バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

今週の観劇三種-『NOT F**KIN’ SORRY』『OODLES OF DOODLES』『LION KING』

今週は近所の劇場のしかも一時間公演だからいいかと思って、平日に二つの公演と、週末にミュージカルのライオンキングを観に行った。

 

『NOT F**KIN’ SORRY』

写真撮影が自由だった

一番家に近いコンタクトシアターでの公演。学生会員&会員割引でチケットは四ポンドだった。知的障害や神経的な疾患を持つ俳優たちによるキャバレー形式の公演で、観客いじりや、歌、コメディ、パロディ、フリンジのついたニップレスなどキャバレーの形式に従いながら、彼らの抱える問題やジェンダーの問題を告発していくというような形式だった。特にコロナの影響というのが大きく取り上げられていて、最初に全員防護服を着て出てくるし、コロナで障害を抱える人達が健常者よりもいかに危険にさらされて実際に死亡率も高いかという事が紹介された。最後に緑色のコインのようなものを一番よかった演者に入れるというのがあり、優生思想や何か作品内のテーマと関わって来るのかと思ったが、結局「またお前が一番多いのかよー」みたいなコメントで終わったので、そこは拍子抜けするところではあった。

作中では、ボリス・ジョンソン(ものまね、これもこんなに政権が変わるとは思ってなかっただろう)や問題のある社会に対してはタイトルにもある通り中指を突き立てる。そして自分の身体に誇りを持とうということや、私たちは普段隠されてるけどどこにでもいるし、いなくならないといった、力強いメッセージも発信される。参加してはないが公演後にはバーで懇親会のようなものがあったようだし、詳しいリーフレットのようなものが配られるし、作品の内外で啓蒙とコミュニティ形成を促進するような演劇だと思った。

 

『OODLES OF DOODLES

恐ろしい客席(見にくい)

大学のドラマソサエティのフリンジ公演の一つで、犬に対する飼育放棄やビジネスの問題を扱った作品。オリジナルでよく分からなかった部分も多いがコメディで、また性的魅力を強調するようなダンスが印象的に用いられていた。珍しい犬を飼い始めた主人公のDAISYがかなり無責任な飼い主で、健康診断とかは行かない代わりにビジネスとして子供を出産させて儲けようとする。彼女の彼氏のTOMは最初はそんな彼女を諫めていたが、最終的に弱った犬を殺してしまい…。という話だ。筋としては単純で問題意識もはっきりと伝わって来るが、犬を殺した時にマクベスのネタが挟まれたり、ジェームスボンドのネタが挟まれたりと色々な引用がされて面白くなっていた。ただ、会場がゲイビレッジのバーの地下のような所で、客席がディナーショー形式の円形に置かれていて、しかも観客わたし以外全員知り合いなんじゃないかというような社交が上演前から繰り広げられており、観客の盛り上がりも半端じゃなかったので、テンションとしては置いていかれてしまった。

『Lion king』

日曜の昼ということもあってか家族づれが多く、一つだけぽっかり空いた席をそれぞれ友達と20ポンドほどで買うことができた。

キャスト表

今回ツアーでやってきているマンチェスターのパレスシアターはそこまで舞台が広くないのだが、だからこそ舞台ギッチギチに動物が沢山いて迫力があった。幕開きの動物たちも、敵のハイエナたちも客席から登場するので、大きい動物が現れた時は普通に興奮した。床から蒸気が出たり、床に布が引き込まれていったりと装置や衣装の豪華さも流石のメガミュージカルという感じだった。

 

ライオンキングというと、子役が舞台に立てるまでみたいなドキュメンタリーのイメージが強く、そこで見た子ライオンのアクロバットはなかったような気がするのだが、どこまで日本独自の演出、このプロダクション独自の新しい演出がなされてるのだろうかというのが気になった。例えば、執事鳥のザズーがはけ際に『白鳥の湖』の真似をしていたのは、このパレスシアターの前の演目が白鳥の湖だからかと思ったのだが、どうなのだろう。少し調べてみると、二幕で同じくザズーが悪者のスカーに捕らえられている時にレットイットゴーを歌ったシーンは日本では富士サファリパークのメロディだったりするらしい。また最後の決闘シーンでもティモンとプンパァがおもむろにチャールストンを踊り出すシーンは日本ではやってないだろうと思ったら、チャールストンという言葉は削除されているもののやられているらしい。(参考資料https://shiki-note.com/lkhenkoten-2402.html

 

「サークルオブライフ」等全員で歌う歌はパワフルで心に迫るのだが、肝心のシンバの声量が満足いくものじゃなかった。だからこそ親が王だからと言ってハクナマタタの精神で育ってきたシンバが本当に王に適格かどうかという疑問が少し残った。

 

青春スペクタクル吸血鬼物―ロイヤルエクスチェンジシアター『Let The Right One In』

原作はスウェーデンの作家ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの小説で、2008年にスウェーデンで『Let The Right One In(邦題ぼくのエリ 200歳の少女)』、2010年にアメリカで『モールス』として二度の映画化がされている。母子家庭で、アルコール依存の母親との折り合いも悪く、学校でもいじめられている主人公のオスカー。彼の家の隣に謎の人物エリが引っ越してきて、孤独な二人は仲を深める。ちょうどその頃、その街では謎の殺人事件が相次いでいて…。というようなストーリーだ。

 

ハロウィン時期に合わせた吸血鬼物の上演で、ポスターが恐ろしいので正直ドキドキしていたのだが、舞台の色使いは薄い水色やピンクなど明るい色も多く、オスカーとエリが関係を深めていくシーンは、観ていられない程の甘酸っぱい青春物だったのでそこまで恐ろしいこともなかった。オスカーの成長と小さなコミュニティで起こる悲劇をポップに描いている。演出はBryony Shanahan、デザイナーはAmelia Jane Hankin。役者は若い世代が多く、とちったのかなという場面が少しあったがほとんどは安定していた。

www.royalexchange.co.uk

ロイヤルエクスチェンジシアターは円形の特殊な形状の劇場なのだが、座付の演出家ということもあってか、その劇場の様々な機構を存分に生かしていて、観客の出入り口と同じ四方の出入り口が大きく開いて大きなセットが運び込まれたり、客席の二階部分の対面する二か所が突き出し舞台のようになっていたり、はしごがついてそこに登れるようになっていたり、客席の周囲がLEDで光るようになっていたり、舞台の床も線が入って区切られている部分が光るようになっていたり、スモークがめちゃくちゃ焚かれたり、雪が降ってきたり、人が吊られたりと特殊効果のオンパレードだった。特に吸血鬼物なので、吸血シーンは血糊、フラッシュ、瞬間移動などで最高潮に盛り上がった。非常に大雑把に語ってしまうのだが、ある授業で歌舞伎を調べていることもあって、このハロウィン吸血鬼物のスペクタクル性は、夏に納涼で怪談物をする歌舞伎のようなものなんじゃないかと思った。

畳みたいな床の境界線が光る、二階席三階席の側面も光る

 

また、同じ週の月曜日の映画学の授業がヴァンパイア特集で、先行研究を読んでいた。そこで、ヴァンパイア映画の特徴として「ヴァンパイアは必然的にクイアである」という項目があった。この劇でも、エリは、性別についてオスカーに聞かれると「Nothing」と答え、後に元々名前がエリアス(男性名)だったことを明かす。エリは執拗に「私が女の子じゃなくても好き?」ということをオスカーに訪ねるのだが、この時、性別と吸血鬼ということと二つのことが含意されているのだ。エリは男でも女でもないクイアな存在で、オスカーとの関係は単純な異性愛を超えたものだった。この孤独なものが惹かれ合うという感じ、最後に旅立つ感じ(漂流者であることもヴァンパイア映画の特徴)、『ポーの一族』と同じだ。これが吸血鬼物の特徴なんだということをよくよく学んだ。

宇宙空間の桜の園ーVinay Patel翻案『The Cherry Orchard』

マンチェスターHOMEシアターでの上演。二列目のほぼセンターで観劇した。前列も誰も座っていなかったので最前列ではあるが舞台をかなり見上げる形になるので見えにくい部分もあった。二年生向けの近代劇の授業の一貫で無料で観ることができた。無料チケットなのに全然申し込む人が少なく、不思議に思った。忙しいのだろうか。

homemcr.org

本題に戻ると、翻案はヴィネイ・パテル(Vinay Patel)、演出はキャリル・チャーチルの劇を多く手掛けるジェームズ・マクドナルド(James McDonald)だ。舞台上には円形の回転式のセットが組まれていて、大体回り続けている。中心の軸が何らかの操作盤がある。そこに、声のみの登場で、AIになったメイドのドゥニーシャが組み込まれている。

開演前の舞台の様子

理解できているか怪しい部分もあるが、宇宙船の中にも階級があって、舞台となってる場所の下に下級の一般の人達が暮らしている。宇宙の外に移住できる星が見つかったので、ロパーヒンは桜の園の木を切ってシェルターにするなりしてすぐにでもそこに行くべきということを提言するが、現在の生活に満足しているラネーフスカヤ達はあまり賛同せず…という筋だった。SF版にしたことで生まれる、上手い思いつきのようなものが所々に挿入されていて、特にロパーヒンが新しいキャプテンになったという事が、彼が曲を変えてとAIドゥニーシャに頼み、彼女が「はいキャプテン」と答えるということで示されているのはスマートだった(最初の場面でキャプテンじゃないと曲を変えられないという事が明示されていた。)

 

舞台全体としては、SFになったことでより喜劇的な要素が増していたように思う。例えばエピホードフがドゥニーシャに惚れているというのは相手がAIになったことで更に面白みが増しているし、フィールスが老人ではなく古いお手伝いロボットになったことで、彼のボケの痛ましさ、実際のおじいちゃんを想像してしまう感じが少し和らげられていたようだった。更に養女ワーリャというと堅物なイメージがあるが、この作品ではぶっきらぼうではあるもののかなりはっちゃけた激しい気性の女性として描かれていて、コミカルな部分もある。アーニャの恋人のトロフィーモフを嫌っているところが、彼とだけダンスを踊らなかったり、両手でfサインをしたりと表情と行動から明確に示されていたのが面白かった。また、彼女はトランプマジックをしたり、第二幕でニンジンを生のままかじるので、省略されたシャルロッタの面白い人格が少し影響しているのではないかと思った。もう一人の気性が激しい登場人物がロパーヒンで、最後の二人が結局別れてしまうシーンは熱海殺人事件並みの熱い演技だった。

一方でアーニャとトロフィーモフカップルはこのAIが中心にずっといる空間では完全に二人きりになることができず、NT版「桜の園」など以前見た上演よりも更にプラトニックだ。ワーニャが強烈な個性を発揮する中、アーニャの印象が薄い。

 

キャストは途中やって来る浮浪者役(宇宙服を着て外からやって来る)を白人女性が演じている以外は全員南アジア系だ。舞踏会では伝統的な踊りが用いられているのだが、長い間宇宙で過ごし、代を重ねたことによってその先祖文化や歴史というのは薄れているようだった。というわけで作品内でインドに関することが言及されることは特にないのだが、宇宙船の中にも存在する階級制や、イギリスとインドの植民、被植民の関係性の反転のテーマということが意識されているかもしれない。

 

回る装置も見事だが、差し込んでくる太陽の光など照明効果も美しく、ロパーヒンの昔の記憶という形で息子の映像が幕切れに使われる等、映像も効果的に使われていた。桜の園のト書きにかなり忠実な部分(エピホードフの音の鳴る靴、ワーニャはSFに不釣り合いな鍵の束をジャラジャラいわせている等々)と変化している部分(木を切る音がチェーンソーになっている、ドゥニーシャが踊れない代わりにロボットロパーヒンが舞踏会で踊っている等々)のバランスが面白く、これこそ翻案の舞台を見る楽しさという感じだった。

脱炭素演劇ーPigfoot 『Hot in here』ー

Pigfootというイギリスの脱炭素劇団(Carbon-neutral theatre company)の公演で、タイトルからも分かる通り気候変動を扱う作品だ。演出はHetty Hodgson (she/her) と Bea Udale-Smith (she/her)。

www.pigfoottheatre.com

 

気候変動を直接的に扱う劇は、シビウで観たFocus and Chaliwaté Companyの“Sunday”がコミカルでそれでいてテーマもしっかり表現していて面白かったのだが、今回の作品も例にもれず面白かった。教育的な目的の演劇として突き詰めていくと、子供を含めた多くの人に理解されるために少しポップなテイストになっていくのかもしれない。

 

この劇団は脱炭素を標榜しているので、もちろん当日パンフレットやチラシの類は配られないし、舞台のセットも段ボールだったり、木だったりでできている。舞台の下手奥にある円い装置には映像が投影され、その前方に東京フレンドパークの足で光を止めるやつ(フラッシュザウルスというらしい)みたいな装置があり、演者がこの上で飛ぶとその下に巻き付けてあるネオンのライトが光るという仕掛けになっていた。

開演前の様子



また、話の筋とは絡んでこないのだが舞台の下手側に手話通訳の人がおり、その人の手話がかなり雄弁で感情表現が豊かだったのでたまに目を奪われた。

 

話は大きく分けて導入部と、女性三人のそれぞれの生活が描かれる本筋、間に挟まれる各国の若者へのインタビューで構成されている。

導入部は、ペルーの神話、文明社会を表すワシと自然との共生社会を表すコンドルが一緒に飛ぶべきだという事が紹介される。この話は日本語調べた時も環境系のブログがヒットしたので、良く引用されている話なのかもしれない。そして、あまり知られていない初期の三人の環境活動家、Eunice Newton Foote, Benny Rothman, Hazel M Johnsonが紹介される。

続いて、舞台は2022年のイギリスに移る、三人の女性キャラクター、Alice, Stelle, Zeldaのそれぞれの生活が描かれ、俳優はそれぞれ自分がメインではないシーンでは脇役を演じている。AK Golding (they/she)演じるAliceはリサイクルセンターで働く一児の母で、仕事中に光るペットボトルを拾って、テレビのインタビューを受けるという妄想(?)を繰り広げる。Elizabeth Ayodele (she/her)演じるStelleはインフルエンサーでよくインスタ投稿やユーチューブ動画の投稿をしている。Keziah Joseph (she/they)演じるZeldaは映画製作者で、妊娠しており、おなかの赤ちゃんに話しかける。大きな筋としては、彼らが例えば熱波で飛行機が飛ばないであったり、実際に経験したであろう異常な暑さであったり、ハリケーンだったりを経験するというのが描かれる。Aliceの妄想のシーンであったり、Stelleが飛行機の問題の時にすぐにSNSに投稿するというのはとても面白く描かれているが、同時に最後のハリケーンのシーンでは三者三様に窮地に立たされ、問題の深刻さというのも描かれていた。

 

若者の環境活動家のインタビューは、場面の間に前述の本筋と少し関係のある話が挟まれる。様々な国の人々の証言が使われることで、世界全体の共通の問題だという事が分かりやすく示されていたと思う。

 

一番会場が盛り上がっていたのが、環境問題を解決する気の無いイギリスの歴代の首相をものまねをしながら戯画的に描くというシーンで、トラスまでは映像があったが、スナクは口頭で言及されるだけだった。観劇した日(11/3)の時点で就任から一週間と少ししか経っていないし、こんなに変更が必要だとは想像していなかったんじゃないかと思った。あとボリス・ジョンソンまでの人はあまり馴染みがなく爆笑の波に置いていかれた

 

話だけではなくて、ダンスや身体表現もあり、映像ありと盛りだくさんの舞台だった。最後には観客全員でウェーブをするように促される、凄い政治的な時間だ!と思った。

個人的には、Alice役のAK Goldingが信じられないくらいチャーミングで魅力的で最高だったので今後も注目したい。

上演後の様子、QRコードからは感想フォームじゃなく、公演資料にアクセスできる

 

完成度の高いヒップホップパフォーマンスーBoy Blue”Black Whyte Gray”(おまけにジャージーボーイズ)

授業でオススメされたこともあって、観劇した。歩いて20分くらいのHOMEシアターでチケット代は、2000円くらい。

Kenrick Sandy と音楽プロデューサーのMichael Asante によって2002年に設立されたヒップホップダンスカンパニーBoy Blueによる公演だ。全然知らなかったのだが、The Guardianの紹介記事によると、オリヴィエ賞をPied Piperという作品で受賞したり、オリンピックでも振付をしたり、イギリスの演劇界でヒックホップの地位を確立した偉大な劇団であるようだ*1

www.boyblue.co.uk

 

この作品は、2017年にロンドンのバービカンの劇場で初演されたもので、レパートリーとしてツアーで公演しているらしい。先月がブラック歴史月間だったので、その関係もあって上演されているのだと思われる。

 

上演を観ていくと、一時間半ほどのダンス作品で、場面はホワイト、グレイ、ブラックの三つに分かれている。場面に応じて、衣装やコンセプト、ダンスもシーンごとに少しずつ変化する。

ホワイトでは、白い衣装を着た三人のダンサーが登場し、ロックダンスと呼ばれる、停止を大事にするダンスとロボットダンスが融合したようなダンスを踊る。牢獄のような照明が当てられ、腕を後ろにするような振りから、監獄の中に閉じ込められているような雰囲気があった。

Grayは、背中ばいのようにダンサーが出てきて、カンパニー全体の8人で構成する場面だ。こちらのダンスは、足を蹴り上げるような振付やバク転があり、ダイナミックでアクロバティックな雰囲気だ。銃を構えるような動きがあって、戦争が想起させられた。

Blackでは、一人のダンサーが他の人達の前で何度も失敗するようなダンスが繰り返され、強い男性性が求められるということとその崩壊を描いている様だった。

 

全体的に小道具は使われず、その分スモークと照明効果というのが強調されていた。

特に、観てもらいたいのだが、スポットと全体照明が音楽と振りに合わせて切り替わるというのが何度か繰り返されるというシーンがカッコ良すぎた。思わず調光卓を見てしまった。また、ズボンや化粧に発光するペイントがつけられていて、照明が暗くなったら光るという効果もあった。

兎に角、ダンスに寸分の狂いもない、ハイパーテクニックという感じで、完成度が高かった。言葉では表しきれないし、後半に行くにつれ全然メモを取っていないので、チャンスがあれば観てほしい。

youtu.be

結構HOMEシアターのキャパは小さくて、しかも空席もあったので、客入りは多くない、200程度ではないかと思われるのだが、それくらいの小さな劇場でこの演目が観れるのは贅沢だと思う。

イギリス初の完全なるスタンディングオベーション

 

この次の週には、オペラハウスに「ジャージーボーイズ」を観に行ったのだが、席が後ろ過ぎたからか、ボーカルのフランキーが全く歌が上手いと思えなかったからか、隣の観客がめっちゃ歌うからか、特に一幕は全然楽しめなかった。

原作になったフォー・シーズンズの曲を聞くと、似せているという事は分かるのだが、その特徴的な声が受け入れられなかった。

二幕は隣一列の客が全員いなくなり(そんなことある?)、見やすい場所に移ったこともあり、知っている曲が増えたこともあり、一幕よりは楽しめたと思う。

日本でも同時期に上演されていたと思うので、曲を知らない人も多いであろう日本では同上演されていたのか、いつか観てみたい。

前方の一人が視界を遮っている図、舞台上方も傾斜がつきすぎてて全く見えない(トートの登場が見えないエリザみたいな)

 

ブラックミュージカルの間演劇性-『The color purple』-


ピューリッツァー賞を受賞したアリス・ウォーカーの1982年の小説を基にしたミュージカルで、1985年にはスピルバーグが映画化している。

劇場前のポスター写真

 

劇場はThe Lowryという大学からバスで30分くらいのところで、割引チケットで三列目を実際の値段の半額以上の3000円くらいで買うことができた。また、字幕がある回の上演でより理解することができた。毎回やってほしい。

The Lowry、BBCとかが近所に合ってキラキラ新興都市という雰囲気。

 

奥行きが半分位で、家のような形の高さのある二対の壁によって区切られている舞台。この壁がすごく圧迫感があって、明らかに家庭内に押し込められている主人公セリーの家に対する恐怖感だったり抑圧だったりを視覚的に示しているようだった。

三列目からの景色。壁の圧迫感…。

この壁は、映像も映せるようになっている。最後絶対取り払われると思っていたが、流石に動かせるサイズではなくて、壁の扉が大きく開かれただけだった。

舞台には進行役の女性シンガー達が三人いて、コミカルにテンポよく話を進めていく。

とにかく、子供の時から父親に性暴力を受けて、無理やり結婚させられた夫にも奴隷のように扱われて、暴力を振るわれて、妹からも引き離されて、辛いことしか起こらない。それだけでなく、彼女もそういう思想に慣れきってしまって、義理の息子ハイポに結婚相手のソフィアの尻に敷かれていることを相談されたら、(夫の監視下ではあるものの)家庭内暴力を肯定するような返事をして、ソフィアに失望される。 

ただ、夫の元彼女である、歌手のシャグ・エブリーが体調を崩して家に滞在し、友情関係を育む中で彼女は変わっていく。セリーのシャグに対する感情は明白に恋愛感情として描かれていて、新鮮だった。

 

彼女たちの関係は、最終的にセリーの仕事にもなる衣装によって示されている。良い関係性の時は二人ともタイトルの反対色であるオレンジを着ていて、別れる場面でシャグが紫っぽい服に着替えるというのは分かりやすかった。

 

授業で学んだ、間演劇性、インターシアトリカリティというのを考えてみると、大体少しずつ形は違うものの以前見たドリームガールズとほぼ一緒の型だということに観劇中に気づいた。というのは、主人公の黒人女性が苦境を経て成功を掴む、黒人男性が最悪な家父長制男、最終的に勧善懲悪で黒人女性が黒人男性を打ち負かすという一連の流れだ。観客のマジョリティは白人で、彼らがこの酷い黒人男性にブーイングをするのだが、そもそもの問題というか、白人と黒人間の差別が周到に隠蔽されているような印象を受けた。二作品を短期間で観たことで気づいたことなので、これがまさに間演劇性だと思う。

ダンスフロアドラマツルギー-OUTBOX『GROOVE』

OUTBOX『GROOVE』@CONTACT THEATRE(寮から徒歩三分くらい)

 Ben Burattaという演出家の元、2010年に結成された劇団で、“Outbox create spaces where queer people can dream and imagine”というキャッチコピーにもあるように、LGBTQの人々の出演する、彼らがテーマの作品を創っている劇団だ。

 今回の『GROOVE』は、クラブがテーマになっており、若者から老人のクイアな人々がクラブに集まるという枠組みで踊ったり、歌ったり、と明確な筋の無いシーンが続いていく。どのように理解すればいいか、ブログにまとめればいいか非常に難しい作品なのだが、彼自身がHIV/AIDSについて扱った前作『Affection』に関わる論文*1で、自身の作品を以下の三つのドラマツルギーを用いて説明していた。

「ダンスフロアドラマツルギー」:①クイアなダンスが行われる空間、②政治的社会的な空間、③劇創作のプロセスに通じるような劇的な空間(p.58)

「クイアドラマツルギー」:キャラクター、時間、場所などを固定せず、規範とされる表現に反対する。異なる創作プロセスで制作される等々

「バイラル(拡散的な)ドラマツルギー」:ダンスフロアで上演することで、普段演劇に触れない層にも広める(p.59)

(日本語翻訳はテキトーです、信用しすぎないでください…)

 

 これらの理論に基づいて、前作はダンスフロア、つまりクラブで上演していたものが、今回は作品のテーマ自体がダンスフロア、クラブになっていた。筋が無いシーンの連続での構成は、「クイアドラマツルギー」に基づいており、私たちも西洋演劇の伝統のような、従来通りの基準で評価するべきではないのだろうと思う。

配役:

Fraser Buchanan (he/they), ダンサー

Lavinia Co-op (he/she/they), ドラァグパフォーマー

A de Castro (they/he), クラウンなどのパフォーマー

Sky Frances (they/them), RADAの卒業生、プロデビュー作品

Jacob Seelochan (all pronouns),ダンサー

Kim Tatum (she/her)黒人トランス女性、女優、活動家

 

 舞台の話に移っていくと、舞台上は上下に階段のような、座ることもできるセットがつけられ、また、舞台中央から出ることができるようになっている以外は特に何も置かれていない。舞台奥の壁は映像を映せるようになっている。舞台下の右手からスーツを着た年老いたおじいちゃんという印象を受ける人(Lavinia Co-Op)が出てきて何かを探すようにしながら舞台上に上がっていくと、グルーブ感のある音楽が始まって、出演者が集まって来る。それ以降はずっと舞台はクラブで、Kim Tatumがクラブの主人のような感じで歌い上げたり、ローラースケートで滑走したり、Sky Francesが自由になることができるクラブへの愛着に関わる独白をしたりする。私たちを勇気づけるような明るいシーンが多い。

 印象的なシーンがいくつかある。まずは、ブロンドでピンクの可愛い服を着て、長髪という女性的な記号を纏っているJacob Seelochan、Fraser Buchananの二人が男らしさを見せるような、上腕二頭筋を隆起させるような振付をしながら、衣装を脱いでいって男性的な身体を見せるシーン。また、Lavinia Co-Opが登場から来ていたスーツを脱いだら青いワンピースになって、舞台上でドラァグのメイクアップをするシーンだ。こういう性別の記号を脱ぎ着して変身していくような、曖昧にするようなシーンは刺激的だった。また、A de Castroが観客をみて、こちらに「レズビアンレズビアントランスジェンダー…、あとへテロも」というような台詞を言う所はクイア版の綾小路きみまろかなと思った。

 ダンスは舞台上だけでなく、頻繁に客席で観客の周りで、観客を巻き込みながら行われる。やはり元々はこの作品も劇場ではなくて、クラブのような境界の無いより狭い空間で上演することが意図されていたのではないだろうか。授業ではこのようなダンスフロアでのダンスは即興的なもので、相手がいなくてもできるからヘテロセクシュアルの構造の外にあるものだと言っていた。私は本当にヨーロッパで過ごす中でクラブ的な空間が苦手だったのだが、この作品を見て良い部分をたくさん知ることができた。だからと言って行くことは無いと思うが…。

 

追記:

この作品かGECKOの『KIN』で英文2000文字以内のレポートを書くことになった。本当に先に言っておいてほしいという感じだ(記憶が曖昧なので)。いくつかの場面を抜き出して論じることになるので、Lavinia Co-Opに着目しようかと思うが、老いとドラァグについて考えると大野一雄とかとも結びついてくるなと思った。

 

劇場、メンバーシップに加入したので半額でチケットが買える(元を取れるかは怪しい)

 

*1:Buratta, Ben (2020) Dance-Floor Dramaturgy: Unlearning the Shame and Stigma of HIV Through Theatre. Theatre Topics, 30 (02). pp. 57-68.