バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

世界演劇祭 in フランクフルトの感想 (後半:『10 𝘖𝘥𝘥 𝘌𝘮𝘰𝘵𝘪𝘰𝘯s』,『弱法師』,『The Cadela Força Trilogy. Chapter I: The Bride and The Goodnight Cinderella』)

前回に続いて世界演劇祭の感想を述べていく。

bnanananana7.hatenablog.com

④『10 𝘖𝘥𝘥 𝘌𝘮𝘰𝘵𝘪𝘰𝘯𝘴(10の奇妙な感情)』サール・マガル @フランクフルト劇場

作品解説(芸術公社Twitterより)

記憶と歴史的責任についてどう語るか。両者が生み出す、時に矛盾する 「奇妙な」 感情について。10 𝘖𝘥𝘥 𝘌𝘮𝘰𝘵𝘪𝘰𝘯𝘴では、ドイツにおける反ユダヤ主義的で人種差別的な暴力の現在に焦点をあて、系譜に関するポリフォニックな芸術的調査による言語、音楽、身体、イメージが躍動する。シャウシュピール・フランクフルトとドレスデン・フランクフルト舞踊団、そしてサール・マガルの指揮の下、フリーランスのアーティストたちの国際的なコラボレーションによって発展した現代身体演劇であり、帰属と排除の経験を検証する。集団であるはずの 「私たち」 の中から、排斥され抑圧された 「異物」 がどのように作られるのか。

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1679837269585436672

 まずこちら側の不足を言い訳すると、2列目を選んだのが大きな間違いで、1列目の人の頭ですごく見にくいし、全体像をつかみずらかった。もうひとつ目の間違いは、ドイツ語で引用されている言葉が全く分からないということで、開演前にコインランドリーで洗濯していたのだが、それが意外に時間がかかったので、上演前に配られたという英語の解説を貰うことが出来なかった。同じく上演を鑑賞されたニオさんのブログではその引用の内容について(キャリル・チャーチルの『Seven Jewish Children 』も引用されていたとは…!)が詳しく説明されている。

freepaper-wg.com

 このようなこちら側の不足はあったのだが、全体的に私はあまり面白いと思えなかった。覆面をつけて個人を特定できないような状態で始まって、その後マスクを取って自己紹介するというシーンや、延々と紙を並べていくシーン、本を使ったシーン、普通に踊るシーン、急に赤ちゃんの人形が登場して動き出すシーンなど色々面白そうな工夫はされているし、ユダヤ、人種、差別といった深いテーマを扱っている。ただ、言語が分かっていないこともあってか、よくある場面の切り貼りのようにも感じて、どうにも退屈してしまった。ダンスについては知識が全く不足していて、どういう所が良くないのかクリアに表現することが出来ずモヤモヤする(今後勉強したい)。

 

⑤『弱法師』市原佐都子 @フランクフルト劇場

上演前の様子

作品解説(芸術公社Twitterより)

劇作家で演出家の市原佐都子が日本の文楽の「弱法師(俊徳丸伝説)」を再解釈して編み上げる大人向け人形劇。原作では子供は捨てられ、病人は差別され、最終的に全員が贖われるが、市原は善悪の悲劇的な物語をはるかに超越してみせる。市原は、近親相姦や小児性愛などの社会的タブーが人形に「移される」とどうなるのかという問題に対峙している。従来の文楽人形を、ラブドールやマネキンなど、欲望や暴力を具現化した存在に置き換える。文楽では義太夫と呼ばれるナレーターとして、女優の原サチコが物語を案内する。鶴田流薩摩琵琶演奏家でファンシー・ノイズを奏でる西原鶴真は、伝統的な薩摩琵琶の音、ノイズ、電子音楽を組み合わせ、非日常的な構成を作り出す。そして二人は力を合わせて物語を進め、世界を仲介し、人形を生き返らせる。

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1679839396001087488

 2幕物で、1幕目が俊徳丸の実家の家、2幕目が俊徳丸が働くマッサージ店で展開される。題材の「弱法師」はパンフレットにも書かれていた通り、能『弱法師』、文楽、歌舞伎『摂州合邦辻』、三島由紀夫『近代能楽集』、寺山修司身毒丸』と様々な作品に用いられているので、どのようにそれらの要素を翻案して新しい作品となっているのか非常に興味があった。全体的には、解説にもあるようにやはり文楽をベースにしていて、背景が書割で非常に平面的に表現されていて文楽の装置のようだし、ラブドールやマネキンの人形が出てきて、ダンサーに(一人遣いではあるが)操作されているし、話の展開も、俊徳丸が継母と身体の関係を持ってしまって捨てられる。

 異なっている点として、文楽を観ている時に人形が性的な行為をしていたり、死んでいたりしても、「まあ人形だからな」ということはあまり思わないが、この上演ではそのようなメタ的な視点の語りがしばしば登場し、人間ではない異なったモノとして描かれる。だからこそ、規範を超えた表現を可能にしているし、文楽に描かれるような封建社会以来のどろどろとした家族関係のしがらみを楽々と超えていく部分がある。とはいえ、不思議なもので、父親の交通整理人形が「俺は人形だから疲れないんだ」という風な台詞を言っていると、不思議とそういう風に思いこまないとやっていけない人間のように感じる瞬間もあるし、人形であるはずの俊徳丸が100均で買ったという人形で無邪気な暴力性を見せつつ遊んでいたりもする。このように人形を通して現代の人間の姿を描いている面もあり、人間と人形の境目を攪乱しているようであった。

 また物語を比較して面白いと思ったのが、継子に対する継母の性的な関心を認めていることだ。文楽でも同じく継母の玉手御前が継子の俊徳丸に恋をしてしまうのだが、最終的にそれは跡継ぎ争いから子供を守るための嘘でしたと否定され、規範内に回収されていく。しかしながら、この作品ではそのような欲望の存在は否定されず、そのまま描かれていた。また、最後父親が俊徳丸が働くマッサージ店で性的サービスをされる場面では、お代として体の一部を頂きますと言って、俊徳丸は心臓をぶち抜き、人間になれたと錯覚する。この場面は、文楽で玉手御前が俊徳丸の病を治すためには女の生血が必要だといって自決する場面を、継母から父親へフェミニズム的に書き換えているように感じた。しかも、市原版ではここから更に展開がある…、スリリング…。

 原サチコさんのドイツ語での義太夫節も意外と違和感がなくパワフルで(織太夫さんみたい)、ドイツ語と日本語の字幕を比較してみるという体験(主語があってドイツ語字幕の方が誰の話をしているのか分かりやすい時もあった)も新鮮でフランクフルトまで来て観ることが出来て良かった。豊岡演劇祭でも上演されるらしい。私は、バッコスと蝶々夫人の作品も生で観たい…。

 

⑥『The Cadela Força Trilogy. Chapter I: The Bride and The Goodnight Cinderella(カデラ・フォルサ第1章 花嫁と"グッドナイト・シンデレラ")』カロリナ・ビアンキ & Cara de Cavalo

作品解説(芸術公社Twitterより)

観客は、過去と現在が衝突し、抑圧された経験が戻ってくる空間にいることに気づく。カロリナ・ビアンキは、ここ数十年で起きたレイプ事件を扱っている。このため、彼女は自分自身を最大限に脆弱な立場に置く。パフォーマンス・アーティストのピッパ・バッカが2008年の公演中にレイプされ殺害された事件を取材する中で、ビアンキはノックアウトドロップ入りの飲み物を摂取する。デート・レイプ・ドリンク (別名 「Goodnight Cinderella」 )の影響で眠くなり、やがて意識不明になる。ビアンキの個人的な動機に基づくパフォーマンスは、虐待の被害者の多くが直面しなければならない境界線を示している。無意識で 「記憶のない」 身体にはどのような物語が考えられるだろうか。そしてこの肉体は、他の場面や儀式、対話が展開されるにつれ、最終的に劇場で忘れ去られるのだろうか?

https://twitter.com/ArtsCommonsT/status/1680223256652156928

 最初は、一人芝居の形式で始まり、大きなスクリーンを前にして、ピッパ・バッカというイタリア人のパフォーマンスアーティストと、彼女が亡くなるきっかけになった花嫁衣装を着て東欧から中東、パレスチナまでをヒッチハイクするというパフォーマンスについてのリサーチを紹介していく。同時に、女性アーティストの身体を使ったパフォーマンスの系譜も踏まえており、アブラモヴィッチやGina Pane, Tania Bruguera等々の画像も紹介されていた(オノヨーコは無かった)。その間カロリナ・ビアンキが少しずつデート・レイプ・ドリンクを飲んで、最終的には、実際に観客の目の前で意識を失ってしまう。

 ビアンキが意識を失うと、後ろのスクリーンが開き新しいパフォーマーたちが登場して、本物の車も登場して様々なパフォーマンスを行う。スクリーンには実際に起きた、サッカー選手によるフェミサイドの事件の顛末が流れている。その後、車に乗って歌いだしたりとか、車に煙が充満したりとか、色々舞台上で繰り広げられる。最終的には前半で紹介されたアーティストが行ってきたような身体を使ったパフォーマンスを意識のないビアンキがすることになる。これが女性器の中にカメラを入れて、スクリーンに映像を流すというもので、衝撃的だった。最後まで意識を失ったまま終わってしまうのかと思ったが、最後足先のマッサージの後意識を取り戻して、カーテンコールもあって、少し安心した。(早く切り上げて休んでくれという気持ちになった)

この上演は驚かされることばかりで、刺激的で、題材も好みなのだが、一つ、テレビカメラのようなものを使った同時中継的な演出だけはもう許せないというか、他のところが観たことのない光景の連続である分、すごく凡庸に感じてしまう。ケイティ・ミッチェルの頃は新しかったかもしれないし、これから演劇でも映像が普通に使われるようになるのは確かだが、そればっかりで、作品からも浮いているような使い方はつまらないと思う。日本の演出家も今からこれをまねするのはやめてほしい…。(個人の意見です)

カロリナ・ビアンキは今年のアヴィニヨンでもこの作品を上演しているらしい。このアーティストを知ることが出来たのが、この演劇祭でかなり上位に入る収穫だった。彼女の作品に関する論文を読みたいし、三部作の第一部とのことなので続編を観るのも楽しみだ。

 その他にも、美術館での「Incubation Pod」の展示や、小泉明朗さんのVRも体験することが出来た。今まで日本の国内での展示も気になりながらも西日本在住ということもあり観に行くことが出来なかったので、フランクフルトでというのも不思議だが、面白く、良い経験だった。パフォーマンススタディーズへの関心がより高まる。

 また、シビウ国際演劇祭を経験した直後であったので、同じ「演劇祭」であっても内容は全く違うということを強く感じた。例えば、プログラム選定に関しては、フリンジが無いというのは共通しているが、シビウでは、インドアはVicentiu Rahau、アウトドアはDan Barthaが担当して選定しており、そのプログラムは膨大で、面白い演目はあるものの、テーマ性というのはあまり感じられない(検索していたら、シビウに来たいカンパニーはこの二人に資料をメールしなさいという案内を見つけたので興味のある方は是非、https://www.sibfest.ro/en/faq)。反対に、今回の相馬さんのキュレーションは演目数は少ないが、どの演目もジェンダー、人種、気候変動、などなどのテーマやコンセプトが明確であったと思う。

一方で、町全体を巻き込んだお祭り騒ぎ感はシビウの方が強かった。これは、町の規模感や野外上演の有無などによるものだと思う。また、コミュニティを巻き込むタイプの演目は元々の計画から外されてしまったということなので、それが原因かもしれない。そのため、劇場の内部と外部の断絶というのは強く感じて、劇場の中で尖った、社会の問題を広く共有するような作品をやっていても、それらは劇場に来れる特権的な層だけに届いて、それが外の現実とは全く異なってるような感じも受けた。これらは、演劇の上演に広く関わる、難しい課題であると思う。私は面白い演劇を観続けたいと思う人間だが、お金もかかるし、アクセスするのも大変だし、観に行けるということが既に特権的だろうと思う。

 そもそも、演劇祭自体が近年の世界が抱える問題に逆行してしまう部分があるというのも感じる。気候変動の問題や、労働環境の問題(特にシビウは乗り打ちの公演が多いため、いくつかの劇場で深夜に仕込みをしている)、ヨーロッパ中心主義的になりやすい、コネクションの問題、等々色々考えたら、演劇祭を乱立させて、その規模をどんどん大きくしていくことへの疑問もある。でも楽しいんだよな…。今年の秋は日本の演劇祭にも行けると思うので、色々考えつつ楽しみたい。