バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

Scot Summer Season 2023 利賀村に行ってみた

注:全然嬉しい誉め言葉の多いような感想ではありません。

 

今まで日本にいる時はコロナで、全くそういう日本の重要な演劇について観れていないし、今後も行けるかどうか分からないと思ったので、9/8~9/9に人生経験として初めて利賀村に行ってきた。古代ギリシャ劇の現代上演を少し研究しているので、日本の上演に関しては蜷川と並んで評されることの多い鈴木忠志の上演は一度観ておきたいという気持ちもあった。

予約は電話のみで、チケット料金も「お随意に」という投げ銭制で、山奥の村が会場なので、行くまでは楽しみな気持ちと少し恐怖も感じていた。

劇場に向かう道中。

 

〇外部劇団の上演

一演目目:SPAC『お艶殺し』@利賀山房

 最初に脱線しておくと、私は今というか少し前まで、芸術座の松井須磨子、中村吉蔵、島村抱月に関わる文献を読みまくり、研究というよりこの三人の具体的なエピソードを読んで実際の人間性を想像する生活を送っており、『お艶殺し』も最初に彼ら芸術座が第九回公演として『お艶と新助』として上演した方ということへの興味の方が強かった。そして、その興味は実際に演目を観て、お艶が須磨子に良く似合いそうなファム・ファタルで、「ジプシー型の女」であったことから、更に強まった。というのは、この作品はおそらく芸術座の公演の中で一番不評を集めた作品だからだ。当時の批評がはっきりした言い回しで面白いので無駄に引用する。

~近頃の珍〇、一同の度胸に感服した、深川の芸妓や侠客や船頭や遊人が大訛りの鉄火の台詞には寒気を感じた。 *1

世話狂言としては面白いのだが、何しろ此種の劇は、未だ嘗て、演った事の無い此一座が、然も演出に至難らしい、江戸時代の深川芸者を主人公として、その周囲の人物、乃至情調を現はそうとするのであるから、其志は健気だが、気の毒ながら見られ無い。それに、使ひ慣れない江戸言葉を無理に云はうとして訛るから、変な田舎言葉の訛りの様に聴こえて、耳障りなこと夥しい。*2 

脚本から云えば可成いゝものである、併し舞台効果から云っては甚だ遺憾である、江戸時代の殊に深川から向島を場所として登場人物は悉く江戸ッ子である此劇を地方訛沢山の此連中が演出することは大胆過ぎる。理解ばかりでは芝居は出来ない、私は芸術座の無謀に驚かない訳には行かぬ。 *3

その他によろづ朝報1917年3月11日号や早稲田文学大正6年4月号でも同様に批判されている。初めて取り組んだという髷物の不慣れさや、田舎の方言が都会のインテリ批評家には受けなかったのだろうと思われる。加えて、劇団の裏事情としては、相手役の沢田正二郎と須磨子の不仲があり、作品にも影響を及ぼしたかもしれない。この公演の直後に沢田やその仲間たちは二度目の脱退をし、新国劇を立ち上げる。このように、様々な要因があり芸術座の公演は不評に終わったが、今回の演出版のように現代化して上演したら案外うまくいったかもしれない。

 

 今回の上演は、古民家の舞台で行われ、中央には舟型のセットが置かれている。これは上演後に話を聞いてわかったことだが、旅芸人のコンセプトだったようで少しサーカス団員ぽい衣装で、芸術座の公演程の本格的な日本物ではなく現代化されている。キャストは、団長みたいな人が下手前にずっとおり、ナレーター的な役割を務める。新助は女優によって演じられる。他には様々なお艶に翻弄される男たちを俳優が入れ代わり立ち代わり演じている。

 話は面白く、借景等の演出もあって「観ていられない」ことは無い。途中途中で「お艶殺し」とタイトルを言う台詞が入るのは、CM前後に特有の映像が流れるアニメみたい(コナン的な)で、しかも最後にお艶が殺されるのだという結末を意識させられてよかった。ただ、その旅芸人のコンセプトは、最初に特に付け足しの説明や場面があったわけではないので分かりにくい。終盤それまで新助をやっていた俳優が刺されて、そのまま死んでしまったという展開があったようなのだが、カーテンコールで彼女が起き上がらないことはすごく不審に感じたものの、それがどういうことかはよく分からなかった。メタシアター的な、上演されることで物語が繰り返されているということや現実と演劇の混ざり合いを強調するのはいいとして、あまりに伝わらない。団長が新助(彼女)を刺して、代役として新助を務めるようになるのだが、線の細い美人の女優さんから恰幅のいいおじさん俳優に変わるので、お艶の脳内ではこう見えているということなのか等と的外れなことを考えていた。

 また、確かに話としては面白いのだが、1915年に出版され、特に近年よく上演されているわけでもない小説を上演するのであれば、それなりの意味や問題意識があるべきだと思う。特に、谷崎の描くお艶はその当時の『サロメ』といったファム・ファタルの女性の人気を反映したような『妖婦』『毒婦』である。そういった女性登場人物を上演するには、もっと、谷崎作品が好き、読んで面白いという見方とは別に批評的な目も必要なのではないか。そういう意味で物足りなさを感じた。

この作品は『お艶の恋』とタイトルを変えてまた上演されるらしい。

 

三演目目:『窓の外の結婚式』@創造交流館

 青年団制作の、世田谷シルクの堀川炎演出の作品。東北大震災で恋人や家族を失った女と彼女と再婚した男の物語で、柳美里が元々朗読劇として執筆した作品らしい。

 主人公の女性への共感が全くできず、むしろ離婚しろよとイライラしてしまい、物語にも入り込めなかった。久々にこんなに観ていられない作品に出会ったという感じで、開始五分経たないうちに会場から抜け出したいと思ったが、さすがに無理だった。主演の鄭亜美さん絶対バレエやってたとか、椅子を馬に見立てるやつに思わせぶりな照明が映ったので、影が馬なのかなと思って観たら全然馬じゃないというようないらないことを考えて過ごした。ただ、ということでもないが、別に批評はしてもいいと思うが、常磐線舞台芸術祭やこの後の豊岡演劇祭では、野外で上演されていたらしく、福島でサイトスペシフィックにやったものを、利賀の山奥のホールでやったとしても、文脈や背景は途切れてしまって全く違うものに変わってしまうだろうと思った。野外上演が完成形で、その上演を観ていたらもっと面白かったのだろう。

 

〇Scotの公演

トロイアの女』@新利賀山房

 書こうと思えばいくらでも書けそうなので、逆に先行研究も見ずに、印象だけの感想にしたい。まず舞台は上手が三人のギリシア兵たちで、下手がトロイアの女達、ヘカベ/カサンドラ役の人が下手中央にいて、コロスらしき人達がその背後に並んでいる。中央奥には動かない神像がおり、中盤からは僧侶のような人や車いすに乗った老人が出て来る。衣装は和風の着物のようで、浪人のようなギリシア兵や音楽の雰囲気は少し黒澤映画のようだと感じた。

 俳優の演技はすごく揃っていて、動きもミスが全く見当たらないのだが、反対に俳優の演技や自由意志というのは全く感じられず、少し恐怖を覚える。また、他の作品でも同様で、男性俳優の台詞ではそこまで感じないのだが、女性俳優が非常に低い声で力強く発声している台詞が非常に聞き取りにくい。特に松平千秋訳なので、内容を知っていても難しい部分があった。

 劇は前半では、ヘカベがカサンドラも演じることに驚いた。また、コロスが徹底的に喋らないようになっていて、本当の戦争の被害者は証言させてもらえないという解釈もできるが、個人的な好みとしては少し残念にも思う(難しいコロスの演出に挑戦してほしい気持ちがある)。後半、古代のトロイアが、日本の第二次世界大戦後の風景と重なるようになっており、ヘカベは焼きだされて、器を片付ける老婆で、アンドロマケは花もしくは自分自身を売る少女として登場する。この少女は、ずっとただ静止していた神像に花を投げつける。神様というものへの不信を感じた。

 この後のエンディングで流れる曲が、欧陽菲菲の「恋の十字路」なのが、非常に気持ちが悪いし、今までの力強い女性俳優達の身体や台詞とあまりに乖離していた。

 

ディオニュソス』三か国語版@利賀大山房

 一番観たかった作品で、チケットは取れていなかったが、急遽(無理やり?)観ることが出来た。ペンテウスを中国語話者の俳優、カドモスを韓国語話者の俳優が演じている。『バッコスの信女』の話は、結局、東西の異文化の衝突の話であると思うので、このような多言語上演には非常に適した題材であると思う(実際に鈴木忠志も「文化摩擦を扱った戯曲である」と述べている)。ただこれをアジアの三国で、しかも日本を舞台にしてやるというのは、考えれば考える程問題ずくめでもあって、ではペンテウスに対してペンテウスというのを中国と日本と考えてしまうと、ペンテウスを最後女装させたり、母親に殺させたりするという展開が、かなり政治的な意味も帯びてきてしまう。例えば、ペンテウスの女装のシーンでは、実際には日本風でも女性風でもない衣装に着替えていたが、台詞では着物を着ると言っていたので、非常にハラハラした。逆の配役でも観てみたいし、字幕が日本語で日本語話者だけが全ての内容が理解できるというのも偏っていると思うので、中国語や韓国語は別に翻訳しなくてもいいのではないかとも思った。相手の言っていることが分からないというのは面白い経験だと思う。

 一番大きな変更が、ディオニュソスが実体として存在せず、声だけであり、出番も少なくなっていることだ。その代わりにディオニュソス、またコロスとしての役割を果たす男性の僧侶が新しく追加されていた。また、女性の役は少なく、シーンの途中で紅白の着物を着て舞台上を横切るというのと、最後僧侶たちがペンテウスを殺した後に、舞台奥からそのペンテウス(人形)の首を持ってアガウエが登場するだけであった。パンフレットを読むと、ディオニュソスという神は存在せず、カルト宗教のような団体で、アガウエが殺さないのも、彼女がスケープゴートにされたという解釈であったらしい。

 

 「トロイアの女」と「ディオニュソス」どちらにも共通して感じたのが、まず作品の主題が「戦争」「争い」にフォーカスされていて、逆に女性であったり、ディオニュソスの男か女か分からない曖昧なジェンダーといったテーマは捨象され、非常に男性的なドラマになっている。また、神様や仏様への不信があり、徹底的に人間中心的である。どちらも、私の好む、今観たい解釈とは異なっていた。また、非常に近代とか戦後の風潮を感じた。そして、これはどうしようもないが、どう考えても白石加代子が元々演じていただろうという役が、白石加代子でしかない。

 

『世界の果てからこんにちはⅠ』@野外劇場

 作品内の引用も昭和歌謡も分からないが、とにかく野外劇場の舞台に左右に桟橋がついて、そこを車いすの人達や傘を持った人が縦横無尽に使っているのが面白いし、何より花火が想像以上のスペクタクルだった。また『マクベス』のマクベス夫人が亡くなるシーンで、夫人の名前を呼ぶ部分を日本に変えるというというのも上手くはまっていた。話の内容は、日本の戦後やアメリカとの関係で、真面目なものであるのだが、やっぱり花火がすごかったとしか言いようがない。終演後にはお酒や野菜が配られて、お祭り感があった。これを上演して、最後にまた来てねというのはずるいなあと思う。

すごすぎる

 

 二日間しかいなかったが、5本も見ることが出来たのは非常に充実していたし、演劇学の勉強としてはよかったと思う。一方で、演劇祭?なのに(サマーシーズンだから違うのかもしれないが)、テーマや、何故この作品が上演されているのかということもよく分からず、特に前半は面白いと思う作品がなかったので、辛かった。外国の観光客が多いのに英語や中国語の字幕が全く無いというのも気になった。また、作品を観て、鈴木忠志トークを聞いて、世代の違いや感じ方の違いを痛感させられた。まあ多くの人が評価しているし、権威は揺るがないだろうし、一人の大学生が色々書いてもいいだろう。

 

*1:1917年3月13日「芸術座覗き」朝日新聞

*2:1917年3月13日「新富座の芸術座劇」読売新聞

*3:1917年3月14日「新富座の須磨子」毎日新聞