、調和していて世界観を作り出していた。アンサンブルの黒いワイシャツを着たコロスたちの操縦する怪物の大きな人形も迫力があるし、波布も何の材質で作られているのか不思議なくらい綺麗にたゆたっていた。

 

子供の頃の不思議な悪夢とか、大人の気持ちが分からず、すべて陰謀のように感じてしまうというのは誰しも皆経験あることなのかもしれないが、私も例外なく、主人公に共感できた。父親の新しい恋人というのはどうしてあんなにも恐ろしい、相いれないものように感じてしまうのだろうか。ニール・ゲイマンが自分の子供時代を書いたそうだが、私の子供時代を書いたと言われても驚かないくらいだ。

 

最後にハンガーバードと戦ったレティは主人公を守って別の世界に行ってしまう(死んでしまう)。レティの母親は主人公の記憶を消し、レティはオーストラリアに行ったということにするのだが、主人公は以前も何度かこのレティの家を訪れ、思い出してはまた記憶を消されているという事が示唆されて終わる。

 

この主人公は少年時代と中年時代の俳優が異なり、中年時代の俳優(Trever Fox)が少年時代の時は父親役を演じているのだが、弱弱しい主人公と、愉快に振舞うが問題のある父親との演じ分けが良かった。またレティ(Millie Hikasa)は、同じ年齢の日本に所縁のある女優さんが演じているということもあって、気になった。溌溂と面白く演じられていたと思う。もちろん、主役のDaniel Cornishも本当にひょろっとした弱弱しい思春期男子に見えるし、新恋人怪人役のCharlie brooksの妖艶な雰囲気も良かった。

 

分裂して、瞬間移動しているように見える父親の新しい恋人、バスタブから出る赤い手、急にやって来るハンガーバードなど、恐ろしい瞬間もあるのだが、やっぱり、三階席の時に比べて一階席で観た方が臨場感があった。一つ感じるのは、初演の劇場に比べて、The Lowryの会場がデカすぎるということで、三階席のような席から見ることは元々は想定されてないんじゃないかとか、反対に机の上のものが見えにくかったりするので、一階席も初演はもっと傾斜があってこんなに舞台と客席が平行じゃなかったんじゃないかとか感じる部分はあった。

 

今、昔の舞台上演に関する最終エッセイを書いており、過去の劇評に、形容詞はいいからもっと舞台の内容を伝えてほしいと不満を抱いていることもあって、長めになってしまった。邦訳が出てない作品で、少しの解説でもありがたかったので、私のブログも上手いことを言えなくても、何かいつか誰かの役に立てればいいなと思いながら…。

www.nationaltheatre.org.uk