バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

リヴァプール版?『トップ・ガールズ』

リヴァプールの中心街にあるEveryman Theatreでの上演。劇場の芸術監督も務めるSuba Dasの演出(この演目で男の演出家かという気持ちはありつつ…)。

劇場前に飾られているポスター。

 キャリル・チャーチルはいわずと知れた、代表的な現代イギリス劇作家である。社会主義フェミニズム的問題意識で、ブレヒト的な手法を用いた戯曲は面白いし、多くの演劇ファンからの称賛を集めているのも頷ける。個人的にも、『小鳥が口一杯』というエウリピデスのバッカイを基にしたマイナー作品で自主研究をしたこともあって関心が高い。

 今回は、彼女の代表作の一つである『トップ・ガールズ』が近くのリヴァプールで上演されるということで喜び勇んで観に行ってきた。ちなみに、本当はCloud NineやSerious Money、Skrikerがいいなとか、新作がいいなとかいうことが頭によぎったが、Top GirlsはNT版(2017)を映像で見たので比較できるし、松岡和子訳も読んで少々英語が聞き取れなくても内容が大体分かっているのでブログの書きやすさ的には良かったと思う。

 今回の上演は初演から40周年記念で、マーリーンの故郷で姉のジョイスが今も住んでいる場所が、もともとSuffolkと設定されていたのがリヴァプール(特に1980年代初頭に暴動が起きたToxteth?)に移されている。このリヴァプール版であるというのは宣伝でかなり強調されていたのでどのような変化しているだろうと楽しみだったのだが、方言や言及される地名が少し変わっているだけで劇的なものではなかったので残念だった。

 

多くの人が気になっているだろう配役と兼ね役について確認すると、以下の通りだ。

Tala Gouveia マーリーン

Alicya Eyo ジョイス(マーリーンの姉)

Saffron Dey アンジー

Ailsa Joy グリゼルダ、ネル(マーリーンの同僚)

Nadia Anim 二条院、キット(アンジーの友達)

Natalie Thomas(Elizabeth Twellsの代役) イザベラ・バード、キッド夫人(マーリーンの上司の妻)、ルイーズ(客)

Sky Frances 悪女フリート(ブリューゲルの絵の主題)、ショナ(客)、ジェニー(客)

Lauren Lane 女教皇ヨハンナ、ウィン(マーリーンの同僚)

Kaila Sharples ウェイトレス

 

 配役に関して明らかな意味はあまり読み解けないが、特徴的だと思うのは、初演からのマーリーンのみならずジョイス、アンジーも独立した配役になっており、それぞれ見た目が結構似ていて血縁関係があるんだろうということが外見的にも示されることだ。今回はリヴァプールのブラックコミュニティに取材をしたようで、その中心の3人もアフリカ、カリブ系の俳優によって演じられた。つまり、今回の上演では、女性の階級の問題だけではなく、人種の問題も表現することが目指されたようだが、ただ有色系の俳優を使ったからと言って自動的に意味を内包するようなものでもないと思うし、表現できていたかどうかは疑問が残る。

 トップ・ガールズ上演の際の問題の一つは、第一幕の歴史人物と第二幕以降を全て兼ね役にする場合、歴史人物の人種に合わせた配役にすると二条を除いてかなり白人中心の俳優になってしまうということがあると思う。また二幕以降のキャストと一幕のキャストで想定される年齢にも違いがあり、一幕に合わせるとベテランの、二幕以降合わせると若めのキャストになる傾向があるような気がする。日本のシス・カンパニーでの上演は前者で初演は後者だが、NT版では一幕と二幕の俳優は全く兼ね役にされていなかった。今回はその折衷案のような感じになっている。また、最初にアナウンスもあったのだがノンバイナリーの俳優が2人参加しており、その内の一人のSky Frances(they/them)はRADA出身でプロデビュー作のOutbox『Groove』も昨年観ていたので、引き続き活躍が見れて嬉しかった。フェミニズム演劇として、トランス・ノンバイナリー差別などへの反対の姿勢がしっかり示されているのは信頼できる。

第一幕、歴史上の人物の出席するマーリーンの昇進記念パーティーのセット。

 全体的に80年代が意識されており、衣装や装置は特にオフィスの場面で顕著だがレトロで可愛い雰囲気だ。一番見事だと感じたのはそれら舞台の転換で、休憩が挟まれる二幕終わりまでは全く暗転なしにパーティ会場から田舎の地下室、ロンドンのオフィスへと変わっていく。小劇場なのだが、上に吊りものとしてオフィスの机や椅子が吊られていたり、面接のシーンはせりが使われたりする事でスムーズで綺麗な転換になっていた。

 一方残念だったのは、衣装だ。特に二条の衣装に関して、別に日本人だからと言って平安時代の着物に詳しいわけではないし、全く正確なものを求めているわけでもないのだが、それにしても今までのNT版や初演での上演に比べてもかなり酷かったと思う。海外の人がイメージした十二単衣という感じで一番上がサイズの小さな着物で下に行くほど大きな着物になっている。これによって確かに布が重なっていることは分かりやすく示されるが、袖口から何枚もずるっと下の袖が出ているのはちょっと見栄えが悪い。首元も襟の部分を内側におるのではなく洋服式に外側に折っており、しかも全ての着物が柄物でごちゃごちゃしている。

 また、アンジーにマーリーンがプレゼントしたワンピースは先に出てくる第二幕一場ではぴちぴちになって不恰好になっているべきでNT版ではサイズ違いのワンピースが効果的に用いられていた。しかし、今回は後のシーンのワンピースと同じものが使われていて、時の経過やマーリーンへの憧れが空回りしている様子は伝わってこない。この衣装はこだわって2着用意するべきではないかと思う。

第三幕、姉ジョイスの家のセット。結構NT版と似ている。

 最後に演技や演出に触れていきたい。今回の上演をNT版と比較すると、細かいディティールの違い、例えばチャーチルの劇の特徴の一つである台詞のオーバーラップが忠実に行われているとかいうことは感じたのだが、全体的にはそこまで個性的ではなく、特に第三幕の姉ジョイスの家でのマーリーンとジョイスの口論のシーン等は感動的ではあるものの、違いの出にくい場面だと感じた。一幕の歴史上の人物のパーティーの場面も、円形の机というのは初めてのタイプだし、二条だけNT版より激しく髪を振り乱して狂う感じで強調されていたのは良くなかったが、それ以外はそう変わったところはなかった。

 一方で、大きく演出家の解釈だったり違いが出るのはジョイスの娘として育てられているが、実はマーリーンの子供であるアンジー関係のシーンではないかと気づいた。NT版のアンジーがかなりオカルト趣味の奇妙な少女味が強かったのに比べると、今回のアンジーはただちょっと元気すぎる子供の範疇で、マーリーンやアンジーの彼女に対する冷淡な評価の響き方も変わってくる。最後の場面で悪夢を見たようなアンジーがマーリーンにお母さん、怖いと呼びかけるシーンも、NT版がしんみりと怯えていて謎を残すような感じだったのに比べて、今回の版では走りながら激しい感じで入ってきて、本当に何か悪夢を見て訴えているように映った。鈴木美穂先生の「境界を内破する ─ キャリルチャーチルトップガールズにおける身体」 西洋比較演劇研究 13 (2): 115という論文でも、アンジーが姉妹の二項対立の境界を行き来する存在として解釈されていたが、今回はよりそのような側面が強く感じられた。ただこの論文では、一幕のマーリーンの昇進パーティーの場面が三幕のアンジーが見た夢であるという可能性について論じているが、今回の上演では、一幕から二幕への場面転換の際にマーリーンがこちらに背中を向けて立ち尽くしており、歴史上の人物が物を運びながら彼女にアクションをかけてくるので、マーリーンの夢であるという解釈が強調されていた。暗転ばかりのNT版に比べても、上述の通り今回の転換は見事なのだが、その演出一つで演出家の解釈が示されるというのも面白いと思う。

 

この後、リヴァプールから日帰りで帰って、友達が演出したオリジナルミュージカル作品を観に行った。(誘われたから電車の便を変更したのに、誘った本人が来ないという謎)盛り上がってはいたが、バックステージもののジュークボックスミュージカルで、大会に向けて新作ミュージカルを作ろうとする団体が、色々もめながらも最終的には成功するというよくあるタイプのやつだったので退屈してしまった。

 ★3のレビュー:ガーディアン紙、WhatsOnStage

★4のレビュー:ザ・ステージ、テレグラフ

少人数の演目多め~『The beginning』,『WHO YA GONNA CALL? 』,『Song From Far Away』,『Death Drop』~

 まだ気温が全然上がっていないが三月だ。今月は意味が分からないくらい面白そうな演劇が目白押しであるため、観劇のスケジュールがめちゃくちゃなことになっているし、少し遠くの劇場で上演される作品やチケット代のかさむ公演はかなり諦めている。

 劇場も少ないし、上演も少ないため、よく知らない内輪のノリの強いような地方の演劇サークルまで見て、それでも全然月に二三回とかの観劇回数だった高校時代を思い出せば羨ましい状況だが、演劇を観るというのもそれはそれでかなり体力を使うことだということを、最近強く感じる。特に英語だし、ブログを書くし、しかもなんか体調が悪い。いくら大好きな友達でも遊びに行く当日全然部屋から出たくなくなるみたいな感じで、元々が出不精だから演劇の予定がないとほとんど外に出ないし、チケットを買わずに当日決めようと思っていると大体行かない。そのため今月はもうほぼ事前にチケットを買った。ただそうすると、新しく友達から誘われたり、めちゃくちゃ面白そうな公演が後から出てきたりして、また観劇回数が増えることになる。この余裕のなさは確実に学校の忙しいスケジュールのせいもある。ストライキが無くなって休みは消え、授業は10週しかないのに、8週連続で授業して一か月ほどのイースターブレイクを挟み2週授業をするという感じでバランスが悪い。ちょっと休みが欲しい。あとバスが高く、劇場まで良い感じに連れて行ってくれるものもないため大体歩いているが、雪が降ったりして寒いし、疲れる…。

 

 と、一連の最近のただの愚痴(多分暖かい季節になったり、めちゃくちゃ面白い演劇を観たらすぐに回復する)を言ったところで、水曜日と木曜日に観劇した作品を簡単に振り返っていきたい。

 

Royal Exchange シアター ‘The beginning’

 お馴染みの円形劇場、Royal Exchangeでの上演。David Eldridge脚本、Bryony Shanahan演出で、ナショナルシアターで2017年に初演された作品。2時間ほどの二人芝居で、38歳の仕事で成功を収めた独身女性のアイランドキッチンのある豪華な部屋を舞台に、離婚して娘のいる男性のパーティーでの会話と、ぎこちない関係性の進展を描いている。このように書くと、あんまり面白くなさそうな内容で、私も正直全然期待をしていなかったのだが、発言の面白さや、二人の関係性のじれったい感じというのがこれぞリアリズム演劇という見事にリアルな演技と相まって結構楽しめた。特に、キスをするのかなという雰囲気になったのに男性の方がするっと逃げて行ったり、掃除をしてから落ち着いて話そうとなったら、女性が掃除をしているようで、ただもう掃除が終わったことをアピールするように振舞っていたり、曲を流して変な踊りをしたり、魚をオーブンで焼いて静かに食べたり…英語が聞き取れていないのでこういう分かりやすい身振りに注目してしまっているが、台詞でもかなり笑いが起きていたので完全に理解できるともっと面白いだろうと思う。脚本は初演のままのようで、アメリカの次期大統領は女性になるだろうというような台詞はかなり皮肉に響いた。

舞台の様子、下手にあるこの柱がソファの視界を遮っている

 一つ問題があるとすれば、円形舞台に2つ街頭のライトのような装置が建てられていて、能舞台の橋掛かりのように視界を遮ってくる。『雨に唄えば』の有名なシーンのようにその装置を使う場面があるのならまだ納得もできるのだが、部屋の中という設定だし、必要性が分からないままただ邪魔という感じだった。

 

Stephen Scott-Bottoms教授による一人芝居WHO YA GONNA CALL? (in event of emergency)

上演前の様子(教授の顔は一応隠しました)。

 前学期のTheatre of Modernityや今学期のTheatre & Performance2を受け持っている先生の一人芝居を観てきた。セミナーという少人数のクラスこそ受け持ってもらっていないものの、レクチャーやプレゼンの審査員としてなどで顔を合わせることもあったので、最初に一対一で自己紹介する時間ではああ、マスクつけてるからわからなかったけど見たことあるよという反応だった。観客席に座る段階で嫌な予感しかなかったのだが、第4の壁はなく、舞台上に先生を囲むようにして客席が設けられており、まず、1から9までの番号が振られた黄色いバケツを観客に先生が配って回る。その後も小包が爆弾ゲーム形式で回ってきて当たった人は中に入っている名札の役を演じなければならなかったり、何かにつけて役割が観客に振られて、絶対に当たりたくなかったので変にドキドキしてしまった。先生もそこら辺は配慮してくれていたと思うので、私の横の人はめちゃくちゃ駆り出される割に私が指名されることは無く(それはそれでさみしい気持ちもあるが)無事に終わった。

 内容は気候変動に関するもので、それぞれ市議会議員や企業の役員といった役を振られた観客とのロールプレイングゲームだったり、バケツの中の砂を観客に運ばせて、途中インフラが壊れたらどうなるかということを視覚的に示したりしていた。バケツの中からは、砂に埋まったミニチュアのトラックや地球、マスクなどが出てきて、そのアイテムに関する話題が進む。結局、コロナもあったし、人間の制御しきれない問題は必ず起きるものだから、それをどうしていくかというような話であったような気がする。最終的な話の理解がなぜこんなにも曖昧かというと、大きな道具もなく、先生だけの一人芝居で、観客参加を促して結構面白い演劇作品として成り立っていることから、私もなんかこういうのやりたいな~と途中で考え始めてしまって、全く集中できなかったからだ。先生のアイデアをパクるのは問題だと思うので、何か自分の研究に関連して大学の劇場でできないかなとか、いやでも卒論の研究を題材に面白いことが思いつかないなとか、松井須磨子…?レクチャーパフォーマンス…?と色々な考えが行き交い、そうすると約一時間のパフォーマンスが終わっていた。

 

Homeシアター ‘Song From Far Away’

開演前の舞台。この天井やカーテンが可動式になっている。

 Will Youngの一人芝居で、Simon StephensとMark Eitzelの脚本でKirk Jameson演出。ちなみに、2015年のYoung Vicでの上演では、イヴォ・ヴァン・ホーヴェが演出を務めたらしい。

 兄の死をきっかけとした家族にまつわる独白劇なのだが、かなり台詞が多く、舞台の字幕が表示される公演を選んでいたにもかかわらず、視力が悪化しすぎていることもあって全然字幕を追えなかった。しかもこの前に2作演劇を観ているなど色々他にも要因はあるだろうが、Will Youngの声色が心地よ過ぎて、温かい感じでめちゃくちゃ眠気を誘われた。なので本当に夢の中で見た世界というような感じなのだが、舞台装置がまた見事で、天井が迫って来るような装置や柔らかい色のカーテン、そこにさす日の光のような照明が本当にきれいで、ノイズがないという感じだった。もっと集中して内容を掴めた方がもちろんいいのだが、やらかしたという反省も少ないくらいポカポカした気持ちよい劇場内で、逆に起きてた人がいるのかなと思う(開き直り)。

 

Opera House ‘Death Drop: Back in the Habit’

会場前に掲示されたチラシ。

 Alfie Romeoという名前の女性蔑視的で差別的な司祭(ドラァグキングのLouis Cyfer演じる)が秘宝が隠されているという修道院に向かうが、そこでJujubee, Cheryl Hole, Victoria Scone, Kitty Scott-Clausという有名なドラァグクイーンたちが演じる修道女たちに脅かされるという話だ。この修道院には幽霊が出るということになっていて、ホラー要素がありながらめちゃくちゃ下ネタ多めのコメディ作品になっていて、キリスト教を皮肉る作りになっている。最後の場面では、トーリー(現政権)とTERF(反トランス主義者)以外は修道院に歓迎するというような発言で締めくくられて、観客は大盛り上がりする。そういう政治や宗教に対する批判・風刺に加えて、走ったら一瞬で場所が移動する、煙たいスモーク、照明のスポットが当たる立ち位置が決まっている等々の演劇の約束事の存在もコミカルに提示し裏切っていくメタシアター的なつくりにもなっていて、めちゃくちゃ面白かった。一人の修道女は確実に『サウンド・オブ・ミュージック』のパロディをしていることもあり、宗教の題材であることもあり、『ブック・オブ・モルモン』との共通性が指摘できるかもしれない。

 イギリスに来てドラァグクイーンの出演するショーは何回か見たし、前回観たミュージカル『Head over heals』もその一つだったが、完全に演劇・ミュージカル的で、大劇場を埋めるような演目は初めて見たので、先進的だと思う。ちなみにこれはイギリスでも珍しいことのようで、「これぞ新時代の演劇(This is a new generation of theatre)!」と評されていた。

mancunion.com

 日本だと、お蔵入りになった「マグダラなマリア」シリーズが結構今回の演目に近いコンセプトだったのではないかと思う。つまり、性加害で問題になった演出家のオリジナリティがかなり強調されて、復帰を望んでいるようなファンも多いマグダラだが、そこには結構ドラァグショーなどでの型とか定番のような部分もあって、同じような面白い作品は別に一人の演出家の才能に依存しなくても作れるんじゃないかと感じた。また、マグダラでは若手男性俳優が女装していたし、日本ではあまりドラァグクイーンが演劇やミュージカルの舞台に上がるという事はまだ聞かない。実際、私も考えたことがあまり無かったのだが、こういう演目が上演されても面白いだろうな(日本だと破壊尼的な…?)と思った。

 

クイアジュークボックスミュージカル『Head over heals(ヘッド・オーバー・ヒールズ)』

 先週末、Hope mill Theatre という独立系小劇場に初めて行って観劇してきた。この劇場は、他の小劇場とは少し異なり、他のアーティストへの貸館事業よりも、新作や輸入作品を自分の劇場で製作し、ロングランで上演することを中心に据えたタイプの劇場のようで、前回もミュージカルの『シンデレラ』を上演していた。

開演前の様子。



 今回上演された、『Heads over heals』は、『アベニューQ』でよく知られる、Jeff Whittyが脚本を務めた作品で、2018年にブロードウェイで初演された。The Go-Go'sという80年代頃に人気を集めたアメリカ発ガールズバンドの楽曲で構成されたジュークボックスミュージカルでもある。

 

 物語は、エリザベス朝の詩人フィリップ・シドニーの『アーケイディア』(1590)を基にしているらしい。あらすじは、ブロードウェイの上演時の情報をまとめた以下のサイト(https://www.at-broadway-musical.com/shows/head-over-heels/)にもまとめられているが、エリザベス朝時代の、アルカディアという領地とその支配者層の人々のバタバタコメディだ。まず、アルカディアの公爵は、ドラァグ預言者から、四つの予言が成就した場合良くないことが起きるという神託を告げられる。これを避けるために彼らは旅に出るが、二人の娘のうちの姉の方は、騎士団長?の娘と恋に落ち、妹の方は、幼馴染の羊飼いと恋に落ちる。この羊飼いは、身分の低さから結婚することに反対されており、無理やり女装して旅についてくるが、公爵も、そして公爵夫人もこの変装した羊飼いに恋をしてしまい…、という展開だ。同性愛や異性装、ノンバイナリー性、トランスジェンダーといったLGBTQIA+のテーマが詰め込まれており、保守的で家父長制の体現者である公爵が変化していく物語でもある。

www.youtube.com

 上演は、想像よりも更に小劇場的な空間で、狭い空間に10人ほどの演者が出てきてパフォーマンスをするので、客席との距離も近く、豪華だった。パフォーマンスもプロの完璧さというよりは、たまに不完全さ、手作りの雰囲気がにじむような感じではあるが、歌もダンスもずっこけることは無い。またブロードウェイでトランスジェンダーの俳優によって演じられたことで大きく話題になった預言者は今回も、トランスジェンダーでノンバイナリーだと公表しているIz Heskethによって演じられた。ただ、題材の新しさや面白そうな内容紹介で期待していた割には、余り満足できなかった。というのは、何故か台詞の英語が非常に聞き取りずらい(友達もそう言っている)、歌があまり盛り上がらない、劇の盛り上がりも少なくあまり内容が面白くないという点にあると思う。

 

 例えば、最後羊飼いに騙されたと思った公爵が決闘を挑んだり、そこで羊飼いが死んでから更に復活したり、預言者も家族の一員になったりと怒涛の展開をみせる部分があり、そこがカオスで面白くできそうなのに、何だかあんまり盛り上がることも、そのおかしさを強調することもなく、ただ冗長に感じられただけだった。

 

 薄々感じてはいたのだが、今回改めて難しいと思ったのは、観劇事前予習問題で、この作品は特に予習していかないと何が起きているのかさっぱりわからなかっただろうとも思うのだが、逆に予習していったことで先の展開が読めてしまい、演出や特殊効果での面白さがないとよりつまらなく感じてしまう。そんなのは日本の演劇でも起こりうるのだが、やはり内容を読めば読むほど期待してしまうし、でも読まずに行くと全く内容が入ってこないこともあるしでバランス感覚が求められると感じた。

 

 余談だが、この舞台のセットは杉原邦生式(暫定的にこう呼んでいる)の文字をネオンなどで表現するタイプだった。このタイプの舞台に関する情報をもっと集めていきたい。

 

www.theguardian.com

www.whatsonstage.com

リピート向け?チケットが安いー「ロッキー・ホラー・ショー」ー

 最近、日本のTwitterで話題になっている、「ムーラン・ルージュ」のチケットが高すぎる問題。その流行に乗りつつこのブログを始めたいと思う。「ロッキー・ホラー・ショー」は日本でも去年2022年にパルコ主催、河原雅彦演出、古田新太主演で上演されている。私は、東京ゲゲゲイのMIKEYが振り付けを担当されていることもあり、宣伝も面白そうだし観に行こうと思っていた。しかし、大阪公演は、森ノ宮ピロティホールで全席指定13,800円。しかも何故か東京や広島では導入されているU-25割は大阪では無いという不遇ぶり。13,800円という値段の高さもまあ学生の私には払える値段ではないのだが、買ったところで、1000席以上のキャパの劇場で何故一番後ろの席と一番前の席が全く同じ値段なのだという不平等感がとても耐えられたものではない。日本版の演出はかなりオリジナル色が強くて面白そうではあるのだが…。

www.youtube.com

チケット販売の例、大体7種類ほどの幅でチケットを選ぶことができる。


 

 それに比べて今回のオペラハウス公演、試しに明日の公演のチケットサイトを見てみたら、29.5ポンド~77ポンド(約5000円から約13000円)の間で五種類のチケットの値段から選べるようになっている。抽選式ではないので、高いチケットを買って非常に後ろの席になるという不幸も起こらない。しかも、今回私は金曜の16時半公演という平日の昼公演の席を一か月以上前に買ったので、13ポンド(約2000円)で一番後ろではあるが一階席のチケットを取ることができた。しかも、このATGチケットは公演72時間前で空席があれば3ポンドの手数料で違う日の同じ席種に変更させてくれるし、保険のお金をかけていたら返金もしてくれる。もちろん、イギリスは日本より観劇文化が根付いているため、平日でも劇場が埋まりやすくそういう変動的なチケット価格や保障をつける余裕があるという事情はあると思う。ただ、席の種類だけは増やしてほしい。ちなみに私の学生としてのチケットの感覚からいうと5000円がリミットで、もうそれ以上はかなり躊躇する。

ロッキーホラーショーの50周年記念ポスター。



 「ロッキー・ホラー・ショー」の話に戻ると、1973年に初演された今作は今年が記念すべき50周年のアニバーサリーイヤーで、ロンドンでも記念公演が行われるようだ。1975年に映画も上演され、記事によると世界各地で3000万人以上が来場しているらしい。

https://secretmanchester.com/rocky-horror-show-50th-anniversary-manchester/

あらすじは、ブラッドと婚約者のジャネットが大学時代の恩師に会いに行く途中、悪天候で偶然、謎めいたマッド・サイエンティスト、フランクン・フルター博士の不気味な屋敷に迷い込んでしまい、彼の作り上げた人造人間ロッキーも加わって騒動に巻き込まれていくという話だ。とにかく、前々回のブログに入れられなかったことを後悔するぐらいの、さらに観客参加が激しい作品で、観客は歌うわ、台詞は言うわ、踊るわ、ペンライトを振るわでガンガンに劇に介入してくる。最も特徴的だったのが、意図的に間違ったセリフを先に言ってしまうというやり方で、大体Fワードを中心に全ての行動の目的をFにしようとしてくる。俳優達も、ブラッドとジャネットは役柄的にもあまり反応しないが、ナレーターはかなり反応して返してくれるし、フルーターは彼自身大体目的はFなので、観客達に言うな言うなと内緒のポーズをしたり反応がある。他にも色々下品な大向こうたち(しかし歌舞伎と違って前方席にいがち)は、王室ネタっぽいこと等、色々言っていたのだが、中々これは聞き取って理解するのが難しかった。このアドリブパートの一番の盛り上がりが、政治、保守党批判で、政治自体には問題有とはいえ皮肉を言っていく姿勢は流石イギリスという感じだ。

一階席最後列からの舞台の様子。



 観客はまた多くの人がコスプレをしている。上がスーツ姿で眼鏡をかけて、下がガータベルトとパンツ姿という人を幕間に見てどういうコーデなんだと疑問に思ったが、これもスコット博士という二幕から登場するキャラクターのコスプレだった。私の隣に座った女性三人の集団もコスプレをしていて、そのうちの一人が開演前や幕間に少し「この劇を観た事があるのか?」等と話しかけてくれたが、彼女はもうこの上演で5回目の観劇ということだった。やはり、アドリブと観客参加要素があるからか、公演ごとリピートの観客率が他の公演に比べて非常に高く、だからこそ観客も仕上がっていくのだと思う。

 

もちろんパフォーマンスもレベルが高く、全員上手いのだが特に、主役のフルター博士役のStephen Webbとジャネット役のHaley Flaherty(マチルダの先生役もしていたらしい)の歌声が圧巻だった。作品はドラキュラとフランケンシュタインの融合といった感じでドラキュラのクイアであるという特徴を異性装でパンセクシュアルという博士がしっかり受け継いでいるということを感じた。50年前の作品と考えると十分新しいのだが、最後その博士が殺されてしまう結末や、逸脱を経験したカップルが結局異性愛に戻っていくという感じが何だかもの悲しく、全体的にも前半の盛り上がりに比べて後半は失速したような印象を受けた。カーテンコールでまた代表曲の’The time wrap’が歌われて、盛り上がるものの、ダンスシーンにはあまり乗れなかったのはこの悲しい結末にあるかもしれない。

要素が多めの香港に関するコメディーPapergang Theatre ‘A Bouffon Play About Hong Kong’ ー

Papergang Theatre ‘A Bouffon Play About Hong Kong’ HOMEシアター

 PUSHフェスティバルという劇場の催しの一部の公演。Isabella Leung作・演出で、2021年にはThe Women's Prize for Playwritingの最終候補作に残ったらしい。タイトル通り香港にまつわる話で、上演前には政治的な話題があるため絶対に舞台の録画をするなという注意が流れた(ジョークかもしれない)。客席は私がイギリスで今まで観劇してきた中では英国ナショナルバレエの『白鳥の湖』を抜かして一番アジア系の割合が多かった。

homemcr.org

 

 タイトル通り香港にまつわる話であまり笑えないコメディなのだが、中国大陸の思想を持った師匠のような人と女性の対話、広東語を教える先生、家族の風景など、それぞれの場面が非直線的に融合して構成されている。画面に文字が出たり、歌を歌ったり、キャストが道化的であったり、中国の題材であるのはかなりブレヒト的だと感じた。特徴的なのは、記号論的に分析できそうな美術の多さで、鏡、鳥かご、洋服の下にチャイニーズドレスを着た女性、目の光る豚、コムデギャルソンのコブドレスのような衣装などなど盛りだくさんだ。やはり言葉に表すのを避けながら、香港の人々の中国政府に対する抵抗の文脈を示すという意図がそこには表れている気がした。

 

 友人と話していて面白いなと思った要素を抜粋して紹介する。例えば、広東語を教える先生は、観客参加型の場面で、最初の方は非常に楽しそうであるのだが、段々スマホを気にするようになる。そこで、スーパーのカートのようなものを持って登場するのだが、そのカートの中にある豚の頭の目が真っ赤に光る。その後、再登場した先生は、広東語を喋ることができなくなっており、更に口に黒いテープを貼られて、背中に先ほどの豚の目のように赤く光る棘のようなものがいくつかついていることが示される。これは民族同化で独自の言葉が奪われるということ、また豚の赤い目や、背中の赤く光る棘は監視されているという状況(=総監視社会)を表していると考えられる。関係ないが、この先生はおそらく作・演出のIsabella Leungが役者としても演じているため、他の演者と交わらずに一人で稽古できそうな作りになっていた。

 

 更に、洋服の下にチャイナドレスを着た女性は、おそらく三浦穂海という日本の方が演じられていたのだが、おそらく香港それ自体の状況と、更に具体的な、中国政府の傀儡だと考えられている現首長、林鄭月娥を表していると考えられる。彼女は最初はその洋服を着た姿で登場するが、鏡を見つめて、ナルシストな、自尊心の強いような様子だ。その後チャイナドレス姿になり、中国を表していると思われる大きな男の靴をなめ、性的にも服従する。しかし、最後の場面は、彼女のスカートの下から人々が登場し(=香港の人民を表している?)、鞭をもった男からその人民を守ろうとするような姿が描かれていたので、多少の希望をにじませた結末のようでもあった。ちなみに、そこまで意識をしているかどうかは不明だが、この女性が日本人の役者であるという事を考えると、新しい意味を読み取ることができてしまう恐れがある。

 

 全体的には、広東語や中国語が分かったらもっと理解が深まったのだろうなと思うような場面もあり、中国語のできる友人が羨ましかった(そこで急にCourseraで中国語の勉強を始める)。ただ、後半の場面には香港に越してくる中国人のシーンがあるのだが、一番最初の広東語の授業で「你好」が広東語では「ネイホウ」であると学んだおかげで、この人は香港の人じゃないという事が非中国語話者にもはっきりと分かってその伏線は面白かった。そして、今まで全然書いてこなかったが、上演地であるイギリスとの植民地としての関係も描かれている。ただ、かなり美化して描いている節があり、一緒に行った中国出身の友達は、そのイギリスを持ち上げて中国を徹底的に悪者にするような姿勢には疑問を呈していた。

 

 ログインしないと見れないかもしれないが、ニューキャッスルでの試演会の様子、上演時にはかなりブラッシュアップされて変化していた。

vimeo.com

観客の重要性 -『マンマ・ミーア』・『Gallifrey Cabaret』-

 先週の観劇の後、授業で観客論を勉強してからブログを書こうと思っていたため時間が空いてしまった。授業では、ジャック・ランシエールの『解放された観客』と、Royona Mitraの'Decolonising Immersion: Translation, spectatorship, rasa theory and contemporary British dance'というインドの古典的な芸術受容理論ラサ理論を用いて、イギリスのコンテンポラリーダンス作品(アクラムカーン等)を分析し、没入という概念を脱植民地化するという論文を読んだ。両者とも受動的な観客と能動的な観客という二項対立的な見方を否定し、どの観客もパフォーマンスに関与するアクティブな存在ということを主張しており、実際に先週の観劇もそのような観客の作品や演者に与える力を感じるものだった。

 

『マンマ・ミーア』 Manchester Opera House

劇場外観の様子。定番のポスター。

 映画化もされた名作ミュージカル。映画は2まで観ているのに、ABBAというグループバンドの曲を使ったジュークボックスミュージアムという事には観劇前に予習をするまで気づいていなかった。また、イギリス出身の同級生がカラオケでABBAの曲をノリノリで大人数で歌うのを観て、フーンやっぱりヨーロッパでは人気があるんだなぁとしか思っておらず少し舐めていた部分があったのだが、観劇後にはその気持ちが分かった(ちなみに観劇後その友達の一人に道端であって、感想を熱烈に伝えたら、公演がツアーできていること自体を知らず、驚いていた。何故…。)

 上演は、とにかく全員歌が上手く、面白く、良いミュージカルを観たという満足感でいっぱいになった。どうしてこのような設定の話を思いついて、それがABBAの曲とこんなにも上手く融合するのが疑問に思う位だ。制作のプロセスについて検索したら、このサイトが詳しかった(https://www.thecinema.jp/article/987)。ちなみにもっと上に表示されるサイトで最初にウェストエンドがニューヨークにあると書いているものがあり、その時点でそれ以降の情報に対する信頼を失ってしまった。

 

 youtu.be

 

 特に上記の「Lay All Your Love On Me」のシーンは、映画版でもかなり忠実に再現されているものの、二人の間に邪魔に入るコメディチックな部分はミュージカル版の方が良かったと思う。かなり面白かった。ミュージカルが先にあるものを映画化して、その後ミュージカルでは描かれていない続編が映画として新しく制作されるという展開は改めて興味深い。

 そして、作品自体も最高だったものの、観客が特に最高だった。まず客層からして、劇自体と同じく母親世代のグループと娘世代の若いグループの集団が客席の大半を占めており、女性が仲のいい友達たちと『マンマ・ミーア』を見に来るという状況が見ているだけで不思議な幸福感を得ることができた。そして劇中のナンバーではその友達同士でみんなで小声で歌ったり、リズムに乗りながら盛り上がるのである。こういう観客が歌ってしまうというのは状況によっては邪魔に感じてしまうこともあるのだが、今回の場合は作品やバンドが人々に愛されてるという事が切々と伝わってくるため、劇中の曲より先に間違って歌ってしまう人が出たりしても全く嫌な気持ちを抱くことなく笑うことができた。そして最後のカーテンコールの後には、アンコールで代表的な三曲程の歌が歌われる。観客の興奮も最高潮で、全員立ち上がってダンシングクイーン等を歌うのだが、一人で来ている私も恥ずかしげなく踊れるくらい開放的な雰囲気が劇場に満ちていたと思う。『マンマ・ミーア』の出演者は毎日こんなに観客が盛り上がるとすれば、幸せすぎて、これ以外の公演出れないのではと思ってしまう。また、このミュージカルは劇団四季でも上演されており、日本でも観られる作品ではあるのだが、この全員がABBAの曲にめちゃくちゃ親しんできたという観客の中で観劇できる経験はここならではだと思うので、観劇して良かった。

 

『Gallifrey Cabaret』 Contact

最後のカーテンコールの様子(写真撮影自由)

 近所のコンタクト劇場での公演。会員なので無料で観劇することができた。タイトルにある通りキャバレーなのだが、公演説明に書いてある通りドクター・フーのコンセプトの上演で、想像よりその元ネタ引用的な場面が多く、それ以外は特にキャバレーのパフォーマンスとしての面白さ、ダンスのテクニックや見せ方の工夫などが優れているとも思えなかったため、公演時間も二時間半と長い中、退屈してしまった。最後のハリーポッター批判と映像を使った政治批判は面白かった。

 この公演の観客も盛り上がっていたのだが、私が一ミリもネタを分からないということもあって、疎外感を感じた。また、隣の席の女性から強烈なアルコール臭がするのに加え、意味の分からない盛り上がっていない場面で叫んだり、踊ってめちゃくちゃ席を揺らしたり、前列の友人に私を横切る状態で話しかけたりするので、ただただ不快だった。やはり当然のことではあるが、観客にも全体のノリというのがあってそこから明らかにずれたり、舞台上の展開と全く関係なく盛り上がっているとしらけるものだと思う。

 

 ちなみに、最近ガーディアン紙で見たのだが、エディンバラプレイハウスの「ジャージーボーイズ」公演(去年私も観劇したやつ)が、観客同士が上演中に喧嘩を始めたことで中止になり、ATGという大手演劇制作会社が“best party in town” や“dancing in the aisles”といった宣伝文句を使うのを止める事を決めたらしい。私も舞台を見ていて急にこの瞬間突然舞台に走って行ったらどうなるだろうと頭をよぎることがあるが、約束事やマナーでどうにかなっているリスキーな部分がライブパフォーマンスにつきものだと改めて思う。観客は能動的な存在なのだ。

www.theguardian.com

今週の観劇三種ーGary Clarke Company『WASTE LAND』, IRIS Prize 映画上映会, House of Suarez『Vogue Ball』

 

マンチェスターでの観劇生活再開の始めは、まずお気に入りの小劇場での観劇からだ。

 

① Gary Clarke Companyの“WASTE LAND” (2019初演)

開演前の様子。友達と来たのに、色々あって分かれて座っている。

徒歩三分ほどの一番近いコンタクトシアターでの観劇。労働者階級の父親と子供の分断した親子関係の話であり、ストライキに関わる政治の話であり、ケアの話であった。COALという作品の続編として創られたらしい。

物語はイギリスの炭鉱の町Grimethorpeで始まる。ここでは、一年にわたるストライキが、「もっとも不名誉」と呼ばれているように成功せず、サッチャーの政策によって、1994年に炭鉱が閉鎖、多くの人が職を失った土地だ。幕が開くと、まず、そこで働いていたのだろうと想像できる中年の男性が、お酒に酔ったように千鳥足になりながら、自身の胸を刺すような痛ましい動きをしながら踊る。背景には、ストライキ当時のものと思われる映像が流れ、その当時を思い出して悲しんでいるようである。そこに老人たちが四人登場し、ブラスバンド隊も二人登場し、ストライキの歌のようなものを歌う。彼らは、コミュニティを巻き込んで創作を行うべきだという考えの元に選ばれた、地元の人達らしく、雰囲気もそのような感じだが、かえって歴史の証人のような印象が強まった。彼らが去ると、フードを被った若者たち五人が登場し、クラブやストリートで踊られるような若者のダンスを踊る。この作品はイギリスの「レイヴ文化」の30周年を記念して作られており、閉鎖された炭鉱の廃れた街中に新しい世代の彼らが入り込んでいくという構造になってるようだ。

その後、最も焦点が当てられてるのは、若者の一人と冒頭から登場している中年男性の父子関係だ。アルコールに依存し、メンタルに問題を抱えている様子の父親と、そのケアをさせられる子供という構造が示される。実際に彼らは対決し、ぶつかり合い、ストレスをためた息子は夜の街に出かける。部屋のセットは変わらず、中年男性が父親として、そして元炭鉱夫としての存在感を放つ中、再び「レイヴ」の文化に基づいたダンスのシーンが始まる。大音量のクラブミュージックと抽象的な柄や光の映像とともに始まり、カッコ良いのだが、やりすぎではないかという位長く続き、段々と集団の秘儀を見ているような、不安な気持ちにもさせられた。最後は息子が傷ついているところに、今度は父親が助けにやってきて、父子の絆が回復する。

 

全体的には、父親世代の炭鉱のストライキにまつわる政治的な部分と、子供世代の「レイヴ文化」の部分の繋がりが少し掴みにくく、対照的な二つの要素のままで上手く融合出来てないんではないかと思った。しかし、それは北部の元工業地帯であるマンチェスターの歴史やこの町の置かれている立場にあまり私自身が明るくないという事情があるかもしれない。両隣の人達はどちらもこの90年代の出来事を記憶しているような様子で、感極まり、熱狂している様子だった。

 

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②番外編:アイリス賞を受賞した2022年のBest of Iris映画上映会

LGBTQ+の映画祭であるIris Prize LGBTQ+ Film Festivalの受賞作五本の上映。上映前にディレクターBerwyn Rowlandsの解説がついている。

  

 homemcr.org

 

5本の作品は、ゲイの聖職者と発展場で出会った少年の話だったり、人種だったり障がいのテーマが描かれたり(インターセクショナリティ‼ほぼ毎日この言葉に触れている)の短編の映画でどれもとても面白かった。

特に、Erich Rettstadt監督でアメリカと台湾で製作された“Tank Fairy”がキュートで、「シンデレラ」や「アラジン」のモチーフが取り入れられたりして面白かった。ガス交換屋さんの妖精と、ドラァグを夢見る少年の話だ。

 

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関西クイア映画祭でも上映されていたそうで、存在は知っていったもののチェックしていなかったのでもっと観に行っていれば良かったなと思った。まあ、日本にいる時の方がむしろ忙しいし、大阪といっても劇場に歩いて行けたわけではないだろうからな…。

 

③House of Suarezの“Vogue Ball”

クイアコンタクトという映画祭が前述のコンタクト劇場で開催されていて、それの初日を飾るBallとよばれるヴォーギング等の公演。普段の劇場の横にある、アカデミーと呼ばれるクラブ会場で行われた。三時間ほどあり、ずっと立ちっぱなしというのは厳しかったが、優しいお姉さま方が見やすい場所を譲ってくれたりして、視界は大体良好な場所で見る事が出来た。

優勝したグループ?そういう設定?が審査員から発表され、トロフィーを貰ってパフォーマンスをする。

リップシンク、ヴォ―ギング、コレオグラフィー、セックスなどテーマが決まっていて、それごとに何人、何団体かが登場し、審査員が評価するという形式だった。団体の際は、ハウスと呼ばれる名前で登場する。(追記:一週間後に授業で『パリ、夜は眠らない』を観たが、ボール、ヴォーギング、ハウス、審査員という形式が同様で、実際のクラブシーンの伝統から来たものだということを改めて学んだ。)

美しいお姉さまから、お兄さま、ドラァグの方などなど出演者も様々で全方面対応という趣。肉体的にも、技術的にもレベルが高い。高校生の時にヴォーギングの映像を観るのに異常にハマっていた時期があったが(東京ゲゲゲイ等)、生で観れたのは初めてだったので、本当に楽しかった。

また、司会、盛り上げ役の方が、みんな誰もが美しい、最高というようなポジティブな言葉をずっと掛け続けてきてくれるし、実際に老若男女誰もが会場にいて、少しお年を召したような方でも性別を問わない恋人たちとめちゃくちゃ楽しそうに踊っているのを見るのもすごく幸せな気分になった。日本の政治家はマジでお前らが国を出ろ。

ウェストエンド観劇⑤ー『The book of Molmon』・『Matilda』・『The Lehman Trilogy』ー

クリスマス休暇での、ロンドンの観劇録も最終回だ。

学期が始まるとロンドンに行くような余裕は全く無くなってしまうので、結局日帰りも含めて三回も行き、観劇を繰り返した。ロンドンは本当に劇場がいっぱいあって、夢のような場所なのだが、観劇する以外の時間の使い方はまだ全く掴めてないし(マチネとソワレの間、寒い劇場街をさまよう以外の過ごし方が分からない)、毎回観劇後夜遅くなって食事をとり忘れる、そして体調を崩すなどの問題も起こったのでもっと持続的に健康的に観劇を出来るようにしないとと反省した。

今回の三作品はとても有名な作品で、私がわざわざ指摘するようなことは無いのではないかと思うので、軽く感じた事や起こったことを書いていこうと思う。

『The book of Molmon』 at Prince of Wales Theatre

劇場外観。

モルモン教の布教をする青年二人が、命じられた布教先のウガンダでてんてこ舞いをする話。スターウォーズホビットが出てくるメチャクチャな布教話や、ヒトラーなどの悪人が出てくる地獄のシーン、嘘みたいな笑顔のダンスなどなどコメディ作品でとにかく面白い。後ろの席の青年の話(盗み聞き)によると、楽曲が今までのミュージカルの名曲(Wicked, Annie, The lion King等々)をもじっているとのことだったので、意識して聞いていたが音楽的なセンスがないからか全然わからなかった。今度また比較して聞きたいと思う。

不真面目なお調子者のカニンガムがウガンダの少女ナブルンギの名前を間違い続けるという、英語帝国主義アメリカ人コメディのお馴染み展開があるのだが、最後に彼女の名前をナショナルレイルウェイストライキ(イギリスでは今めちゃくちゃストライキが起こっています)!と言ってこれがこの回一番の大ウケだった。受けすぎて劇が少し止まるくらい(ショーストップ)の笑い声だった。

また、前日に同じ製作陣(ロバート・ロペス)が関わっている『アナと雪の女王』のミュージカルを観ていたので、全く違うミュージカルではあるが、共通点を感じることもあった。例えばアナ雪の二幕、裸に近い状態の男女が踊るサウナのナンバー「Hygge」とモルモンの二幕「Spooky Mormon Hell Dream」は少しふざけたノリで最終的にコーラスラインのようなラインダンスになるという点が非常に似ていた。

洗礼やキリストなどは知ってはいても面白さがそこまでわからないこともあるが、隣の人の笑い方が素敵で本当に面白いんだろうなーというふうに笑っているのでこっちも楽しい気分になった。英語が聞き取りにくいことの多いコメディで、ネタにもそこまで馴染みがないにも関わらず、疎外感を感じさせずめちゃくちゃ面白いというのは流石だと思う。1人でも多くの人に観て欲しい。が、実際モルモン教の人とかウガンダの人がこれをみたらあまりいい気がしないのではないかとも感じた。

『Matilda』at Cambridge Theatre

二幕開演前の様子!最前列なので舞台の側面の装置が映っていない

まさかの最前列のチケットが50ポンド=8000円くらいで売られていたので、もうそんなことは無いだろうという気持ちで観に行った。しかし、高速バスが事故渋滞に巻き込まれたり、途中で車両が壊れたと言って乗り換えさせられたりしたせいで、時間通りに劇場に着くのは絶望的で、最終的に開演から30分くらい遅れて劇場に着いた。こんな時に限って何故という落胆しかなかったが、客席に行く際に、ハニー先生役の人がちょうど出番終わりで出てきて、スタッフの人に笑顔で挨拶していたのを見れたので少し落ち着いた。それにしても、「School Song」は聞きたかったが…。

映画版を観に行ってからまんまとマチルダ熱に浮かされているのだが、映画版が上手く改変している部分、兄の消去、ギャングの消去などをはっきりと知ることができたのが面白かった。とにかく、実際に生で観ると、目の前で踊っている子供達の可愛さというのが強調されて映った。一瞬こんな子供なのに平日から労働して大変だなとも思うのだが、客席にいる子供たちも歌を口ずさんでいて、彼、彼女らの夢を体現している存在のようで立派で愛おしく思う。

最前列で座っていて面白かったのが、当然のことながら役者がめちゃくちゃ近いということと、最前列は逆に見づらいということと、舞台装置や特殊効果をよく確認できるということだ。目の前にハニー先生が座ってしまって、全然奥が見えないシーンがあったり、「Revolting」のナンバーでも、目の前の子は良く見えるが全体を把握することはまったくできなかったりして、一長一短あるということを学んだ。パパイオアヌーの公演を最前列で見て以来だ。教室の机とかが床から伸びだしてくるのだがホリプロ版では普通に運んでくるのだろうか、非常に気になる。

またこれも最前列で全然その恩恵にあずかっていないが、はけて来るハニー先生に会えたことからも分かるように、キャスト達はべつにそこから行かなくても横にはけれるだろうという時でもバンバン客席降りするというのが特徴だと思う。

悪役のトランチブル校長が悪役ではあるが、ブーイングされるような役ではなくて、愛されキャラのような一面があったのも驚きだった。ただ映画だと女性が演じていたので、別に男性が誇張して演じなくてもいいかもしれない。

とにかく、装置にしても客席降りにしても、また、子役が三人だけと大幅に減らされることにしても、ホリプロ版でどのように上演されるかが気になって仕方がない。小野田龍之介のトランチブル先生観たいし、咲妃みゆ、霧矢大夢の二人の出るラテンダンスを踊るナンバーもめちゃくちゃ気になる。帰国前なので、感想をあさることを楽しみにしている。

『The Lehman Trilogy』 at Gillian Lynne Theatre

劇場外観。

私のNTLデビューの今作。ウェストエンドにカムバックするということで、さっそく初日の二日目にして観に行ってきた。

劇場から見えたビル、観劇前の気持ちが高まった。

元々観たいなと思いつつ、公演期間的に無理かもしれないと思っていたのだが、奇跡的にチケットがほぼ最安値の23ポンドで出ているのを発見したので観に行った。そこまで良くないサイドの席だったので、開演して舞台の幕に映し出されているだろう文字が思わず笑ってしまうくらい一ミリも読めない時には不安になったが、幕が開くとあの可動式の舞台をしっかりと視界に収めることができた。

元々の上演をすごく覚えているというわけでもないのだが、やっぱりサイモン・ラッセル・ビールの演じる可愛らしい娘役は脳裏に焼き付いているので、新しいキャストのナイジェル・リンゼイもどこかそのように映った。ハドリー・フレイザー演じるMayer Lehmanとナイジェル・リンゼイ演じる妻のBarbaraが結婚するのだが、その時に投げた紙吹雪が髪や服についているのを払って、払いきれなかった分が髪の上に残っていたのを、キャスト同士でシーンの間にさっととっていたのが印象的で、萌え的にも良かった。はけることがなく三人が舞台に出ずっぱりというのを強く感じた瞬間でもあった。

あとは、前回が白人男性三人だったことを考えると、マイケル・バログン の存在は新しい印象を受けた。子役を演じている時が可愛い。演技の上手い俳優だったら国籍も民族も性別も問わずにキャスティングしていいのではないだろうか。

大まかな内容は覚えていても、そこで話される英語が完全に分かっている訳ではないので、新しい人間を演じる時に眼鏡やサングラスをかけてくれたりするとビジュアルイメージから役を区別することができるので分かりやすいなということは新しい発見だった。また、最後の方に「お金はどこですか」「いつから」「警告」と日本語を話すシーンがあるが、そこも全然映像で観た時には印象に残ってなかったのが、今回は異国で観ているからかしっかり印象に残った。

またこれは戯曲を確認したいのだが、後のリーマンブラザーズの社長として関わって来るギリシャ人の親子の場面でインフルエンザとマスクのネタが話されて笑いが起こっていたのだが、これもコロナ前からあったやつだろうか。疑問に思った。

あとは大事なシーンでしか使わないかと思いきや装置結構逆回転するなとか、色々な使い方をしている書類箱人が乗ってもつぶれない頑丈で軽い出来だとか色々思いつつ、悪夢にうなされる彼らや恐ろしい経済の状況で暗雲たる気持ちになった。

 

これからは、マンチェスターで特にクイアと環境問題に関わる芝居を観ていくことになると思う。こうご期待!(見ている人がいるか分からないが)

 

 

ウェストエンド観劇④ー『Newsies』・『Frozen』ー

今日は日曜に上演しているそこまで高くない作品を選んだら、どちらもディズニーになったという偶然のディズニーDAY!

 

①『Newsies』

上演前の舞台の様子

日本でも上演されたディズニーミュージカル。ウェストエンドの劇場街ではなく、少し離れたところにある特設劇場のような場所が会場で、劇団四季の仮設劇場を思い出した。

劇場はギリシャの円形劇場式で観客席もそこまで高さがつけられていない。客席中央奥から舞台までフライングの装置がつけられていたり、役者が客席おりを何度もするし、舞台横も突き出して舞台になっている。一番面白いなと思ったのはオーケストラが舞台下手の簾がかかったような黒い部屋の中にいて、まさに歌舞伎ではないかと思った。参考にいるのではないかと感じるレベル。

物語は、貧しい新聞売りの少年少女達が資本家の新聞社の搾取に対抗してストライキするというもので、そこにリーダーの青年と新聞記者で実は資本家の娘であるヒロインとの恋愛が絡んでくる。

物語は単純で曲もそこまで耳に残る感じではないのだが、とにかくダンスとアクロバット重視で跳ぶわ回るわという感じだった。なぜ人は高速ピルエットであんなにも感動できるのか。圧巻の群舞でイギリスで久々にちゃんとしたスタンディングオベーションを観た。でもダブルコールはないのが面白い。

 

『Frozen』

上演前の舞台の様子

一幕終わりから書き始めているのだが、やっぱり「Let it go」が最後に来て終わるし、あのエルサの薄水色衣装に早変わりするのがすごくスペクタクルでこれこれ!これがみたいんだよという気持ちになった。むしろこれ以上は見せれなくないかということで二幕が不安。

と書きつつ二幕もサウナのレヴューみたいなシーンがあったりして話もどんどん展開していって面白く観ることができた。子供がたくさん来ることを見越してか、休憩含め2時間20分と少し短めになっているのかも知れない。そのため、アナとクラストフに恋愛要素はほとんど無くなって、ほぼアナとエルサの姉妹愛に焦点が当てられていたのが良かった。

細かくみていったらそうでもないかも知れないし気候は真逆だが、幕開きの曲の感じや異国の感じパペットの感じ、王家の話という点で意外と「ライオンキング」に近いのではないかと思った。

ウェストエンド観劇③ー『&Juliet』・『SIX』ー

課題で本当はそんな余裕も無いっちゃないのだが、この機会を逃し学期が始まると更にそんな余裕も無くなるので、観劇旅行二回目に行ってきた。帰ったら勉強に集中するために旅行中に簡単にブログを書いておきたいと思う。

 

『&juliet』

シェイクスピア作『ロミオとジュリエット』を原作に、もしジュリエットが死ななかったらというストーリー。シェイクスピアが都会で成功を収める中、田舎で子育てをしている妻のアンが不満を持ち、悲劇に終わるストーリーを書き換えていくというものだ。ロミオの葬式で自分以外にも男女を問わず沢山の恋人がいたことを知ったジュリエットは傷つく。しかし、気を取り直して、ノンバイナリーの友人メイ、乳母、そして友人役としてアンも劇に参加し、一同はルンルンでパリに向かうというストーリーだ。パリではジュリエットがフランソワという新しい男と出会い、また結婚する話に向かっていくものの、フランソワとメイも惹かれ合っていたり、フランソワの父親と乳母が元々恋仲でその関係が再燃したり、シェイクスピアとアンの夫婦関係にもほころびがみえたりと三者三様の入り組んだ人間関係が描かれる。

 

いわゆるジュークボックスミュージカルで、Max Martin作曲の楽曲で全編構成されている。聞いたことあるな~くらいの音楽も多いのだが、場面場面の状況と上手く融合して、自然に使われている。一幕最後にロミオが復活して来る時に上から登場して「IT'S MY LIFE」を歌っていた時にはかなりテンションが上がった。また、結婚式ではシェイクスピアらしく劇中劇の趣向が取り入れられるのだが、そこでシェイクスピア、フランソワ、その父、メイがBack street boysの「EVERYBODY」をコンサートっぽくパフォーマンスするのも良かった。ダンスナンバーがカッコいいし、圧倒的なスターとしてジュリエットが出てくるのでレヴューに近いところもあるかもしれない。曲を知っているともっと楽しめると思う。

パンフレットの脚本家インタビューをみると、このようなパワフルで自立したジュリエット像は、シェイクスピアのジュリエットに元来描かれていたものだという気づきが書かれており、最近の星組ロミジュリを経た私の考えにも近いところがあって嬉しかった。

中心のアン、ロミオ、フランソワ役が代役になっており、フランソワ役はあまり声が出ていないかなと感じさせる部分もあったが、大部分はそんなことを全く感じさせない圧巻のパフォーマンスであった。

著作権的に曲や歌詞を使うのが難しいかもしれないのでそもそも日本版は難しいかもしれないが、日本版で愛希れいかもしくは舞空瞳にまたジュリエットをやってほしい、日本版でも観たいという気持ちとノンバイナリーの描写がどうなるか不安という気持ちが絡み合っている。

 

『SIX』

ヘンリー八世の6人の元妻たちが現代に蘇り、誰が一番の王妃だったかで主役を争い合うというストーリー。元々ずっとオープニングの「Ex Wives」とエンディングの「SIX」を聴いていたので、実際に生で観ることができたという感動が大きかった。特にアン・ブーリンとキャサリン・ハワードの曲とキャラクター、斬首同士の絡みが好きだった。あとアン・ブーリン役のBAYLIE CARSONは元々そういう役柄ではあるのだが、それにしても表情がオーバーでかなりはっちゃけていた。

とにかくいうことなしにシスターフッドでガールズパワーで最高な作品だ。『&Juliet』と系統が似ているので私の好みが明らかという感じだが、本当に元気が出た。