バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

世界演劇祭 in フランクフルトの感想 (前半:『CHORNOBYLDORFー考古学的オペラ』、『𝘏𝘶𝘭𝘭𝘰, 𝘉𝘶-𝘉𝘺𝘦, 𝘒𝘰𝘬𝘰, 𝘊𝘰𝘮𝘦 𝘪𝘯』、『𝘈𝘣𝘢𝘯𝘢 𝘣’𝘢𝘮𝘢𝘻𝘪 (水の子どもたち)』)

7/11〜7/15までフランクフルトに滞在し、相馬千秋さんがプログラムディレクターを務める世界演劇祭のプログラムを鑑賞することができた。

Bockenheimer Depot外の巨大看板

今回の旅行について

旅程図

本題の演劇祭で観た作品の感想に移る前に、今回の旅程について簡単に紹介したい。まず6/15から7/4までシビウでボランティアプログラムに参加した後、以下のようにマンチェスターまで帰ってきた。

【Start】シビウ(ルーマニア)〜ブタペスト(ハンガリー) Flix busで11時間→ブタペストに三日間滞在

〜ウィーン(オーストリア)Flix busで3時間→ウィーンに三日間滞在

〜フランクフルト(ドイツ)電車ICEで6時間→フランクフルトに五日間滞在

ブリュッセル(ベルギー)Flix busで7時間(夜行)→ブリュッセルに半日滞在

ロンドン(イギリス)ユーロスターで2時間〜マンチェスター(イギリス)Mega busで5時間(夜行)【Goal】

移動に合計34時間程を費やし、ルーマニアからイギリスまで陸路で帰ってきた。

元々はシビウからマンチェスターに戻って、またルフトハンザを使ってフランクフルトに行く予定にしており、しかもむしろそっちの方が格安航空券で安く済んでいた。しかし、その飛行機をキャンセルしてまで陸路の旅を選んだのは、大学でカーボンリテラシー講座を受講したことが大きく影響している。日本に帰国する時にも飛行機を使うことから、私の二酸化炭素排出量が周りの受講生に比べてとてつもなく高かったのだ。演劇界では、ジェローム・ベルやケイティ・ミッチェルが飛行機を使用しないということを宣言しており、他の受講生も、先生も飛行機を使用するのは良くないという考えの人が多かった。

もちろんこのことには色々な議論がある。島国である日本に行くにはどうしても飛行機を使わないと不便だし、飛行機を使わないようにしようという議論は更なる不平等を招く、ヨーロッパ中心主義的なものである。ただ、白黒、やるかやらないかではなく、少しずつでも改善していくことが大事という教えを受けたので、時間もあるし、ヨーロッパ内では飛行機を使わないという目標を設定し、今回実行してみた。

感想としては、かなり体力的にきつい部分も多かったが、予定していなかった色々な国に滞在して観光できたのは楽しかった。去年ルーマニアからミュンヘンに行った際も、飛行機を使って、陸路で行くなんて考えは全く浮かびもしなかったので、意外とヨーロッパ内は(体力があれば)どうにかなるということを周りにも広めていきたい。

 

世界演劇祭について

世界演劇祭では、後半会期の6本の作品を観ることができた。長くなりそうなので、前後半に分け、このブログでは3作品の感想をまず書いていく。(日本語表記は芸術公社のツイッターから引用したものに倣っている。)

 

①『CHORNOBYLDORFー考古学的オペラ』ローマン・グリゴリフ&イリヤ・ラズメイコ / Opera aperta (キーウ)@Bockenheimer Depot

作品解説(芸術公社twitterより)

廃墟と化した劇場、教会、発電所の世界。使われなくなった送電線や、踊る鳥の群れの下を水が延々と流れる。人類の子孫は遺跡の中をさまよっているが、それは一連の大災害を生き抜いてきた、神秘的でありながらも見覚えのある人物たち。𝘊𝘏𝘖𝘙𝘕𝘖𝘉𝘠𝘓𝘋𝘖𝘙𝘍 は、迫力ある映像、伝統的・古典的な歌唱、ダンス、型破りな楽器音で観客を包み込む。作曲家のローマン・グリゴリフとイリヤ・ラズメイコを中心とした学際的な創作チームは、異なる文化的時代の断片、脱工業化時代の風景、ハイブリッドな音の世界の間で本当の空間がぼやけてしまう実験的な音楽劇作品を生み出した。これは、意味に完全に溶解することなく関連性を持つ、終末後の文明の儀式とシンボルを生み出す。

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1678721262519197699

 

 理解するために言語的なスキルはほとんど必要なく、視覚・聴覚に訴えかける現代オペラ作品。ファッションショーのランウェイのように、通路を挟むように客席が組まれ、その入り口側に大きなスクリーン、途中に音楽のブース、奥に祭壇のようなものがある。

上演前の舞台の様子。かなり入り口側の席だった。

 7つのそれぞれ独立した場面(『エレクトラ』、『Dramma per Musica』、『小さなアコーディオンの少女』、『レア』、『Messe de Chornobyldorf』、『オルフェウスとエウリディーチェ』、『Saturnalia(農神祭)』)で構成されており、タイトルからも分かる通りギリシャ劇や神話といった題材や、民間伝承的な題材を基にしている。場面ごとに、毎回スクリーンで映像が流れ、そのスクリーンに映った人物が実際に舞台上に登場してパフォーマンスをするという流れで展開していく。まず、「オペラ」作品として、少しガムラン的な音色の、手作りで作ったというオリジナルの打楽器セットや、アコーディオン、トランペットのような金管楽器などの音色と、自然音をミキシングしたような音楽、またオペラ的な歌唱など音楽的要素が印象深かった。また、それに合わせて、舞台上を静かに練り歩く儀式のようなパフォーマンスや、舞踏的にも見えるコンテンポラリーダンスなども展開される。

 意図的なのだろうと思うが、一つ一つの場面が独立し、神話の引用や、音楽、裸になることも多い視覚的インパクトなど、様々な要素であふれている。言い換えればカオスである。また、例えば『エレクトラ』となっていても、女神的な格好をした裸の女性が、他に女性二人を従えて歩くという場面で、具体的にどのように引用しているかが明らかではない。今考えてみると、「供養する女たち」だろうかとか「復讐」だろうかとかも思うが、これがオペラの方の引用となると更に馴染みが薄い。宗教的な引用や、実際の政治家の映像の引用もあったので、キリスト教ソ連、東欧史、音楽的知識など知識のある人が観ればまたもっと深い気付きがあるだろうと思う。

 それらに加えて、根底には、タイトルにもあるように、チェルノブイリ原発事故がある。それぞれの場面の最初に流れる映像では、ウクライナで撮影されたという、湖、枯れた森林、がれきの山、砂漠といった破壊されてしまった自然の情景が映し出された。音楽は陰鬱な雰囲気であるし、照明は暗く、鏡の反射を利用したものや光線のような照明効果を通じて、原発のハイパーオブジェクトな特徴や、そのエネルギー、汚染について表現しているようにも思われる。ただ、後半にいくにつれより儀式的な要素が強くなり、祈り、最後はクラブ音楽のようになって楽しげに変化して終わる。このことは、環境破壊、終末的な状況に対して、演劇を通して癒しやHopeを感じさせる終わり方であると解釈できるかもしれない。(期末のレポートで廃棄物を扱った演劇と癒しの効果について、放射性廃棄物の演劇を選んで書いたので、その前にこの演目を観ていたら絶対に題材にしていた。)

上演後の舞台奥の祭壇のようなセットの様子。

 公演後のアフタートークで聞いた情報によると、この作品は2020年初演で、ロシアによるウクライナ侵攻以前に創られたものであるため、実際に戦争を踏まえている訳ではない。しかしながら、ソ連/ロシアによる暴力というのは、チェルノブイリ原発事故やまたそれ以前から連綿と続いているもので共通しており、古典や民族的な要素を作品に用いているのも、「ウクライナ」としてのアイデンティティーを再発見するための作業であったという風な説明がされていた(聞き間違いもあるかもしれない)。ウクライナの人達の生の声を実際に聞くという経験はあまり無かったため、実際に肉親が前線にいるということや憎しみという感情についての吐露は戦争が現実のものであると改めて強く感じさせるものであった。

www.youtube.com(↑トレイラー、裸の映像が流れるので注意、年齢制限がかかっている)

 

②『𝘏𝘶𝘭𝘭𝘰, 𝘉𝘶-𝘉𝘺𝘦, 𝘒𝘰𝘬𝘰, 𝘊𝘰𝘮𝘦 𝘪𝘯』 Koleka Putuma (ケープタウン)@ムゾントゥルム劇場

作品解説(芸術公社twitterより)

「ありのままを書くということは、遺体を掘り出して名前をつけるということだ」。ブラックのクィアである女性アーティストたちによる映像や文章が、まるで検索エンジンから飛び出してきたかのように、スピーカーやプロジェクターから飛び出してきたかのように、劇場空間に流れ出す。演劇人で詩人のコレカ・プトゥマによる詩集をマルチメディア舞台化したこの作品で、彼女は投影面となり、芸術や社会の中で見えなくなってしまったブラックの女性の名前、記憶、遺産を演じる。過去と現在の間の濃密に織り込まれた対話の中で、プトゥマはまた、ホワイトの施設にブラックのアーティストとしている自身の経験に言及し、観客とパフォーマーの間の視線に疑問を投げかける。可視性はいつ占有されるのか? 知覚されるのではなく吸収されるのはいつ?

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1679050738641801218

上演後の舞台の様子

 ブラックボックスの小劇場での、映像を使ったマルチメディアパフォーマンスで、今までのブラックの女性アーティストの言葉を引用した詩集を舞台化した作品。詩集を書いたコレカ・プトゥマが、たった一人の出演者でもある。タイトルのカンマで区切られた4つのパートに分かれており、それぞれの場面で色々なブラック女性アーティストの名前や言葉が紹介される。今まで抑圧され、不当に低く評価されてきただろう人々へ光が当てられる、アーカイブ的な上演だ。

 マルチメディア的なパフォーマンスで、上手下手にあるパネルや、小さな階段、四角い装置、また宇宙服のような衣装に至るまですべて真っ白で、映像が投影されるようになっている。特にブラックの女性のパフォーマーの衣装が白一色で、他者の言葉がそこに投影されるというのは、過去の女性達を演じるという以上に、ホワイトウォッシュされるような、自分の言葉が奪われてしまうようなイメージも勝手に連想させられた。このように映像が様々な画面に投影される以外にも、懐中電灯を使ったり、手持ちのカメラでの同時中継映像を使ったり、観客とのコール&レスポンスがあったりと、色々な演出的工夫が行われていた。

 特に印象的なのは、「BackSpace」という表現で、その言葉の機械音声と、実際に打ち込んだ文字が消されるという映像が繰り返される。例えば、序盤には「この作品は、女性のフェミニストによって引用された~」というような作品説明ともとれる文章が何度も様々な表現に訂正され、変化していく。検閲や、彼女たちが今まで黙らされてきたということを感じさせる部分で、たまにコレカ・プトゥマ自身が自分で「Back Space」という時は、またそういう規範を内面化して、不本意な形で権威から受け入れられるように努力してしまうことを表現してるのだろうかなどと想像された。

 ただ英語のリスニングだけだとどうしても理解が追い付かない部分があったので、パンフレットでも詳しく説明されてはいるのだが、上演字幕があれば、より理解できたのではないかと思う。特に、作品解説の後半部分、「プトゥマはまた、ホワイトの施設にブラックのアーティストとしている自身の経験に言及し、観客とパフォーマーの間の視線に疑問を投げかける。可視性はいつ占有されるのか? 知覚されるのではなく吸収されるのはいつ?」について、実際にホワイトが大半で少数のアジアンとブラックというような観客で、不思議な笑いが起きたり、私も笑いそうになって本当に笑っていいのかという風に思う瞬間があったので、アーティストが作品でどのように応答しているか気になるのだが、「Back Space」の部分が関わっていそうだと思いつつ、しっかりは理解できなかった。詩集は出版されているので、また時間がある時に読んだらより深い洞察が得られると思う。

www.youtube.com
③『𝘈𝘣𝘢𝘯𝘢 𝘣’𝘢𝘮𝘢𝘻𝘪 (水の子どもたち)』 Small Citizens(ブジュンブラ | ブリュッセル | ゴマ | キガリ | ナイロビ)

作品解説(芸術公社twitterより)
かつて五大湖があった場所は、今では干ばつが続いている。湖、川、支流、すべてが一晩で干上がってしまった。ステージ上のタンクまで。何があったというのか。𝘈𝘣𝘢𝘯𝘢 𝘣’𝘢𝘮𝘢𝘻𝘪 (水の子供たち)は、東アフリカの演劇実践者たちの国境を越えたコラボレーションによって発展した、若い観客のための冒険が詰まった演劇である。重要な資源である水と、その消滅の状況と結果を、団結する力についてのユーモラスで心を掴む物語で扱っている。ブルンジルワンダケニアコンゴ民主共和国パフォーマーは、インタラクティブなパフォーマンス、歌、さまざまな演劇言語を使用して、アフリカに秘密がある水についての世界的な物語を提示します。この物語はまだ良い終わり方ができるだろうか?

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1679802418387902464

 水が豊かであったアフリカのある土地で、水を巡る争いが起こり、水の神様が怒って干上がってしまう。しかし、子供の涙の1滴が奇跡を起こし、最後には観客参加型でみんなで涙を集めると水がまた流れ出すというストーリーであった。水の神様が怒ってしまうという所は、女性のパフォーマーが、布を被り、奥のセットの中に隠れてしまうという「天の岩戸」ような展開で、神話・民間伝承を基にしているようであった。上演前も、エントランスから観客を巻き込む形で、音楽にノリながら始まり、前半終了後には、装置の中を一人づつ通って、メインの舞台に進んで行くという面白い仕掛けもあって、かなり体験型だった。加えて、アクロバットや布を使ったマイム、子供の人形、摩擦で音を立て、波を起こすシンギングボウルのような道具など、様々な工夫がされていた。特に、子供向けの演目ということもあり、私の観劇日もたくさんの小学生低学年くらいの子供たちが観劇していた。子供の驚きや感動などストレートな反応を間近に感じながら観劇をするというのが新鮮で面白い体験だった。

上演後の舞台の様子

 やはり気候変動となると、ゴミ、砂漠化、干ばつ、ニジェールデルタの汚染など、多くの問題がより弱い立場にある人々により押し付けられており、アフリカはその最たる例であると思う。このような環境問題を扱って、問題提起を行う演劇になると、どこか説教くさくなってしまうようなイメージもある。しかし、この作品では、実際に彼らが経験している問題だからか、リサーチ、共同製作が行われているからか、教育的であり、希望を持たせるようなものでもあり、演劇としても面白かった。こういう作品が今後もっと増えてほしいと思う。

 

後半に続く!