バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

Scot Summer Season 2023 利賀村に行ってみた

注:全然嬉しい誉め言葉の多いような感想ではありません。

 

今まで日本にいる時はコロナで、全くそういう日本の重要な演劇について観れていないし、今後も行けるかどうか分からないと思ったので、9/8~9/9に人生経験として初めて利賀村に行ってきた。古代ギリシャ劇の現代上演を少し研究しているので、日本の上演に関しては蜷川と並んで評されることの多い鈴木忠志の上演は一度観ておきたいという気持ちもあった。

予約は電話のみで、チケット料金も「お随意に」という投げ銭制で、山奥の村が会場なので、行くまでは楽しみな気持ちと少し恐怖も感じていた。

劇場に向かう道中。

 

〇外部劇団の上演

一演目目:SPAC『お艶殺し』@利賀山房

 最初に脱線しておくと、私は今というか少し前まで、芸術座の松井須磨子、中村吉蔵、島村抱月に関わる文献を読みまくり、研究というよりこの三人の具体的なエピソードを読んで実際の人間性を想像する生活を送っており、『お艶殺し』も最初に彼ら芸術座が第九回公演として『お艶と新助』として上演した方ということへの興味の方が強かった。そして、その興味は実際に演目を観て、お艶が須磨子に良く似合いそうなファム・ファタルで、「ジプシー型の女」であったことから、更に強まった。というのは、この作品はおそらく芸術座の公演の中で一番不評を集めた作品だからだ。当時の批評がはっきりした言い回しで面白いので無駄に引用する。

~近頃の珍〇、一同の度胸に感服した、深川の芸妓や侠客や船頭や遊人が大訛りの鉄火の台詞には寒気を感じた。 *1

世話狂言としては面白いのだが、何しろ此種の劇は、未だ嘗て、演った事の無い此一座が、然も演出に至難らしい、江戸時代の深川芸者を主人公として、その周囲の人物、乃至情調を現はそうとするのであるから、其志は健気だが、気の毒ながら見られ無い。それに、使ひ慣れない江戸言葉を無理に云はうとして訛るから、変な田舎言葉の訛りの様に聴こえて、耳障りなこと夥しい。*2 

脚本から云えば可成いゝものである、併し舞台効果から云っては甚だ遺憾である、江戸時代の殊に深川から向島を場所として登場人物は悉く江戸ッ子である此劇を地方訛沢山の此連中が演出することは大胆過ぎる。理解ばかりでは芝居は出来ない、私は芸術座の無謀に驚かない訳には行かぬ。 *3

その他によろづ朝報1917年3月11日号や早稲田文学大正6年4月号でも同様に批判されている。初めて取り組んだという髷物の不慣れさや、田舎の方言が都会のインテリ批評家には受けなかったのだろうと思われる。加えて、劇団の裏事情としては、相手役の沢田正二郎と須磨子の不仲があり、作品にも影響を及ぼしたかもしれない。この公演の直後に沢田やその仲間たちは二度目の脱退をし、新国劇を立ち上げる。このように、様々な要因があり芸術座の公演は不評に終わったが、今回の演出版のように現代化して上演したら案外うまくいったかもしれない。

 

 今回の上演は、古民家の舞台で行われ、中央には舟型のセットが置かれている。これは上演後に話を聞いてわかったことだが、旅芸人のコンセプトだったようで少しサーカス団員ぽい衣装で、芸術座の公演程の本格的な日本物ではなく現代化されている。キャストは、団長みたいな人が下手前にずっとおり、ナレーター的な役割を務める。新助は女優によって演じられる。他には様々なお艶に翻弄される男たちを俳優が入れ代わり立ち代わり演じている。

 話は面白く、借景等の演出もあって「観ていられない」ことは無い。途中途中で「お艶殺し」とタイトルを言う台詞が入るのは、CM前後に特有の映像が流れるアニメみたい(コナン的な)で、しかも最後にお艶が殺されるのだという結末を意識させられてよかった。ただ、その旅芸人のコンセプトは、最初に特に付け足しの説明や場面があったわけではないので分かりにくい。終盤それまで新助をやっていた俳優が刺されて、そのまま死んでしまったという展開があったようなのだが、カーテンコールで彼女が起き上がらないことはすごく不審に感じたものの、それがどういうことかはよく分からなかった。メタシアター的な、上演されることで物語が繰り返されているということや現実と演劇の混ざり合いを強調するのはいいとして、あまりに伝わらない。団長が新助(彼女)を刺して、代役として新助を務めるようになるのだが、線の細い美人の女優さんから恰幅のいいおじさん俳優に変わるので、お艶の脳内ではこう見えているということなのか等と的外れなことを考えていた。

 また、確かに話としては面白いのだが、1915年に出版され、特に近年よく上演されているわけでもない小説を上演するのであれば、それなりの意味や問題意識があるべきだと思う。特に、谷崎の描くお艶はその当時の『サロメ』といったファム・ファタルの女性の人気を反映したような『妖婦』『毒婦』である。そういった女性登場人物を上演するには、もっと、谷崎作品が好き、読んで面白いという見方とは別に批評的な目も必要なのではないか。そういう意味で物足りなさを感じた。

この作品は『お艶の恋』とタイトルを変えてまた上演されるらしい。

 

三演目目:『窓の外の結婚式』@創造交流館

 青年団制作の、世田谷シルクの堀川炎演出の作品。東北大震災で恋人や家族を失った女と彼女と再婚した男の物語で、柳美里が元々朗読劇として執筆した作品らしい。

 主人公の女性への共感が全くできず、むしろ離婚しろよとイライラしてしまい、物語にも入り込めなかった。久々にこんなに観ていられない作品に出会ったという感じで、開始五分経たないうちに会場から抜け出したいと思ったが、さすがに無理だった。主演の鄭亜美さん絶対バレエやってたとか、椅子を馬に見立てるやつに思わせぶりな照明が映ったので、影が馬なのかなと思って観たら全然馬じゃないというようないらないことを考えて過ごした。ただ、ということでもないが、別に批評はしてもいいと思うが、常磐線舞台芸術祭やこの後の豊岡演劇祭では、野外で上演されていたらしく、福島でサイトスペシフィックにやったものを、利賀の山奥のホールでやったとしても、文脈や背景は途切れてしまって全く違うものに変わってしまうだろうと思った。野外上演が完成形で、その上演を観ていたらもっと面白かったのだろう。

 

〇Scotの公演

トロイアの女』@新利賀山房

 書こうと思えばいくらでも書けそうなので、逆に先行研究も見ずに、印象だけの感想にしたい。まず舞台は上手が三人のギリシア兵たちで、下手がトロイアの女達、ヘカベ/カサンドラ役の人が下手中央にいて、コロスらしき人達がその背後に並んでいる。中央奥には動かない神像がおり、中盤からは僧侶のような人や車いすに乗った老人が出て来る。衣装は和風の着物のようで、浪人のようなギリシア兵や音楽の雰囲気は少し黒澤映画のようだと感じた。

 俳優の演技はすごく揃っていて、動きもミスが全く見当たらないのだが、反対に俳優の演技や自由意志というのは全く感じられず、少し恐怖を覚える。また、他の作品でも同様で、男性俳優の台詞ではそこまで感じないのだが、女性俳優が非常に低い声で力強く発声している台詞が非常に聞き取りにくい。特に松平千秋訳なので、内容を知っていても難しい部分があった。

 劇は前半では、ヘカベがカサンドラも演じることに驚いた。また、コロスが徹底的に喋らないようになっていて、本当の戦争の被害者は証言させてもらえないという解釈もできるが、個人的な好みとしては少し残念にも思う(難しいコロスの演出に挑戦してほしい気持ちがある)。後半、古代のトロイアが、日本の第二次世界大戦後の風景と重なるようになっており、ヘカベは焼きだされて、器を片付ける老婆で、アンドロマケは花もしくは自分自身を売る少女として登場する。この少女は、ずっとただ静止していた神像に花を投げつける。神様というものへの不信を感じた。

 この後のエンディングで流れる曲が、欧陽菲菲の「恋の十字路」なのが、非常に気持ちが悪いし、今までの力強い女性俳優達の身体や台詞とあまりに乖離していた。

 

ディオニュソス』三か国語版@利賀大山房

 一番観たかった作品で、チケットは取れていなかったが、急遽(無理やり?)観ることが出来た。ペンテウスを中国語話者の俳優、カドモスを韓国語話者の俳優が演じている。『バッコスの信女』の話は、結局、東西の異文化の衝突の話であると思うので、このような多言語上演には非常に適した題材であると思う(実際に鈴木忠志も「文化摩擦を扱った戯曲である」と述べている)。ただこれをアジアの三国で、しかも日本を舞台にしてやるというのは、考えれば考える程問題ずくめでもあって、ではペンテウスに対してペンテウスというのを中国と日本と考えてしまうと、ペンテウスを最後女装させたり、母親に殺させたりするという展開が、かなり政治的な意味も帯びてきてしまう。例えば、ペンテウスの女装のシーンでは、実際には日本風でも女性風でもない衣装に着替えていたが、台詞では着物を着ると言っていたので、非常にハラハラした。逆の配役でも観てみたいし、字幕が日本語で日本語話者だけが全ての内容が理解できるというのも偏っていると思うので、中国語や韓国語は別に翻訳しなくてもいいのではないかとも思った。相手の言っていることが分からないというのは面白い経験だと思う。

 一番大きな変更が、ディオニュソスが実体として存在せず、声だけであり、出番も少なくなっていることだ。その代わりにディオニュソス、またコロスとしての役割を果たす男性の僧侶が新しく追加されていた。また、女性の役は少なく、シーンの途中で紅白の着物を着て舞台上を横切るというのと、最後僧侶たちがペンテウスを殺した後に、舞台奥からそのペンテウス(人形)の首を持ってアガウエが登場するだけであった。パンフレットを読むと、ディオニュソスという神は存在せず、カルト宗教のような団体で、アガウエが殺さないのも、彼女がスケープゴートにされたという解釈であったらしい。

 

 「トロイアの女」と「ディオニュソス」どちらにも共通して感じたのが、まず作品の主題が「戦争」「争い」にフォーカスされていて、逆に女性であったり、ディオニュソスの男か女か分からない曖昧なジェンダーといったテーマは捨象され、非常に男性的なドラマになっている。また、神様や仏様への不信があり、徹底的に人間中心的である。どちらも、私の好む、今観たい解釈とは異なっていた。また、非常に近代とか戦後の風潮を感じた。そして、これはどうしようもないが、どう考えても白石加代子が元々演じていただろうという役が、白石加代子でしかない。

 

『世界の果てからこんにちはⅠ』@野外劇場

 作品内の引用も昭和歌謡も分からないが、とにかく野外劇場の舞台に左右に桟橋がついて、そこを車いすの人達や傘を持った人が縦横無尽に使っているのが面白いし、何より花火が想像以上のスペクタクルだった。また『マクベス』のマクベス夫人が亡くなるシーンで、夫人の名前を呼ぶ部分を日本に変えるというというのも上手くはまっていた。話の内容は、日本の戦後やアメリカとの関係で、真面目なものであるのだが、やっぱり花火がすごかったとしか言いようがない。終演後にはお酒や野菜が配られて、お祭り感があった。これを上演して、最後にまた来てねというのはずるいなあと思う。

すごすぎる

 

 二日間しかいなかったが、5本も見ることが出来たのは非常に充実していたし、演劇学の勉強としてはよかったと思う。一方で、演劇祭?なのに(サマーシーズンだから違うのかもしれないが)、テーマや、何故この作品が上演されているのかということもよく分からず、特に前半は面白いと思う作品がなかったので、辛かった。外国の観光客が多いのに英語や中国語の字幕が全く無いというのも気になった。また、作品を観て、鈴木忠志トークを聞いて、世代の違いや感じ方の違いを痛感させられた。まあ多くの人が評価しているし、権威は揺るがないだろうし、一人の大学生が色々書いてもいいだろう。

 

*1:1917年3月13日「芸術座覗き」朝日新聞

*2:1917年3月13日「新富座の芸術座劇」読売新聞

*3:1917年3月14日「新富座の須磨子」毎日新聞

夏の観劇感想:次に進むための記録として

久々のブログの更新で、メイさんに紹介してもらっているのにも気づかなかった。

 

199.hatenablog.jp

ありがとうございます。豊岡演劇祭で会えるのが楽しみ(私信)

 

帰国後、何故か一時帰国と間違えられることが多い。そうしたい気持ちはありつつ、しかし目の前の大学を卒業しなければならないので本帰国(?)

帰国後は実家の方にいると、ヨーロッパでの生活が嘘のように全く上演に触れられない生活で1か月と少しを過ごした。その間に観た作品。

 

・宝塚花組公演『鴛鴦歌合戦』『GRAND MIRAGE!』

・令和5年夏休み文楽特別公演『夏祭浪花鑑』

・PARCO『桜の園

東京芸術劇場『エブリ・ブリリアント・シング ~ありとあらゆるステキなこと~』

・宝塚星組公演『1789』

・Co.山田うん『In C』

・宝塚月組公演『フリューゲル -君がくれた翼-』『万華鏡百景色』

 

 とにかく、このラインナップの中でも文楽の『夏祭浪花鑑』は圧巻で、久々ということもあり、浄瑠璃人形遣いの熱気を浴びてきた。ツイッターにも書いたが、「長町裏の段」がスペクタクルで大変良かった。配役も団七が人形遣い玉男さん、浄瑠璃太夫さん、義平次和生さん藤太夫さんで力の入りようが分かる。こんなに面白いのに毎回客入りがめちゃくちゃ悪いのがもったいないなという気持ちになるが、研修生で女性をまだ認めていない旧弊さにはうんざりなので、大手を振ってオススメは出来ないのが残念。

 

 PARCOの『桜の園』は、子供の不在を表す系の演出はケイティ・ミッチェルが『オレステイア』で失敗したやつじゃないか~と、『ケイティ・ミッチェルの演出術』を読んですぐの観劇だったので思った。戯曲の要素としては確かに存在するけど、そう何回もやられると観客の理解力を信じてほしいという気持ちになるし、当のラネーフスカヤの人間性や現在の生活は単にその息子の死だけが原因ではなさそうなので、あまり上手く結合してないなと思った。また、環境破壊に関する劇だと思っているので、ツイッターで目にした、ロパーヒンは正しいことを言ってるのに、貴族の人に耳を傾けてもらえなくて可哀想というような感想には、(確かにラネーフスカヤにも全く共感できないし、ロパーヒンは話を聞いてもらえないから、観客に話しかける構図になっていて共感を誘うのかもしれないが)同意できないなと思った。まあ感想は人それぞれだが、とはいえロパーヒンを正しいとするのはあまりにも資本主義的な考えではないか…。私は、派手な演出が好きで、戯曲的に盛り上がる場面でもあるので、三幕のクラブの演出は結構好みだった。また、不審者の場面と最後のフィールスが置いていかれる場面もいつも注目して観てしまうが、突然現れるオレンジ不審者感とフィールスの孤独老人感は良かった。最後やっぱり木を切るのは現代的なチェーンソーになっていたが、フィールスの台詞終わりでチェーンソーの音が響くことが無かったのは雰囲気を守る為だろうか?

 

全体通して、NT版でみたクラシック『桜の園』よりは面白かったが、SF版『桜の園』には斬新さの面でも及ばずという感じだろうか。何故か『桜の園』ばかりめちゃくちゃ観ている。あとは、もんささんのブログで書かれていたことに概ね同意で、記事も引用されていて面白くて参考になったので引用する。

monsa-sm.hatenablog.com

 

 宝塚星組の『1789』は、礼さん復帰後の公演だし、瀬央さん星組最後だし、有沙さん退団だし、色々な感動はあったのだが、そもそも作品としてはあまり好きじゃないかもしれない。なんかすごいロナン無理やりで、アルトワ伯も瀬央さんが演じているとはいえ、めちゃくちゃ気持ち悪い嫌な奴だ。というか、前の上演と比べられるからか、曲のカットや出番が組内のヒエラルキーに対応している様がハラハラするし、応援している天飛のフェルゼンの演技が全くスタイルに合ってなくて、高貴な雰囲気の発声が上手くないし、ナンバーへの出番も少なくて満足できなかった。フィナーレの群舞での天飛はめちゃくちゃ良くて、やっぱり好きだと思えて安心した。あと、客席から民衆が登場する時に、めちゃくちゃ客が拍手するのもすごいドラマを邪魔していた気がした。星組ファンの拍手の上手さがが裏目に出ている。ということで、星ファンで、久々の観劇で、最高なはずなのに、なぜこんなに心がモヤモヤしてしまうのか、なぜ純粋にカタルシスに浸れないのかと、いろんな意味で悲しくなってしまった。うーん演出のせい?人事が気になってしまうせい?

 

 

あとの作品も楽しんだが、このブログは次のブログを書くための、次のブログの最初にいらないことをベラベラ書いてしまうのを防ぐためのいわば前菜なのでこの辺で締めたい。

大阪の方に移ったので、今後はもう少し観れそうと言いつつ、夜働くバイトを始めた為、すでにNTライブの『Best of enemies』は見逃してしまうことが確定した。字幕付きで観たかった…。

世界演劇祭 in フランクフルトの感想 (後半:『10 𝘖𝘥𝘥 𝘌𝘮𝘰𝘵𝘪𝘰𝘯s』,『弱法師』,『The Cadela Força Trilogy. Chapter I: The Bride and The Goodnight Cinderella』)

前回に続いて世界演劇祭の感想を述べていく。

bnanananana7.hatenablog.com

④『10 𝘖𝘥𝘥 𝘌𝘮𝘰𝘵𝘪𝘰𝘯𝘴(10の奇妙な感情)』サール・マガル @フランクフルト劇場

作品解説(芸術公社Twitterより)

記憶と歴史的責任についてどう語るか。両者が生み出す、時に矛盾する 「奇妙な」 感情について。10 𝘖𝘥𝘥 𝘌𝘮𝘰𝘵𝘪𝘰𝘯𝘴では、ドイツにおける反ユダヤ主義的で人種差別的な暴力の現在に焦点をあて、系譜に関するポリフォニックな芸術的調査による言語、音楽、身体、イメージが躍動する。シャウシュピール・フランクフルトとドレスデン・フランクフルト舞踊団、そしてサール・マガルの指揮の下、フリーランスのアーティストたちの国際的なコラボレーションによって発展した現代身体演劇であり、帰属と排除の経験を検証する。集団であるはずの 「私たち」 の中から、排斥され抑圧された 「異物」 がどのように作られるのか。

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1679837269585436672

 まずこちら側の不足を言い訳すると、2列目を選んだのが大きな間違いで、1列目の人の頭ですごく見にくいし、全体像をつかみずらかった。もうひとつ目の間違いは、ドイツ語で引用されている言葉が全く分からないということで、開演前にコインランドリーで洗濯していたのだが、それが意外に時間がかかったので、上演前に配られたという英語の解説を貰うことが出来なかった。同じく上演を鑑賞されたニオさんのブログではその引用の内容について(キャリル・チャーチルの『Seven Jewish Children 』も引用されていたとは…!)が詳しく説明されている。

freepaper-wg.com

 このようなこちら側の不足はあったのだが、全体的に私はあまり面白いと思えなかった。覆面をつけて個人を特定できないような状態で始まって、その後マスクを取って自己紹介するというシーンや、延々と紙を並べていくシーン、本を使ったシーン、普通に踊るシーン、急に赤ちゃんの人形が登場して動き出すシーンなど色々面白そうな工夫はされているし、ユダヤ、人種、差別といった深いテーマを扱っている。ただ、言語が分かっていないこともあってか、よくある場面の切り貼りのようにも感じて、どうにも退屈してしまった。ダンスについては知識が全く不足していて、どういう所が良くないのかクリアに表現することが出来ずモヤモヤする(今後勉強したい)。

 

⑤『弱法師』市原佐都子 @フランクフルト劇場

上演前の様子

作品解説(芸術公社Twitterより)

劇作家で演出家の市原佐都子が日本の文楽の「弱法師(俊徳丸伝説)」を再解釈して編み上げる大人向け人形劇。原作では子供は捨てられ、病人は差別され、最終的に全員が贖われるが、市原は善悪の悲劇的な物語をはるかに超越してみせる。市原は、近親相姦や小児性愛などの社会的タブーが人形に「移される」とどうなるのかという問題に対峙している。従来の文楽人形を、ラブドールやマネキンなど、欲望や暴力を具現化した存在に置き換える。文楽では義太夫と呼ばれるナレーターとして、女優の原サチコが物語を案内する。鶴田流薩摩琵琶演奏家でファンシー・ノイズを奏でる西原鶴真は、伝統的な薩摩琵琶の音、ノイズ、電子音楽を組み合わせ、非日常的な構成を作り出す。そして二人は力を合わせて物語を進め、世界を仲介し、人形を生き返らせる。

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1679839396001087488

 2幕物で、1幕目が俊徳丸の実家の家、2幕目が俊徳丸が働くマッサージ店で展開される。題材の「弱法師」はパンフレットにも書かれていた通り、能『弱法師』、文楽、歌舞伎『摂州合邦辻』、三島由紀夫『近代能楽集』、寺山修司身毒丸』と様々な作品に用いられているので、どのようにそれらの要素を翻案して新しい作品となっているのか非常に興味があった。全体的には、解説にもあるようにやはり文楽をベースにしていて、背景が書割で非常に平面的に表現されていて文楽の装置のようだし、ラブドールやマネキンの人形が出てきて、ダンサーに(一人遣いではあるが)操作されているし、話の展開も、俊徳丸が継母と身体の関係を持ってしまって捨てられる。

 異なっている点として、文楽を観ている時に人形が性的な行為をしていたり、死んでいたりしても、「まあ人形だからな」ということはあまり思わないが、この上演ではそのようなメタ的な視点の語りがしばしば登場し、人間ではない異なったモノとして描かれる。だからこそ、規範を超えた表現を可能にしているし、文楽に描かれるような封建社会以来のどろどろとした家族関係のしがらみを楽々と超えていく部分がある。とはいえ、不思議なもので、父親の交通整理人形が「俺は人形だから疲れないんだ」という風な台詞を言っていると、不思議とそういう風に思いこまないとやっていけない人間のように感じる瞬間もあるし、人形であるはずの俊徳丸が100均で買ったという人形で無邪気な暴力性を見せつつ遊んでいたりもする。このように人形を通して現代の人間の姿を描いている面もあり、人間と人形の境目を攪乱しているようであった。

 また物語を比較して面白いと思ったのが、継子に対する継母の性的な関心を認めていることだ。文楽でも同じく継母の玉手御前が継子の俊徳丸に恋をしてしまうのだが、最終的にそれは跡継ぎ争いから子供を守るための嘘でしたと否定され、規範内に回収されていく。しかしながら、この作品ではそのような欲望の存在は否定されず、そのまま描かれていた。また、最後父親が俊徳丸が働くマッサージ店で性的サービスをされる場面では、お代として体の一部を頂きますと言って、俊徳丸は心臓をぶち抜き、人間になれたと錯覚する。この場面は、文楽で玉手御前が俊徳丸の病を治すためには女の生血が必要だといって自決する場面を、継母から父親へフェミニズム的に書き換えているように感じた。しかも、市原版ではここから更に展開がある…、スリリング…。

 原サチコさんのドイツ語での義太夫節も意外と違和感がなくパワフルで(織太夫さんみたい)、ドイツ語と日本語の字幕を比較してみるという体験(主語があってドイツ語字幕の方が誰の話をしているのか分かりやすい時もあった)も新鮮でフランクフルトまで来て観ることが出来て良かった。豊岡演劇祭でも上演されるらしい。私は、バッコスと蝶々夫人の作品も生で観たい…。

 

⑥『The Cadela Força Trilogy. Chapter I: The Bride and The Goodnight Cinderella(カデラ・フォルサ第1章 花嫁と"グッドナイト・シンデレラ")』カロリナ・ビアンキ & Cara de Cavalo

作品解説(芸術公社Twitterより)

観客は、過去と現在が衝突し、抑圧された経験が戻ってくる空間にいることに気づく。カロリナ・ビアンキは、ここ数十年で起きたレイプ事件を扱っている。このため、彼女は自分自身を最大限に脆弱な立場に置く。パフォーマンス・アーティストのピッパ・バッカが2008年の公演中にレイプされ殺害された事件を取材する中で、ビアンキはノックアウトドロップ入りの飲み物を摂取する。デート・レイプ・ドリンク (別名 「Goodnight Cinderella」 )の影響で眠くなり、やがて意識不明になる。ビアンキの個人的な動機に基づくパフォーマンスは、虐待の被害者の多くが直面しなければならない境界線を示している。無意識で 「記憶のない」 身体にはどのような物語が考えられるだろうか。そしてこの肉体は、他の場面や儀式、対話が展開されるにつれ、最終的に劇場で忘れ去られるのだろうか?

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1680223256652156928

 最初は、一人芝居の形式で始まり、大きなスクリーンを前にして、ピッパ・バッカというイタリア人のパフォーマンスアーティストと、彼女が亡くなるきっかけになった花嫁衣装を着て東欧から中東、パレスチナまでをヒッチハイクするというパフォーマンスについてのリサーチを紹介していく。同時に、女性アーティストの身体を使ったパフォーマンスの系譜も踏まえており、アブラモヴィッチやGina Pane, Tania Bruguera等々の画像も紹介されていた(オノヨーコは無かった)。その間カロリナ・ビアンキが少しずつデート・レイプ・ドリンクを飲んで、最終的には、実際に観客の目の前で意識を失ってしまう。

 ビアンキが意識を失うと、後ろのスクリーンが開き新しいパフォーマーたちが登場して、本物の車も登場して様々なパフォーマンスを行う。スクリーンには実際に起きた、サッカー選手によるフェミサイドの事件の顛末が流れている。その後、車に乗って歌いだしたりとか、車に煙が充満したりとか、色々舞台上で繰り広げられる。最終的には前半で紹介されたアーティストが行ってきたような身体を使ったパフォーマンスを意識のないビアンキがすることになる。これが女性器の中にカメラを入れて、スクリーンに映像を流すというもので、衝撃的だった。最後まで意識を失ったまま終わってしまうのかと思ったが、最後足先のマッサージの後意識を取り戻して、カーテンコールもあって、少し安心した。(早く切り上げて休んでくれという気持ちになった)

この上演は驚かされることばかりで、刺激的で、題材も好みなのだが、一つ、テレビカメラのようなものを使った同時中継的な演出だけはもう許せないというか、他のところが観たことのない光景の連続である分、すごく凡庸に感じてしまう。ケイティ・ミッチェルの頃は新しかったかもしれないし、これから演劇でも映像が普通に使われるようになるのは確かだが、そればっかりで、作品からも浮いているような使い方はつまらないと思う。日本の演出家も今からこれをまねするのはやめてほしい…。(個人の意見です)

カロリナ・ビアンキは今年のアヴィニヨンでもこの作品を上演しているらしい。このアーティストを知ることが出来たのが、この演劇祭でかなり上位に入る収穫だった。彼女の作品に関する論文を読みたいし、三部作の第一部とのことなので続編を観るのも楽しみだ。

 その他にも、美術館での「Incubation Pod」の展示や、小泉明朗さんのVRも体験することが出来た。今まで日本の国内での展示も気になりながらも西日本在住ということもあり観に行くことが出来なかったので、フランクフルトでというのも不思議だが、面白く、良い経験だった。パフォーマンススタディーズへの関心がより高まる。

 また、シビウ国際演劇祭を経験した直後であったので、同じ「演劇祭」であっても内容は全く違うということを強く感じた。例えば、プログラム選定に関しては、フリンジが無いというのは共通しているが、シビウでは、インドアはVicentiu Rahau、アウトドアはDan Barthaが担当して選定しており、そのプログラムは膨大で、面白い演目はあるものの、テーマ性というのはあまり感じられない(検索していたら、シビウに来たいカンパニーはこの二人に資料をメールしなさいという案内を見つけたので興味のある方は是非、https://www.sibfest.ro/en/faq)。反対に、今回の相馬さんのキュレーションは演目数は少ないが、どの演目もジェンダー、人種、気候変動、などなどのテーマやコンセプトが明確であったと思う。

一方で、町全体を巻き込んだお祭り騒ぎ感はシビウの方が強かった。これは、町の規模感や野外上演の有無などによるものだと思う。また、コミュニティを巻き込むタイプの演目は元々の計画から外されてしまったということなので、それが原因かもしれない。そのため、劇場の内部と外部の断絶というのは強く感じて、劇場の中で尖った、社会の問題を広く共有するような作品をやっていても、それらは劇場に来れる特権的な層だけに届いて、それが外の現実とは全く異なってるような感じも受けた。これらは、演劇の上演に広く関わる、難しい課題であると思う。私は面白い演劇を観続けたいと思う人間だが、お金もかかるし、アクセスするのも大変だし、観に行けるということが既に特権的だろうと思う。

 そもそも、演劇祭自体が近年の世界が抱える問題に逆行してしまう部分があるというのも感じる。気候変動の問題や、労働環境の問題(特にシビウは乗り打ちの公演が多いため、いくつかの劇場で深夜に仕込みをしている)、ヨーロッパ中心主義的になりやすい、コネクションの問題、等々色々考えたら、演劇祭を乱立させて、その規模をどんどん大きくしていくことへの疑問もある。でも楽しいんだよな…。今年の秋は日本の演劇祭にも行けると思うので、色々考えつつ楽しみたい。

世界演劇祭 in フランクフルトの感想 (前半:『CHORNOBYLDORFー考古学的オペラ』、『𝘏𝘶𝘭𝘭𝘰, 𝘉𝘶-𝘉𝘺𝘦, 𝘒𝘰𝘬𝘰, 𝘊𝘰𝘮𝘦 𝘪𝘯』、『𝘈𝘣𝘢𝘯𝘢 𝘣’𝘢𝘮𝘢𝘻𝘪 (水の子どもたち)』)

7/11〜7/15までフランクフルトに滞在し、相馬千秋さんがプログラムディレクターを務める世界演劇祭のプログラムを鑑賞することができた。

Bockenheimer Depot外の巨大看板

今回の旅行について

旅程図

本題の演劇祭で観た作品の感想に移る前に、今回の旅程について簡単に紹介したい。まず6/15から7/4までシビウでボランティアプログラムに参加した後、以下のようにマンチェスターまで帰ってきた。

【Start】シビウ(ルーマニア)〜ブタペスト(ハンガリー) Flix busで11時間→ブタペストに三日間滞在

〜ウィーン(オーストリア)Flix busで3時間→ウィーンに三日間滞在

〜フランクフルト(ドイツ)電車ICEで6時間→フランクフルトに五日間滞在

ブリュッセル(ベルギー)Flix busで7時間(夜行)→ブリュッセルに半日滞在

ロンドン(イギリス)ユーロスターで2時間〜マンチェスター(イギリス)Mega busで5時間(夜行)【Goal】

移動に合計34時間程を費やし、ルーマニアからイギリスまで陸路で帰ってきた。

元々はシビウからマンチェスターに戻って、またルフトハンザを使ってフランクフルトに行く予定にしており、しかもむしろそっちの方が格安航空券で安く済んでいた。しかし、その飛行機をキャンセルしてまで陸路の旅を選んだのは、大学でカーボンリテラシー講座を受講したことが大きく影響している。日本に帰国する時にも飛行機を使うことから、私の二酸化炭素排出量が周りの受講生に比べてとてつもなく高かったのだ。演劇界では、ジェローム・ベルやケイティ・ミッチェルが飛行機を使用しないということを宣言しており、他の受講生も、先生も飛行機を使用するのは良くないという考えの人が多かった。

もちろんこのことには色々な議論がある。島国である日本に行くにはどうしても飛行機を使わないと不便だし、飛行機を使わないようにしようという議論は更なる不平等を招く、ヨーロッパ中心主義的なものである。ただ、白黒、やるかやらないかではなく、少しずつでも改善していくことが大事という教えを受けたので、時間もあるし、ヨーロッパ内では飛行機を使わないという目標を設定し、今回実行してみた。

感想としては、かなり体力的にきつい部分も多かったが、予定していなかった色々な国に滞在して観光できたのは楽しかった。去年ルーマニアからミュンヘンに行った際も、飛行機を使って、陸路で行くなんて考えは全く浮かびもしなかったので、意外とヨーロッパ内は(体力があれば)どうにかなるということを周りにも広めていきたい。

 

世界演劇祭について

世界演劇祭では、後半会期の6本の作品を観ることができた。長くなりそうなので、前後半に分け、このブログでは3作品の感想をまず書いていく。(日本語表記は芸術公社のツイッターから引用したものに倣っている。)

 

①『CHORNOBYLDORFー考古学的オペラ』ローマン・グリゴリフ&イリヤ・ラズメイコ / Opera aperta (キーウ)@Bockenheimer Depot

作品解説(芸術公社twitterより)

廃墟と化した劇場、教会、発電所の世界。使われなくなった送電線や、踊る鳥の群れの下を水が延々と流れる。人類の子孫は遺跡の中をさまよっているが、それは一連の大災害を生き抜いてきた、神秘的でありながらも見覚えのある人物たち。𝘊𝘏𝘖𝘙𝘕𝘖𝘉𝘠𝘓𝘋𝘖𝘙𝘍 は、迫力ある映像、伝統的・古典的な歌唱、ダンス、型破りな楽器音で観客を包み込む。作曲家のローマン・グリゴリフとイリヤ・ラズメイコを中心とした学際的な創作チームは、異なる文化的時代の断片、脱工業化時代の風景、ハイブリッドな音の世界の間で本当の空間がぼやけてしまう実験的な音楽劇作品を生み出した。これは、意味に完全に溶解することなく関連性を持つ、終末後の文明の儀式とシンボルを生み出す。

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1678721262519197699

 

 理解するために言語的なスキルはほとんど必要なく、視覚・聴覚に訴えかける現代オペラ作品。ファッションショーのランウェイのように、通路を挟むように客席が組まれ、その入り口側に大きなスクリーン、途中に音楽のブース、奥に祭壇のようなものがある。

上演前の舞台の様子。かなり入り口側の席だった。

 7つのそれぞれ独立した場面(『エレクトラ』、『Dramma per Musica』、『小さなアコーディオンの少女』、『レア』、『Messe de Chornobyldorf』、『オルフェウスとエウリディーチェ』、『Saturnalia(農神祭)』)で構成されており、タイトルからも分かる通りギリシャ劇や神話といった題材や、民間伝承的な題材を基にしている。場面ごとに、毎回スクリーンで映像が流れ、そのスクリーンに映った人物が実際に舞台上に登場してパフォーマンスをするという流れで展開していく。まず、「オペラ」作品として、少しガムラン的な音色の、手作りで作ったというオリジナルの打楽器セットや、アコーディオン、トランペットのような金管楽器などの音色と、自然音をミキシングしたような音楽、またオペラ的な歌唱など音楽的要素が印象深かった。また、それに合わせて、舞台上を静かに練り歩く儀式のようなパフォーマンスや、舞踏的にも見えるコンテンポラリーダンスなども展開される。

 意図的なのだろうと思うが、一つ一つの場面が独立し、神話の引用や、音楽、裸になることも多い視覚的インパクトなど、様々な要素であふれている。言い換えればカオスである。また、例えば『エレクトラ』となっていても、女神的な格好をした裸の女性が、他に女性二人を従えて歩くという場面で、具体的にどのように引用しているかが明らかではない。今考えてみると、「供養する女たち」だろうかとか「復讐」だろうかとかも思うが、これがオペラの方の引用となると更に馴染みが薄い。宗教的な引用や、実際の政治家の映像の引用もあったので、キリスト教ソ連、東欧史、音楽的知識など知識のある人が観ればまたもっと深い気付きがあるだろうと思う。

 それらに加えて、根底には、タイトルにもあるように、チェルノブイリ原発事故がある。それぞれの場面の最初に流れる映像では、ウクライナで撮影されたという、湖、枯れた森林、がれきの山、砂漠といった破壊されてしまった自然の情景が映し出された。音楽は陰鬱な雰囲気であるし、照明は暗く、鏡の反射を利用したものや光線のような照明効果を通じて、原発のハイパーオブジェクトな特徴や、そのエネルギー、汚染について表現しているようにも思われる。ただ、後半にいくにつれより儀式的な要素が強くなり、祈り、最後はクラブ音楽のようになって楽しげに変化して終わる。このことは、環境破壊、終末的な状況に対して、演劇を通して癒しやHopeを感じさせる終わり方であると解釈できるかもしれない。(期末のレポートで廃棄物を扱った演劇と癒しの効果について、放射性廃棄物の演劇を選んで書いたので、その前にこの演目を観ていたら絶対に題材にしていた。)

上演後の舞台奥の祭壇のようなセットの様子。

 公演後のアフタートークで聞いた情報によると、この作品は2020年初演で、ロシアによるウクライナ侵攻以前に創られたものであるため、実際に戦争を踏まえている訳ではない。しかしながら、ソ連/ロシアによる暴力というのは、チェルノブイリ原発事故やまたそれ以前から連綿と続いているもので共通しており、古典や民族的な要素を作品に用いているのも、「ウクライナ」としてのアイデンティティーを再発見するための作業であったという風な説明がされていた(聞き間違いもあるかもしれない)。ウクライナの人達の生の声を実際に聞くという経験はあまり無かったため、実際に肉親が前線にいるということや憎しみという感情についての吐露は戦争が現実のものであると改めて強く感じさせるものであった。

www.youtube.com(↑トレイラー、裸の映像が流れるので注意、年齢制限がかかっている)

 

②『𝘏𝘶𝘭𝘭𝘰, 𝘉𝘶-𝘉𝘺𝘦, 𝘒𝘰𝘬𝘰, 𝘊𝘰𝘮𝘦 𝘪𝘯』 Koleka Putuma (ケープタウン)@ムゾントゥルム劇場

作品解説(芸術公社twitterより)

「ありのままを書くということは、遺体を掘り出して名前をつけるということだ」。ブラックのクィアである女性アーティストたちによる映像や文章が、まるで検索エンジンから飛び出してきたかのように、スピーカーやプロジェクターから飛び出してきたかのように、劇場空間に流れ出す。演劇人で詩人のコレカ・プトゥマによる詩集をマルチメディア舞台化したこの作品で、彼女は投影面となり、芸術や社会の中で見えなくなってしまったブラックの女性の名前、記憶、遺産を演じる。過去と現在の間の濃密に織り込まれた対話の中で、プトゥマはまた、ホワイトの施設にブラックのアーティストとしている自身の経験に言及し、観客とパフォーマーの間の視線に疑問を投げかける。可視性はいつ占有されるのか? 知覚されるのではなく吸収されるのはいつ?

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1679050738641801218

上演後の舞台の様子

 ブラックボックスの小劇場での、映像を使ったマルチメディアパフォーマンスで、今までのブラックの女性アーティストの言葉を引用した詩集を舞台化した作品。詩集を書いたコレカ・プトゥマが、たった一人の出演者でもある。タイトルのカンマで区切られた4つのパートに分かれており、それぞれの場面で色々なブラック女性アーティストの名前や言葉が紹介される。今まで抑圧され、不当に低く評価されてきただろう人々へ光が当てられる、アーカイブ的な上演だ。

 マルチメディア的なパフォーマンスで、上手下手にあるパネルや、小さな階段、四角い装置、また宇宙服のような衣装に至るまですべて真っ白で、映像が投影されるようになっている。特にブラックの女性のパフォーマーの衣装が白一色で、他者の言葉がそこに投影されるというのは、過去の女性達を演じるという以上に、ホワイトウォッシュされるような、自分の言葉が奪われてしまうようなイメージも勝手に連想させられた。このように映像が様々な画面に投影される以外にも、懐中電灯を使ったり、手持ちのカメラでの同時中継映像を使ったり、観客とのコール&レスポンスがあったりと、色々な演出的工夫が行われていた。

 特に印象的なのは、「BackSpace」という表現で、その言葉の機械音声と、実際に打ち込んだ文字が消されるという映像が繰り返される。例えば、序盤には「この作品は、女性のフェミニストによって引用された~」というような作品説明ともとれる文章が何度も様々な表現に訂正され、変化していく。検閲や、彼女たちが今まで黙らされてきたということを感じさせる部分で、たまにコレカ・プトゥマ自身が自分で「Back Space」という時は、またそういう規範を内面化して、不本意な形で権威から受け入れられるように努力してしまうことを表現してるのだろうかなどと想像された。

 ただ英語のリスニングだけだとどうしても理解が追い付かない部分があったので、パンフレットでも詳しく説明されてはいるのだが、上演字幕があれば、より理解できたのではないかと思う。特に、作品解説の後半部分、「プトゥマはまた、ホワイトの施設にブラックのアーティストとしている自身の経験に言及し、観客とパフォーマーの間の視線に疑問を投げかける。可視性はいつ占有されるのか? 知覚されるのではなく吸収されるのはいつ?」について、実際にホワイトが大半で少数のアジアンとブラックというような観客で、不思議な笑いが起きたり、私も笑いそうになって本当に笑っていいのかという風に思う瞬間があったので、アーティストが作品でどのように応答しているか気になるのだが、「Back Space」の部分が関わっていそうだと思いつつ、しっかりは理解できなかった。詩集は出版されているので、また時間がある時に読んだらより深い洞察が得られると思う。

www.youtube.com
③『𝘈𝘣𝘢𝘯𝘢 𝘣’𝘢𝘮𝘢𝘻𝘪 (水の子どもたち)』 Small Citizens(ブジュンブラ | ブリュッセル | ゴマ | キガリ | ナイロビ)

作品解説(芸術公社twitterより)
かつて五大湖があった場所は、今では干ばつが続いている。湖、川、支流、すべてが一晩で干上がってしまった。ステージ上のタンクまで。何があったというのか。𝘈𝘣𝘢𝘯𝘢 𝘣’𝘢𝘮𝘢𝘻𝘪 (水の子供たち)は、東アフリカの演劇実践者たちの国境を越えたコラボレーションによって発展した、若い観客のための冒険が詰まった演劇である。重要な資源である水と、その消滅の状況と結果を、団結する力についてのユーモラスで心を掴む物語で扱っている。ブルンジルワンダケニアコンゴ民主共和国パフォーマーは、インタラクティブなパフォーマンス、歌、さまざまな演劇言語を使用して、アフリカに秘密がある水についての世界的な物語を提示します。この物語はまだ良い終わり方ができるだろうか?

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1679802418387902464

 水が豊かであったアフリカのある土地で、水を巡る争いが起こり、水の神様が怒って干上がってしまう。しかし、子供の涙の1滴が奇跡を起こし、最後には観客参加型でみんなで涙を集めると水がまた流れ出すというストーリーであった。水の神様が怒ってしまうという所は、女性のパフォーマーが、布を被り、奥のセットの中に隠れてしまうという「天の岩戸」ような展開で、神話・民間伝承を基にしているようであった。上演前も、エントランスから観客を巻き込む形で、音楽にノリながら始まり、前半終了後には、装置の中を一人づつ通って、メインの舞台に進んで行くという面白い仕掛けもあって、かなり体験型だった。加えて、アクロバットや布を使ったマイム、子供の人形、摩擦で音を立て、波を起こすシンギングボウルのような道具など、様々な工夫がされていた。特に、子供向けの演目ということもあり、私の観劇日もたくさんの小学生低学年くらいの子供たちが観劇していた。子供の驚きや感動などストレートな反応を間近に感じながら観劇をするというのが新鮮で面白い体験だった。

上演後の舞台の様子

 やはり気候変動となると、ゴミ、砂漠化、干ばつ、ニジェールデルタの汚染など、多くの問題がより弱い立場にある人々により押し付けられており、アフリカはその最たる例であると思う。このような環境問題を扱って、問題提起を行う演劇になると、どこか説教くさくなってしまうようなイメージもある。しかし、この作品では、実際に彼らが経験している問題だからか、リサーチ、共同製作が行われているからか、教育的であり、希望を持たせるようなものでもあり、演劇としても面白かった。こういう作品が今後もっと増えてほしいと思う。

 

後半に続く!

30周年のシビウ国際演劇祭9~10日目(7/1/・7/2)

気がついたら、忙しく、しかし楽しい演劇祭は終わってしまった。注目作が多く上演される最後の二日間の観劇記録を残していきたい。

 

9日目

㉑Vertigo Dance Company “Makcom 30” @Ion Besoiu

ウォーク・オブ・フェイム(ハリウッドのように敷石に有名な演劇人の名前が残されている)に今年登録された、Noa Wertheimの率いるVertigo Dance Companyのダンスの上演。シビウの演劇祭は毎年イスラエルのダンスカンパニーを招聘しており、オンラインの2021年にはバットシェバ、去年はカンパニーアテンドを担当したキブツ、で今年はヴェルティゴというように一年ごとにそれぞれ有名なコンテンポラリーダンスカンパニーがやって来るようだ。

ダンスは、木の短い角材のようなものを使っており、全編通してエコロジーがテーマになっている。去年のキブツでも思ったが、下半身の使い方が印象的で、日本の伝統芸能のように重心が低くどっしりとしている。手を合わせて中心に持ってくるようなアジアっぽい動きの繰り返しもあって振付も印象に残るものが多かった。とはいえ、音楽と奇妙な、独特な振付の動きは、バットシェバやキブツの上演の方が私は好みだった。

 

Teatrul Masca “Famous Romanians: Crossing Borders and Making History” @ニコラエ・バルチェスク通り

Teatrul Mascaの上演風景

今年は、タリアホールの写真展示や、学生による上演の監修などで演劇祭の初日から大活躍をしている、Mihai Mălaimareの率いるブカレストの劇団による上演。毎年ほとんど参加している劇団で、去年同じくカンパニーアテンドで参加したので、プロデューサーや衣装さん、裏方の陽気なおじちゃん等に久々に再会できたのがまず嬉しかった。

去年は、スモールスクエアで野外の短い劇を二本立てで上演していたが、今年は大通りで、俳優の一人一人が銅像になりきるスタチューパフォーマンスをしていた。それぞれ10人ほどが道の小さな舞台にたたずみ、音楽とともに動き出す。舞台前方には、名前が書いてあり、昔の有名な俳優や学者をトリビュートしているようだった。

 

山の手事情社 『かもめ』 @ゴングシアター

今までギリシャ劇の上演関係で、『オイディプス王』などの上演をビデオで観ることはあったが、生では初めて山の手事情社の上演を鑑賞した。衣装に関して、洋風のドレスやスーツの上から、白い紙?のような音の出る生地で作られた袴のようなものを着用している。出番が終わった際の歩行の仕方もすり足のようで、能の様式のように感じた。物語は、「かもめ」の登場人物たちを剥製に人間と生きた人間に分けており、トレープレフ、ニーナ、マーシャらは生きた人間で、有名な女優でトレープレフの母親のアルカジーナや愛人で作家のトリゴーリンらは剥製ということになっている。生きた人間たちは比較的リアリズムに近い自然な演技をするのだが、剥製の人たちは白塗りをして、<四畳半>や山の手メソッドと呼ばれるような独特な身体の使い方とセリフの喋り方をしていた。最後の場面では、普通の上演でなされるような「私はかもめ」のシーンや、トレープレフが自殺を図るというシーンをあまり強調しない演出で終わったと思うのだが、色々入場・退場する扉のカーテンを抑える役をしていたので、あまり集中して確認することができなかった。

 

㉔ラドゥスタンカ国立劇場ファウスト』 @ファブリカ・デ・クルトラ

上演後の舞台の様子

シルヴィウ・プルカレーテ演出、オフェリア・ポピがメフィストフェレスを演じる劇団の代表作。昨年も鑑賞したので、記憶違いかもしれないが映像の使い方やワルプルギスの夜の場面の演出の端々が少しずつ変化しているように感じた。窓に映像が映されるようになったり、裸で赤くペイントした人の数が減ったり、空中に飛ぶ人の数も減ったような気がする。去年、同じくワルプルギスの夜の場面で指示通り奥に行きすぎて何も見えなかった反省を活かし、今年はステージ沿いに待機したら前回は全く見ることができなかった様々な快楽を味わうファウスト博士や、豚と性行為をする女性たちなど新しい場面を間近で観ることができてより一層楽しむことができた。スイカも飛んできた。また座席がなかったので階段の右端に座ったが、何度も階段を使うシーンがあり、オフェリアが本当に目の前で演技をしていたのが最高だった。「ワルプルギスの夜」の場面後、棺を作る人たちが歌っていた歌がスカーレット・プリンセスでも歌われていたような気がする(労働者の歌なのだろうか)ので、いつか確認したい。本当にただただスペクタクルを味わうことができる、最高の鑑賞体験だった。

 

10日目

㉕ピーピング・トム “Diptych: The missing door and The lost room” @ファブリカ・デ・クルトラ

上演後の舞台の様子。撤収がもう始まっている。

日本にも去年異なる演目で来日したピーピング・トムの作品。タイトルにもあるようにドアがキーアイテムになっていて、かなりミステリー風。吹いていないはずの風が見えたり、傾いていないはずの床が傾いて見えたりするような振付が不思議でもあり、面白くもあった。作品の中盤で舞台セットがソファーのあるホテルのエントランスのような部屋から、ホテルの客室のような部屋へと観客の目の前で転換するというのも見応えがあった。もっとダンスも論じられるようになりたいなと思いながら…。

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㉖シャウビューネ・ベルリン “(Not) the End of the World” @ファブリカ・デ・クルトラ

上演後の舞台の様子

今年ウォーク・オブ・フェイムに登録された(もちろん授賞式には来ていないらしい)ケイティ・ミッチェル演出の作品。自転車で上演中の電気をまかなうタイプの上演で、舞台の両サイドに一台ずつ合計二台の自転車が使われていた。ただ、前回イギリスで観た同じく自転車を使う『A Play for the living in a time of extinction』とは異なり、充電量が電光掲示板で表示されたり、暗転したり、特に言及するということが無く、ただ最初から自転車を自然に使っていた。Chris Bushのテキストを使った上演で、気候変動のテーマの中でも、特にティモシー・モートンが提唱し始めた「ハイパーオブジェクト」の概念(巨大すぎて知覚できないまま進んで行く気候変動、原子力汚染などを指す)を中心的に扱っている。そのため、話の筋も画一的に存在するのではなく、同じ状況の同じシーンがセリフだけ少し変えて何度も繰り返されて、色々な可能性を残すという構成になっていた。場面は主に、大学のポストに応募する有色女性と面接官の白人女性、大学のラボの指導教員?が亡くなってしまった有色女性とそれをなだめる?白人女性、舞台中央に出てきて独白をする白人女性に分かれている。時間軸が交錯しており、多分、面接を受けている女性が、研究調査で亡くなった女性と同一人物で、更に養子を迎えて、中心の女性はその未来の姿ではないかと思ったが、また確認しようと思う。確かに同じ動きの繰り返しばかりで、台詞も気候変動の話や数値の話をされると少し説教くさく、つまらなく感じた観客も多かっただろうと思う。ただ、前評判の悪さ程面白くないわけではなく、特に気候変動とジェンダーや人種、先住民への差別に関わる話を重ね合わせ、実際白人の面接官から、有色女性の候補者が差別を受けているという状況も分かりやすく示されていた。気候変動と演劇の授業を受けて、ある程度用語や問題に関する知識をつけたからこそ楽しむことができたのかもしれないが、私は意外と面白かった。

 

Compagnie Marie Chouinard “« M »” @Ion Besoiu

上演前の舞台の様子

カナダのカンパニーによるコンテンポラリーダンスパフォーマンス。演出家・振付家のマリー・シュイナールもまた今年ウォーク・オブ・フェイムに登録された一人だ。ダンサーが全員全編通して、ネオン色のズボンとおかっぱ頭の鬘を被って、上半身は裸で踊る。ダンサーが自分の声をマイクに発して、その声「シュッ」「ハッツ」等に合わせて踊るというシーンが多く、身体、言葉ではないコミュニケーションなどがテーマだろうかと一緒に見た人とは話した。しかし、何しろ大きい劇場の雰囲気や高齢者の多い客層との乖離が激しく、アイデアが新しすぎて観客が置いてけぼりにされる感じだった。

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L’Homme Debout “Mo and the red ribbon” @ビックスクエア

フランスのカンパニーによる、野外でのめちゃくちゃデカい人形を使ったパフォーマンス。とにかくこの人形の主人公Moがリボンの中に閉じ込められていたり、手足を拘束されていて不憫だった。最終的には、自由の身になり、花火も噴出して、堂々たるフィナーレを迎えた。

上演中の様子

 

ブログには書かなかったが、自分の担当した日本のカンパニーの2公演も合わせると、計30作品期間中に観ることが出来た。1回公演しか基本やらないラドゥスタンカ国立劇場の今シーズンのレパートリー公演(『Mass』など)いくつか見れなかったものもある。しかし、特に招聘されたものは、渡航前のオススメブログで挙げた上演を、ほとんど見ることが出来て良かった。カンパニーアテンドの仕事もかなりハードにやっていたはずなので、不思議な位だ。

最後にドローンショーが行われて、演劇祭も終了だ。ドローンショーは花火に代わって去年から始まったが、一年前よりも確実にレベルが上がっていた。来年もまた帰って来たいと思う。

ドローンショーの様子、今年のテーマの「Wonder」

 

30周年のシビウ国際演劇祭5~8日目(6/27~6/30)

7日、8日目はカンパニーアテンドの仕事がありほとんど作品は観れなかったので、四日間をまとめてブログに残したいと思う。

 

5日目

Tiyatro BeReZe Macbeth / A Nightmare For Two” @sala Studio

トルコの劇団によるシェークスピア原作の『マクベス』の上演。マクベスマクベス夫人の二人芝居形式で、中心に置かれたベッドや観葉植物、コーヒーマシーンといった舞台美術、部屋着の衣装を用いて、日常的な家庭の風景の中でマクベスの話が進んで行く。物語は省略もありつつ基本的にマクベスのストーリーなのだが、その中に、コーヒーを淹れる、観葉植物に水をやる、不眠症などの要素が普通の家庭の話としてオーバーラップしていた。特に役者のスキルの高さがとてつもなく、マクベス役の俳優は、演技、ボイスパーカッション、パントマイム、エアの剣技のどれもが非常に上手く、リアルに戦っているように見えた。マクベスは「悲劇」とされているが、むしろ恐妻家の家庭の話にし、パントマイムなどと合わせることで「喜劇」的に上演されていた。

 

⑮北京舞踊学院“The Dance of China” @Thalia Hall

中国の最大最高のダンサー養成機関である北京舞踊学院による中国の伝統的な踊りの上演。時間の都合上最後まで観れなかったが、プロと遜色ないレベルというか、学生とは思えない技術の高さと、揃った群舞が美しく、とても良かった。水袖舞と呼ばれるような長い袖での踊りや、傘を使った踊り、カップルの踊り、男性だけの群舞など、様々なバラエティに富むダンスを観ることが出来たのも良かった。

 

Burgtheater “Dorian Gray” @ラドゥスタンカ国立劇場

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オーストリアの劇団による、オスカー・ワイルド原作『ドリアン・グレイの肖像』のマルチメディア上演。出演者はドリアン・グレイを演じる一人だけで、後は舞台上のジャングルジムのようなセットに大量につけられた画面を使いながら、他の登場人物は全員映像の中でのみ登場して、作品は進んで行く。ドリアン・グレイ役の人は最初に金箔を顔につけていて、段々それが取れていくというのをライブカメラで映して、醜くなっていく様子を表現していた。字幕が非常に読みづらいという問題はあったが、今まで観てきた演劇の中ではかなり映像を効果的かつ面白く使えているなと思ったし、肖像画という昔のメディアを扱った作品が、現在上演される際には新しいテレビや映像のメディアになるというのは内容的にも合っていると感じた。

 

Theater ANU “WONDER WONDER – In the Land of My Childhood”@ビックスクエア

キャンドルの灯ったビックスクエア

ドイツのカンパニーによる野外の上演で、去年に引き続き参加している。ビックスクエア一杯にキャンドルが置かれ、幻想的な美しい風景が広がった。去年はちらっと見るだけだったので知らなかったが、キャンドルが置かれている内部にも入ることが出来、そこでは紙芝居、影絵芝居、万華鏡等々の出し物が点々と行われていて、見世物小屋的な雰囲気もあった。ただ、去年からキャンドルの数は倍の8000個になったらしく、朝から晩までキャンドルの交換や火の点灯等をした地元のボランティアの友達によると、もう一生シビウに足を踏み入れないでほしいと思うくらい大変だったらしい。

 

6日目

⑱マリア・パヘス舞踊団 “From Scheherezade”

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担当カンパニーが来てディナーの予定があったので観ることを諦めていたが、その内の数人も観たいと希望したためにアテンドとして観劇出来た作品。スペインの有名なフラメンコダンサーマリア・パヘスが率いるフラメンコカンパニーの上演。とにかくダンサーたちは全員女性で、しかもめちゃくちゃ力強く、激しく、勢いがあって、こちらもエネルギーを貰うことが出来た。物語の筋は無いと思うが、タイトル通り『千夜一夜物語』を題材にしていて、砂漠や夜、月といったモチーフが用いられていた。後半にかけてだんだん伝統的な、フラメンコと聞いてイメージする、人が座って囲んで一人が踊るという形式や扇を使った踊りが出てきて、最後少しだけ間延びした感じもあった。が、全体的にはレベルの高い本物のフラメンコを始めて観ることが出来た感動が強かった。

 

印象派NÉO『ピノキオの偉烈』@ファブリカ・デ・クルトラ

日本の夏木マリが演出・出演し、日本でも土屋太鳳が出演して上演されていた公演。新しいジャンルを作りたいとか、新しい能ですという風にも紹介していたが、既存のジャンルに当てはめるとすると、私は「フィジカル・シアター」だと思う。

基本的に、ピノキオの話を基にしたダンス公演で、ピノキオを文楽人形のようにしたり、背景を松にして能楽要素も取り入れたりして日本の伝統文化を押し出す場面と、コンテンポラリーダンス的な場面があり、色々なコンセプトの異なる場面が次々展開していく。ダンサーの人達はコブドレスのような衣装や不思議な衣装を身に着けて、童話の世界観を表現しようとしており、出ずっぱりで大変だなと思った。全体的に視覚的な楽しみはあるが、特に内容はなく、しかも要素を詰め込み過ぎで長く、洗練されていない印象も受けた。

 

7日目

夜から仕込みで何も観れなかった。オフェリア・ポピも出演する『MASS』という作品が家族に関わる物語でめちゃくちゃ評判が良かったので見逃したのが悔やまれる。

 

8日目

⑳NTゲント『Familie』@ファブリカ・デ・クルトラ

開演前の舞台の様子。

担当カンパニーの二回公演があったので、もう観れないと覚悟していたのだが、間の長すぎる休憩時間がフリーになり、奇跡的に見ることが出来た。ミロ・ラウ演出の作品で、2007年にカレーで実際に起こった家族の集団自殺の事件を基に、実際の家族の俳優夫婦とその10代の娘二人(犬二匹も)をキャスティングして、最後の夜を再現、追体験するという上演だ。舞台は本当にそのまま家が再現されたようなセットで、第四の壁どころか普通に家の柱や壁があって直接観客からは見にくい場面もある。舞台中に置かれたカメラでそのような家族の会話は撮られ、流されており、まさに他人の家をのぞき見しているような鑑賞体験だった。この撮影の画角も絶妙でとても美しい。

 特に特別なことは起こらず、姉妹が英語の宿題をやって、父親がご飯を作って、最後の晩餐をして、服を着替えて、最後には首を吊るのだが、所々にもうこの後自殺するという覚悟を決めていると伝わる台詞があったり、実際の家族だからこそあるホームビデオなども流れたりして、実際の事件とこの実在の家族がオーバーラップする。リアリズムを超えたリアルという感じだった。翻訳や台詞の一つ一つも分かりやすく(I like~と好きなものを並べる台詞や、いつか人は死ぬのだからというような厭世的な台詞)、どの瞬間も無駄がなく、父親と娘の関係などくすっと笑える部分もあって、この演劇祭で観た作品で今のところ一番面白かった。

30周年のシビウ国際演劇祭 3~4日目(6/25・6/26)

三日目と四日目の観劇についてのブログを書いていく。すごく暇なわけではないのだが、夜には時間があるので沢山演目を観ることが出来ている。

“Arrived” @Youth Park(屋外)

噴水に入る前の様子。真ん中にいる衣装を持っている人は観客。

スペインとリトアニアの男女2人による路上パフォーマンス。公園の中でどこで始まるんだろうと思っていると出演者を乗せた車がやってきて、登場し、トランクを持って公園内を回りながらいくつかの種類の短いパフォーマンスを行うという形式だった。観客で男女のカップルが花を贈る様子を再現したり、観客に観客がマッサージするようにしたり、口をつけずに水を飲み、観客にも飲ませたり、小さい子をトランクに乗せて、チョークで地面にthe  future of Romaniaと書いて出演者や観客が握手をしたりと、すごく豪華なものではないのだが、クスっと笑えて面白かった。最後は、噴水で、観客をハンガー代わりに見立てて服を脱ぎ、2人でそこに飛び込んでキスをしてフィナーレ。そのあと、出演者のおじさんから私も頰にメチャクチャキスされた…。

Judy’s Harmonica Ensemble “Harmonica Rhapsody”  @The Nicolae Bălcescu Land Forces Academy (屋内)

 中国や台湾のハーモニカのグループ。ゲストの希望で付いて行ったので、元々予定しておらず、色々な他の連絡をしていたため、入場もとても遅くなってしまったのだが、とても良かった。『ララランド』『魔女の宅急便』といった作品の映画音楽や、『ルーマニアン・ラプソディー』が演奏され、様々な種類のハーモニカの奏でる、音の厚みがすごかった。会場も普段はパスポートがないと入れないと言われる陸軍学校の内部で、厳重な入り口を入り、銅像や、シャンと立っている軍人の人たちを横切りながら入るというのはなかなかない経験で面白かった。

ラドゥスタンカ国立劇場“Games, words, crickets…” @ファブリカ・デ・クルトラ(屋内)

上演前の様子。階段から鑑賞

 シルヴィウ・プルカレーテ演出の作品。演劇祭の総監督のキリアックが主役として出演していた。元々詩をもとにした作品のようで、内容は理解することを諦め、演出を楽しんだ。真っ白な衣装を着た俳優たちが板付きした、幻想的な雰囲気の中で始まり、婦人が真っ白なマルチーズを連れてトコトコ下手の椅子に座り、自撮りをするのが不思議で印象的だった。その後は、場面ごとに基調とする色が変わり、白、黄色や緑、青、ピンクと美しい照明で、季節や時間を表現しているのだろうかという感じだった。人生の回想的な一人語りの形式ではあるのだが、タンバリンと紙袋を持った客席から現れる男や、舞台中央がレーンのようになっていてそこにグラスを積み上げることや、マルチーズ、不思議な踊り、スイカ、変なお面、キリアックと同じ顔をした等身大人形2体など色々視覚的に面白いことが連続して起こり、飽きずに観ることができた。

company off “color wheels” @ニコラエ・バルチェスク通り(屋外)

光る車輪

 フランスのカンパニーの野外パフォーマンス。すごく大きな車輪がLEDの電飾で光りながら通りを動いていく。花火や爆発もあり、他のボランティアがエキストラのパフォーマーとして参加していることもあり、見るのはとても楽しかった。何度もその頑張る他のボランティアを追いかけて、みんなで先回りして移動したのはいい思い出だ。

 Teatr im. Stefana Jaracza w Olsztynie “Easy Things“ @Sala studio (屋内)

 ポーランドのカンパニーで女性の2人芝居。真っ暗な中始まって、2人は大きな時代物のドレスを身につけている。台詞はポーランド語で、字幕も追いきれていない部分もあるのだが、全体を通してメタシアター的で、舞台上の今ここにある身体の存在であったり、演じているということを強調しており、2人の今までの女優としてのキャリアというのが語られる。後半に行くと、2人の胸がデカく、ストリップをして、脱がされることになった、胸がでかい役ばかり演じてきたという話になり、裸でチキンを食って終了した。最後のそのチキンを食べるシーンは字幕にインプロとだけ出て、翻訳が出なかったので理解はできなかったが、理解できる人は笑っていた。内容はかなりフェミニズム的で、女優の身体を扱っていて、真面目でありながら、コミカルな部分もあり、翻訳がもっと理解できればもっと面白く楽しめたのだろうという悔しさが少しある。

 

11. ラドゥスタンカ国立劇場 『ロミオとジュリエット@TNRS (屋内)

上演前の舞台の様子

 アンドリー・ゾルダックの演出作品。ユスティが出演するということもあり、観ることをとても楽しみにしていた。宣伝映像やInstagramの投稿を見てもユスティが何を演じているか分からなかったのだが、結局見終わっても分からなかったのが最大の謎だ。ロミオの友人として出てくるので、マキューシオかベンヴォーリオだと思ったら、キャピュレット側でもたまに出てくるし、かと思えば急に出てきた人がティボルトに殺されて倒れるし、二幕目では大体真っ黒な服だったので、死の象徴だと思うのだが…。上演は舞台奥が角になって2枚のパネルが広がるような形になっており両側に扉が付けられていてそこから出演者が登場してくる。舞台の上手下手には写真スタジオのようなセットが組まれていて、本当に2回だけロミオと何役かわからないユスティの顔のアップの映像が流れた。

 

 ロック版というか、楽曲で最近の曲が大音量でガンガンに流されながら進んでいき、たまに出演者も歌うことがある。悲しいシーンで楽しい曲が流れる対位法的な使い方や、結婚した一番幸せな場面に流れていた音楽が、最後の一番悲しい死んでしまう場面で流れるというような教科書通りの使い方もあって、音楽が良かった。とにかく若い俳優がたくさん出演して、すぐに脱いで、舞台を駆け回りながら進んでいく。悲劇だとか、二つの敵対する家族だとか、争いだとかはほとんど描かれず、とにかく若さ、若い2人そしてその友人を含む人たちの関係性、激しい恋愛にフォーカスを当てられているのだと思った。深刻ではない分、「結婚」「あなたは夫」「あなたは妻」と何度も繰り返し宣言するパフォーマティブな行為が、逆にその結婚が内実を伴っていない、若さによる、勢いによるものであるという危なっかしい印象を強めていると思った。出演者がそれぞれ癖がある感じでキャラクターを演じていて、キャピュレット卿はすごく自信なさげな性格で、ティボルトと関係を持っているのではないかということが示唆される(普通はティボルトは夫人と関係を持っていると演出されることが多い)し、キャピュレット夫人は欲求不満なのかずっと髪を振り乱しながら性器のあたりを手でいじっているし、ティボルトは有害な男らしさを強調して筋肉を見せてきたかと思えば、ずっと猫の鳴き声を繰り返しながら喋るし、神父はエアで楽器を演奏しながら笑い続けるし、乳母は若くてめちゃくちゃ気が強い感じだ。ティボルトとマキューシオ、ベンヴォーリオの喧嘩もテニスラケットをティボルトが投げて、他2人が取りに行くという動きの連続で表現されていたり、他にもプロローグからなんだか繰り返しの動作が多く、どういう演出なのだろうと疑問に感じた。他にもあまり見たことない演出、解釈ばかりで書き足りないが、長くなってしまいそうなのでとりあえずここで締めておく。とにかくめちゃくちゃ刺激的で面白い上演だった。

(追記)ユスティに直接あれは何役を演じていたのかということを確認することが出来た。最初は、ロミオ役として稽古を始めたのに、なんかやっぱり違う役にしようということになって不満だったが、最終的に最初はロミオの友人で、マキューシオであり、ベンヴォーリオであり、死の象徴であり、自分にしかできない役になって満足しているということだった。

何だかインスタに写真を載せるのもツイッターで公に言うのも気が引けるのでここに書き残そうと思うのだが、パーティーでこの質問をした後、写真撮影(今年二回目)をお願いしたら、なぜかリクエストしていないのに自然にお姫様抱っこをしてくれて、それ以降、思い出してはにやついてしまう。今年は日本のゲストもたくさんいるし、他の日本のボランティアやアーティストもユスティと仲良くなっていて、それを傍目にゲストをアテンドしたりしていて、私はもう仕事に打ち込もうというか、遠くで見守ろうというマインドになっていた。やっぱり推しと思ってしまうと正気を保てなくなるし、色々支障も出てくるし、これからユスティはビックな俳優になっていくと思うし、距離を保って普通にしようと思っていたのだが…なんて罪深い…沼深い…。

12.シビウバレエ団 ”Bolero and name of the joy” @イオン・ベソイユ(屋内)

 シビウのバレエ団の、ボレロをはじめとしたバレエのパフォーマンス。日本人のダンサーの方が何人か所属されているようだった。ちょっと心配事があったこともあり集中できず、振りが揃っておらず、バラバラしているように感じてしまった。

 (追記)いくつか同じ会場で作品を観たり、他の人の感想を聞いて感じたのは、ダンサーの力量以外にも、会場や明るすぎる照明にも原因があるかもしれない。ハーバルマンという野外で後日されたパフォーマンスは評判が良かった。

13.The Revolution Orchestra “Moods” @ファブリカ・デ・クルトラ(屋内)

 楽器の演奏とダンス的なパフォーマンス、プロジェクションマッピング的な映像が融合した作品。タイトルがつけられた9つくらいの場面に分かれていて、場面ごとに楽曲や映像、パフォーマーの配置が変わる。前半まではただ綺麗だな、幻想的だな、という感じだったのだが、最後のシーンで字幕が意思を持ち喋り出したようになって、コミカルな部分もあった。例えば、「どう思った?」「なんか分かりにくかったでしょ?」とか「この前はモーツァルトの『魔笛』を翻訳してきました」とか、パフォーマーが歌を歌い出すと「これは翻訳しません」「この歌とこっちの字幕、今こっちを読んでいるということは字幕の方にあなたは集中していますね」とかで静かで美しい舞台とのギャップが面白かった。最後は文字の情報に捉えられている社会であるということを指摘して、字幕の画面が壊れ?斜めに掛かるようになり、文字が大量にマッピングされて、舞台奥から光が放たれて、演奏が少しあってフィナーレ。感動的だった。

 

 

30周年のシビウ国際演劇祭 一日目・二日目

 今年もトレーニング期間があっという間に終わり、忙しくしていたら演劇祭が始まってしまった。今年も、まとめのブログを書く前にとりあえず二日ずつくらいで観劇記録のブログを残していこうと思う。

大通りの入り口にかけられた横断幕

 今年もまた再参加して思うのは、去年出会った人たちに再会することがとてつもなく嬉しいということだ。元々、ぐいぐいコミュニケーションをとれるわけではないので、人数も多くないが、去年私と同じ着物を着たローカルボランティアや、去年のホストしスター(去年は少し振り回されたる部分もあった?が、今年はより仲良くなれた気がする)とそのお母さん、去年同じカンパニー担当した女優のお姉様、去年そのお姉様と担当した劇団の少し高田純次味のあるプロデューサーなどなど、まだ二日目なのに劇場内のクラブや道端でばったり遭遇することが多い。その再会時のテンションの高まりは、あまり普段の生活では味わえない特別なものだと思った。

 

【仕事について】

 今年は、ある二つの日本のインドアカンパニーのアテンド担当になった。去年初めてで、しかも全部部署やコーディネーターの異なる三つを担当していたことを考えると余裕がありそうだ。

 最初の担当のカンパニーの上演先は、普段子供向けの人形劇を上演しているゴングシアターだった。去年は観客として観に行くだけだったので、赤い席がふかふかでサイズもすごくちょうどよくて雰囲気のいい劇場という印象だったが、今回は劇場の責任者の方や照明担当のテクニカルの方とも関わって、みんないい人ばかりで更に劇場への愛が高まった。他の日本のゴングシアターで上演するカンパニーの担当ではないのがスケジュールの都合とはいえ少し残念だが、またいつかここに戻って来たい。

 仕事の内容では、去年はイスラエルルーマニアのカンパニーに入ったこともあって、あまり翻訳をするという機会が無かったのだが、今回はその機会があったのが面白かった。交換留学したくせにまだまだ喋り慣れておらずめちゃくちゃな英語を喋ることもあるが、結構パッションとか工夫で伝わると実感できたし、どう表現するのか難しい状況で伝えられたときは嬉しかった。(東京芸術祭アートファームのアートトランスレーターの方も申し込めばよかった…。)

 

【観劇について】

一日目

①ラドゥスタンカ国立劇場 『スカーレット・プリンセス』 @ファブリカ・デ・クルトラ(屋内)

開演前の舞台の様子。近い!!

 シルヴィウ・プルカレーテ演出の作品で、去年日本でも東京芸術劇場で上演された。私はシビウでしか観たことが無いので比較できないが、日本でも観た方が劇場の雰囲気が違うと全然受ける印象が違うと言っていて、この暑い、密集した、カタカタと音が鳴る盆で上演される雰囲気が芝居小屋という感じで魅力的なのだと思う。二重の盆で回る所や歌、音楽のスペクタクルが見もので、最後のフィナーレの曲がまだ頭に残っている。物語は、歌舞伎でも観ているが、観れば観る程、最初に「都鳥の一巻」を盗んだというところや、悪五郎、長浦、残月、お十等の周辺人物の関係性への理解が深まっていくなと思った。あとはもう主役のオフェリア・ポピのコミカルな演技と、ユスティニアン・トュルクの身体能力の高さが素晴らしいと思う。運よくめちゃくちゃ近い席に座れたので、キャストと距離が近すぎて緊張した。

 

二日目

ConTakt “Foley” @ハーバルマン・マーケット(屋外)

上演中の様子。子供の観客が多い。

 オーストリア、ドイツ、フランスのヨーロッパ系の人達が集まったアクロバットなサーカスのパフォーマンス。パフォーマンスは、人の上に乗るとか、人の上でバランスをとるといった定番の動きも多いが、格闘ゲームを模したようなコミカルな場面と静寂になる場面と色々な場面が交互にあって飽きさせない工夫がされていた。一番気になったのは、音楽で、普通に音源をかけるのではなく、DJをやっている人がいて、ラップをしたり、ミキシングをしたり、フルートを吹いたり、はたまたその人もアクロバットをしていた。他のアクロバットをしていた人たちもサックスを吹いていたので、マルチプレーヤーが多いカンパニーなのだろうか。そのDJセットから伸びる赤いめちゃくちゃ長いコードのマイクを紐のように使ったパフォーマンスや観客の方に喋らせる場面も面白かった。

 

Circus Baobab “Yé, L'eau!(水) @イオン・ベソイユ(屋内)

上演前の舞台。なにも伝わらないかもしれないが…。

西アフリカのギニアのアクロバットカンパニーの作品。アクロバットのレベルが想像以上に高く、回るわ飛ぶわ、身体は柔らかいわで観たことのない動きの連続で、すごすぎて本当に言葉で形容できるものではなかった。

www.youtube.com

テーマもしっかりしていて、気候変動に関わるものだった。舞台には両脇に水の入ったボトルが置いてあり、前面には空のペットボトルが散乱している。舞台奥には蛍光灯のようなライトもついていて、それ以外はほとんど特別な装置や照明効果は使われない。そして、そこで繰り広げられるアクロバットやマイム的な表現の中で、ごみ問題と、気候変動による水不足、そしてその限られた資源の奪い合い、電気不足等々が描かれた。ただアクロバットをするだけでも十分すごいのだが、私はそういった社会のテーマと有機的に結びついて、考えさせるようになっているほうが好みなのでよかった。後半では、観客席に降りて来る場面もあり、観客に水を渡して(貰えた)、キャストは客席にいるままで、舞台は空の状態になって終わった。このような終わり方も、舞台と客席を隔てる第四の壁を破って、この問題はあなたたち自身の問題ですよということを伝えているようだった。

 

Gratte Ciel “Rouge” @ビックスクエア(屋外)

フィナーレの場面

 これも、サーカスで、ビックスクエアという町の中心部にクレーンで回る装置を吊って、赤い布を使ったエアリエル?空中アクロバットをしていた。その一つ前に観たアクロバットが大人数で連続で超上級の技が繰り返されるものであったため、前半のソロのパフォーマンスは少し物足りなく感じてしまった。最後、全員が同時に、メリーゴーランドのようになって回る人と、棒の上に立ってぶらぶらする人と、エアリエルのような布につられる人に分かれて登場し、赤い紙吹雪が舞い、火花が散る場面はスペクタクルでとても良かった。

 

Mongolian National University of Arts and Culture “Chinggis Khan” @CABAS(屋内)

 モンゴルの国立大学の演劇科の学生による、チンギス・ハーンがどうやって偉大な指導者になったのかという歴史を基にした、フィジカルシアターの上演。学生とするとパフォーマンスのレベルは高く、今まで観たことのなかったモンゴルの(多分)伝統的なダンスを楽しむことができた。一番すごいと思ったのは、馬に乗るマイムで、チンギス役の人が足をクロスして動くのだが、本当に馬に乗っているみたいで非常に上手かった。また、ライバル役の人が友好的な雰囲気を見せてチンギスをだまし討ちする場面などはとても面白かった。ただ、衣装のテカリや安い間接照明を使ったみたいな宝玉的アイテムがちょっと安っぽく、演技も歴史がテーマなのでしょうがない部分もあると思うが仰々しすぎるかなと感じる部分もあった。また、モンゴルの歴史の話なので、英語ではなくモンゴル語といった彼らの言語で演じた方が作品のテーマには合っているのではないかと思った。

ラストのマンチェスターでの観劇~ロイヤルエクスチェンジシアター『No Way? No Pay!』・『Dirty Dancing』~

 この後も『UNTITLED F*CK M*SS S**GON PLAY』や『チャーリーとチョコレート工場』、『SIX』、『ジーザスクライストスーパースター』、『ハミルトン』等々、面白い作品の上演が続々あるマンチェスターだが、もう移動しなくてはいけないのでこの二作品が最後の作品になった。元々7月にまた帰ってくる予定で、『UNTITLED F*CK M*SS S**GON PLAY』を二枚と、Manchester International Festival(6月29日から7月16日)で上演されるリミニプロトコルの『ALL RIGHT. GOOD NIGHT.』のチケットを取っていたのだが、その後にカーボンリテラシーレーニングを受けた結果、飛行機の使用を控えようと思って色々と計画を変更したので絶賛これらのチケットを捌き中だ。ATGは柔軟に対応してくれるので意外なのだが、ロイヤルエクスチェンジシアターとHOMEシアターは日時の変更やキャンセルにあまり応じてくれないということが分かった…。

 

『No Way? No Pay!』 @ロイヤルエクスチェンジシアター

開演前の舞台の様子

 物価の上昇などの世界経済の危機的状況を扱った、不条理コメディ劇。脚本はDario Fo and Franco Rameが1974年に書いたもので、イギリスの現在の状況に合わせてMarieke Hardyが翻案している。演出は今シーズンでの退任が決まっている芸術監督のBryony Shanahan。

 物語は、スーパーで商品の値段が二倍にもなっていることに起こった女性たちが蜂起し、お金を払わずに商品を持ち帰ったという所から始まる。自身もこの運動に参加したアントニアだったが、誠実で真面目な夫のジョバンニに泥棒だと非難されることを恐れて、盗んで来た商品を隠そうとする。そこで、友達のマルガリータのお腹の中に隠して、妊娠したということにするが、そこに警察も捜査しにやってきて…という話で、嘘が重なって、どんどん過激な結末に向かっていく。劇中では、動物の餌の商品を食べるとか、妊娠に関して無知な男性というフェミニズム的でもあるジョークが満載で、かなり面白い。また装置もすべり台などが使われていて、色合いもポップにしてある。ただ、背景には、人々が困窮しているこの資本主義社会に対する批判があり、政治的なテーマも色濃く感じた。終幕には、キャストが全員でBella ciaoというレジスタンスの賛美歌を歌い感動的に終わる。最初どういう話が分かるまでは少しふわふわとしていたのだが、後半にかけてどんどん面白くなっていく感じだった。土曜の公演であるにも関わらず、今まで見てきた中で一番観客が少なかったようなのが少し残念だった。

 
『Dirty Dancing』 @パレスシアター

 1987年のロマンス映画を基にしていて、裕福な家に生まれた真面目なティーンの少女が、労働階級でアダルトな魅力のあるダンスインストラクターにダンスを教わっているうちに恋に落ちるという物語だ。この上演は、ツイッターにも書き込んだのだが、めちゃくちゃ暑いのにエアコンが効いていない、そのため巨大な扇風機が使われているが上演中は音がうるさすぎる、扉が開け放たれていて人が通るごとに廊下の明かりが煌々と観客席内に入って来るなどと劇場の環境が悪すぎて全く集中して観ることが出来ず、他の観客の態度も最悪で、開演時は席に着けていない人が何人もいてザワザワしているし、近くの観客はスマホをいじって、撮影しようとするし、叫ぶし、歌うしで本当にマナーが良くなかった。『ボディガード』の上演で観客が歌い続けて公演中止になった劇場なのだが、これは起こるだろうなと思ってしまった。最も進行の邪魔で不愉快だったのが、客席からの叫び、掛け声なのだが、演者は最後にThank you Manchester!と楽しそうに叫んでいたので案外気にしていない可能性もある。

 映画でも、ケニー・オルテガの振り付けした見事なダンスシーンが有名だが、ミュージカル版もダンスのナンバーが多く、見応えがあった。とにかくヒロインが恋に落ちるジョニー・キャッスルを演じたMichael O’Reillyが筋骨隆々の色気むんむんといった感じで魅力的で、会場からも黄色い声援が飛んでいた。

 

 少し消化不良的な部分もあるが、日本では地方暮らしで、コロナもありあまり観劇出来ていなかったので、イギリス留学中に沢山のプロダクションを観て吸収出来て非常に楽しかった。次回はシビウ国際演劇祭のブログを投稿していこうと思う!

ラストのウェストエンド観劇記~『Operation mincemeat』・『間違いの喜劇』・『CABARET』・『オクラホマ!』・『ガイズ&ドールズ』・『ムーラン・ルージュ』~

期末のエッセイ提出も終わり、イギリスから移動する前の最後のロンドン滞在として三日で計六作品観劇した。ウェストエンドでは、端席だと日本で観るよりも安く5000円以下で大体チケットが手に入るので、あまり普段はチケットを買うことが出来ない商業ミュージカル作品中心の観劇だ。

5月末に観劇したのだが、言い訳をしておくと、IELTSという恐ろしくストレスフルな英語の受験に苦しんで、書く時間が取れなかったので、あまり覚えていない部分が多いかもしれない。とはいえ、日記程度に記録を残していきたいと思う。

 

『Operation Mincemeat』

 ツイッター上でも、演劇学専攻の友達からも熱烈に推す声が聞こえてきていたので、これは観ねばということで観劇。元々人に勧められてみる作品は期待値が上がり過ぎる傾向にあるので、その魅力が全然分からなかったということになって落ち込む場合もあるが、この作品は余裕でその期待値を超えてきてめちゃくちゃ面白かった。

 演出はRobert Hastie、その他のクレジットは公式HP (https://www.operationmincemeat.com/creditswe)に詳しいが、これを見るとマンチェスターのThe Lowryも出資をしているみたいで、いつかツアー公演とかも来るのだろうかと思った。題材は第二次世界大戦下のイギリスの「ミンスミート作戦」という死体を使って偽情報をナチスに掴ませるという実際の作戦を基にしていて、同じ題材に基づく映画も作られている(それに関わるギャグも色々あった)。とはいえ、良いのかと思うくらいコミカルに作られていて、ミュージカルナンバーがかなり多い。ちょっと記憶の限界もあるのだが、二幕始まりのナンバーがナチスに関わるもので、観客が拍手をしたら、キャストが「え、そっちの味方だったの」というようなことをぼそっと言うのがとても面白くて何故だかめちゃくちゃ覚えている。これ以外にも本当に沢山ギャグがあった。

 キャストは驚きの五人だけで回していて、本当に出ずっぱりだ。お手伝いさんでお茶汲み係だったレスリーがスキルを認められて活躍していくのだが、途中でモンタギューが急に冷たくなるのが意味が分からなくて、はあ?という感じだった。何か台詞を聞き逃しているのかもしれないが…。マジでソ連と繋がってる弟とも接触するし、スパイじゃないのか!?(ネタバレを避けておく)

 

『間違いの喜劇』

開演前の舞台の様子。目付柱みたいな位置に柱があってちょっと邪魔。

 イギリスに来てここを訪れないまま帰るのはマズいということで、初めてのグローブ座。ギリギリまでToday Tixの当日券と悩んでいたので、購入が遅くなりスタンディング席は買えず、非常に視界が遮られる状態での観劇になった。双子の主人と従者が混乱を巻き起こす物語で、双子は兼ねるのではなくよく似た背格好の俳優が演じていた。コメディーで、客席いじり(魚を釣る人が糸を観客席に垂らす、髪型いじりなど)や客席からの装置の登場などで飽きさせない仕組みもあり面白かった。途中客席から「Just Kidding」という叫び声が大向こうのように響き、そういう文化もあるんだっけと思ったが、全く盛り上がっていなかった。何だったのだろうか…。

 グローブ座といえば、元々は男性が女性役も演じていたが、現在は逆にそもそも女性役が少ないために女性の俳優が男性を演じるという取り組みを進めていることで知られている。 

www.theguardian.com

↑ブラインドで決めるというのにも批判はあるが、今回の上演でも女性が男の役を演じていて、それがごく自然に溶け込んでいるのはとても良かった。

 

『CABARET』

 Kit Kat Clabと名前を変えられたおしゃれなバーのような劇場で、客席も多くなく、本当に当時のキャバレーに迷い込んだように錯覚する。特に開演時間を勘違いしていて何分か遅れてしまい、申し訳ないことに案内の担当者が一人に一人ずついて、裏道みたいなところを少し歩いたのでその雰囲気を更に感じた部分はあったかもしれない。

 今作品は、1966年に初演され、今回のリバイバル版ではRebecca Frecknallが演出している。2022年のオリヴィエ賞を最多受賞した注目作で、チケットも安い席はすぐに売り切れる現在大人気の作品である。演出はかなりキャンプで、ブレヒトの『三文オペラ』っぽい雰囲気だった。最初はかなりダンサーのキャバレーっぽいパフォーマンスやビジュアルの美しさに惹かれていたが、二幕ではせっかく結婚した家主とユダヤ人の果物屋店主がユダヤ人排斥運動の高まりで別れる所や、主人公のクリフと歌姫のサリーが別れる所など今後の雲行きの怪しさと分かれの悲しさが高まり予想よりかなり感動した。特に果物屋のガラスが割れる演出が花吹雪を上手く使っていてとても美しかった。

 また、歌声が絶品で、特に、クラブのMC役のMason Alexander Parkが鼻にかかったわざとしわがれたような声や高音での歌唱が上手過ぎて魅了された。「I Don't Care Much」が特にめちゃくちゃよかった。5月29日から演じるということだったので、彼自身の初日から三日ほどでの観劇だったらしい(Olney Theatre center の上演で同役を演じてHelen Hayes Awardという賞を受賞している)

 

 www.youtube.com

www.youtube.comこの以前のプロダクションの動画があったのでシェア。上演を観たという経験があるからより沁みるのかもしれないけれど、聴いてみてほしい。今回のプロダクションでの眼鏡をかけたビジュアルもめちゃくちゃ好きすぎる、どうしてこうも中性的というか、ノンバイナリーな表現をしている人に私は惹かれるんだろうね…。

 

 

オクラホマ!』

開演前の舞台上の様子。遠い…。

 宝塚で同じ作品が上演されたとは信じられない程の、恐怖を感じるDaniel Fishの新演出版。元々男女の三角関係の話なのだが、後にカップルになるカウボーイのライバルである農民ジャッド・フライが明らかに村から爪弾きものにされていじめられている。明るい地明かりに、銃が大量にかけられた壁もとても不穏で、全員がすごくけだるそうに座っている。照明が真っ暗になって、その農民の顔をめちゃくちゃアップで映像に移すという場面もあり、よく分からないがいじめられてるということだけは明らかだった。こういう映像を映す場面は良く取り入れられるが、この作品では三階席にもよく見えるように、舞台上のスクリーンじゃなく三階席用に天井の壁にも映像が投影されて親切だと感じた。

 最後は、農民は意地悪されて彼女を落札できないし、振られるし、結婚式で何故か銃をプレゼントして、何も攻撃していないのに殺されてしまう。その死体を放置し、さらに返り血で血まみれの状態で有名な「オクラホマ」の音楽を陽気に歌い始めるのは本当にホラーというしかない状態だった。客席で近くの人が、これの題名は、『オクラホマ!』じゃなくて『母親が観たのとは違うオクラホマ!』にしないとねという話をしていて面白かったのだが、演出でこんなにも印象を変えることが出来るのかという驚きがあった。まあ女性を金で競り落とすオークションは今の時代に批判せず上演することはそもそも不可能だと思うが…。原作もちゃんと確認してから見ればまた発見がありそうだが、もう怖くて原作もちょっと当分は読めないかもしれない。

 

『ガイズ&ドールズ』

終演後の会場の様子。観客が踊っている。

 宝塚でも上演されている作品で、2022年には帝国劇場でも上演がされた。版権が厳しいこともあって映像でも観たことが無かったのだが、主題歌集で楽曲だけ何回も聞いていたため、同じ曲を聞けたときにはかなりテンションが上がった。

 NTの『真夏の世の夢』も上演されたBridge Theatreでの公演で、Nicholas Hytner演出。イマーシブになっており、観客のいるフロアがせり上がりしたり戻ったりして場面が進んで行く。警官の姿をしたスタッフが誘導をしているのだが、どのフロアが次使われるかというのはかなり複雑で、しかしトラブルなく上手く公演が進んでいてすごいなと思った。上演前もそのスタンディングの会場では帽子を売っていたり、記念写真を撮っていたり、上演後にはキャストと踊り出して、ミニダンス大会が開かれたりするので、スタンディングにしなかったことを少し後悔した。

 上演はコミカルで楽しく、特にDaniel Mays演じるネイサンとMarisha Wallace演じるアデレイドのバカップルっぷりがとても良かった。

 

ムーラン・ルージュ

開演前の舞台の様子

 日本でもこの夏に上演されるバズ・ラーマン監督の映画を基にしたミュージカル作品。チケット代が高いということや著名人に頼んだ訳詞で日本では話題になっている。

 会場に入った時の全面赤色を基調とした装置や美術の美しさ、豪華さはとてつもなく、何着も着替える衣装も可愛いので、まず第一にこれはお金がかかるだろうなと実感した。特に主役の高級娼婦サティ―ン役のMelissa Jamesが最初に登場するところは本当にゴージャスで、ビジュアルも歌も非常に魅力的だった。

 この作品は、ダンスのナンバーが多く、彼らの踊りや歌、視覚的な美しさで酔わせるタイプのミュージカルなのだとは思う。ただ、この時代に男女の三角関係で、最後に高級娼婦のサティ―ンが好きな男の腕の中で病気で死ぬという話はちょっと古臭すぎて、典型的なファム・ファタルっぽさもあって、面白くない。さらに、元々の映画から、既存の有名なポップス曲を使うジュークボックスミュージカルなのだが、作品の時代と合っておらずあまり良くないと思う。観客が一緒に歌えるほど盛り上がるわけでもなく、どんどん楽曲は懐メロ化していくので、作品に合ったオリジナル曲の方がむしろ盛り上がるし、より長く上演されたのではないかと思ってしまった。

 とはいえこれらの感想は、すべて一番安い端の席で見ている私の経験に大きく依存している部分がある。特にこの公演は、最終のバスに間に合うかどうかドキドキして全くカタルシスどころではなかった。最後の方の場面は現実と舞台上のストーリーが交錯しているおかげで、想像の二分の一の時間であっさり終わったというのが逆に印象的だが、実際一番盛り上がるカーテンコールは、早く終わってと思ってしまっていた(最悪)。時間がギリギリな場合は、緊張してしまうまじめな性格なので、もう一泊するのが吉かもしれない。でもロンドンでもどこでも泊ると高くつく。できたら日本版とも比較してみたいが、チケット代がやっぱり高すぎるので難しいかもしれない。

 

 これで最後かと思うと残念だが、また近郊に戻ってこれるように(IELTSを?)頑張ろうと思う。色々不安もあるが、人生を悔いなく楽しく生きたい…。