バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

シビウ演劇祭~スカーレット・プリンセス~

会場前に貼られたチラシ、ここで入場まで待機


 2020年に日本来日が予定されていたものが延期され、ついに今年10月から東京芸術劇場で招聘公演が行われることが決まっている、シルヴィウ・プルカレーテ作・演出の「スカーレット・プリンセス」。シビウ国際演劇祭でも二日間22時から二時間半というスケジュールで上演された。

 他のどの公演でもそうなのだが、ボランティアスタッフはチケットを持った客が入って開演時間になった後空いている席に自由に座れるというルールで、現実で先着順チケット取りをしているみたいで、非常に楽しい。二回観に行ったが、一回目は二列目センター、二回目も花道より三列目を実力で確保することができた。プルカレーテの作品は、オンラインや映像で「テンペスト」「リチャード三世」「メタモルフォーゼ」「スカーレット・プリンセス」等を見て、生では野田版「夏の夜の夢」を観ていたが、それも遠い末席だった。今回非常に近い席で観て、やっぱり生で近くで観た方がスペクタクルで楽しめるなと痛感した。

 

 下調べをしていないし、歌舞伎の方の知識もこの前の歌舞伎座の公演を前編は歌舞伎座で、後編はオンラインとシネマで観に行っただけの感想なのでご容赦願いたい。また、鶴屋南北原作の歌舞伎の話ではあるし、比較してみるとより楽しいのだが、一方でどちらがいい悪いではなく、別のものだと割り切って楽しむものでもあると思う。

 

まずは全体として、キッチュでエロでグロでポップでめちゃくちゃっていう鶴屋南北とプルカレーテの作風がぴったりマッチングしているというのはほとんどすべての人が認める所だと思う。歌舞伎の方の原作が大体踏襲されているのだが、所々変更されているか、強調する力点が変化していて面白かった。

 

第一に、主演の桜姫・清玄・権助以外のアンサンブルがかなり存在感を増している気がする。もちろん、日本の公演では仁左衛門さんを追っかけすぎていて見ていなかっただけという可能性も考えられるが、特に吉田家の重宝都鳥の一巻が盗まれたことを巡る部分がより分かりやすく丁寧に場面を割いて描かれていたように感じた。入間悪五郎という桜姫の許嫁の悪者役は、歌舞伎で観た時にはあまり印象に残っていなかったのだが、かなり重要なキャラクターとして出てきていたのが新鮮だった。更に、剃髪して法衣のようなものを着ている女性が出てきたり、西洋のサーカス風衣装や甲冑を身につけた大きい人が舞台に存在してきて、たまに劇に介入してきたりするのだが、どういう存在であるかはよく分からなかった。多分よくわからないままでもいいんだと思う。

 

第二に、最後清玄が恐ろしい霊として出てきたり、それが権助と重なる場面はあまりなく、寧ろ清玄と白菊丸の因縁が舞台セットも使って強調されていた。幽霊という考え方がどの国でも親しみやすいわけではないという配慮だろうか。

 

 

第三に、桜姫が最後、権助か憎き仇であることに気づいて、子殺し、人殺しをするのだが、その行為がナレーターによってmurderをしたと繰り返されていて、よりそれが罪であるということが強調されているように感じた。最後のシーンも役割としては同じようなものではあるのだが、お家再興ではなく、ミュージカルシーンで終わるので、この先の桜姫の行く末はよりオープンエンドで想像を掻き立てるような感じだった。

 

 演者に着目すると、それぞれ皆とても役に合っていて、特に主演二人、オフェリア・ポピーの権助は、悪人であるにも関わらずチャーミングでポップでコミカルでキュートで、でもやっぱり悪いという新しい色悪の魅力を感じた。桜姫役のIustian turcuは普段の姿もキレイで目がぱっちりしてて、フレンドリーで、驚くべき程にただのファンなのだが、作中では権助に対する欲情が激しくて、めちゃくちゃなお姫様というのを体現していた。お姫様が女郎言葉を身につけて帰ってくる終盤の見所では、火を探しているところで見た目は全く異なっているのに、不思議と玉三郎さんが火がねぇなあと言っているシーンがフラッシュバックした。

 残月と長浦の二人の絡みもやはり面白くて、最高だった。男女が反転して演じられるのだがそのバランスも非常に良かった。葛飾のお十も洋装をしているのだが、動きがコミカルで、トテトテというような効果音を歩くのにつけられていてキュートだと感じた。

 

 拷問道具を持った怖い黒子や、もふもふの毛皮、銃を使って殺す等々細かいポイントはたくさんあるがとりあえずここら辺で終わっておきたい。

 

一日目より二日目の方が客の反応はよかった様に思うが、客の反応で言えば、休憩を挟んだ二幕目がより複雑になるからか、どこか失速する雰囲気があるかもしれない。

日本のツアーは、せっかくはるばる来てくれるのに、私は見れないのだが、日本で上演したらポピーとユスティの魅力にみんな悩殺されるんじゃないかな…

釣鐘の入墨が、ガムテープで、釣鐘のイラストにTNRSと上に書かれたものだったのだが、日本公演ではなにかお楽しみ演出があるか気になるので、誰か教えてほしい。

シビウ演劇祭七日目・八日目

新しいカンパニーTeatru Mascaというブカレストの劇団を迎える準備や実際にお出迎えがあったが、アウトドアでしかも現地のカンパニーなのでとりあえずやることは少なく、夜は公演を見ることができた。一日に何作品もはしごできる天国のような時間なので、終わらないでほしい。一生こういう生活をつづけたい…。

 

Focus and Chaliwaté Companyの“Sunday”

環境破壊をテーマにした舞台だが、舞台上で繰り広げられるものは基本的にコミカルでキュートでめちゃくちゃ楽しい。しかし当然色々な問題は考えさせられるし、環境問題を扱った舞台はそんなに観たこと無かったかもしれないと気づいた。いまシビウもめちゃくちゃ暑いし、日本も暑いらしいし、上演前には急に激しい雷雨に見舞われたりしたので、身に摘まされる思いがあった。

舞台は3パートに別れていて、地球温暖化と、竜巻などの異常気象、地震津波がそれぞれ扱われる。そしてそれぞれのパートも三つに別れていて、まず、ニュースを中継のような形で伝え、取材するクルーたち。彼らがそれぞれのパートの始まりになり、雪山、空?海で災害に巻き込まれる。そして、白熊、鳥、魚といった自然界、そして夫婦とおばあちゃんの暮らす家庭のそれぞれの状況下での姿が描かれる。

 

それぞれのパートも繋がっていて、クルーたちのニュースが家庭のテレビで流れたり、竜巻に巻き込まれた鳥が家に入ってきたりする。

 

とにかく、コメディチックで面白いし、車、動物のパペット、映像などの道具と効果も隙がなく見事だった。第三パートの地震の部分だけ少し手を加えないといけないかもしれないし、荷物を輸送するのが大変かもしれないが日本でも見たい。

 

サシャ・ヴァルツのKreatur

7日目にはスカーレット・プリンセスの為に途中抜けしたが、8日目には最前列で観ることができた。

基本的にダンサーは裸であることが多いのだが、着ている衣装も印象的で、モコモコトゲトゲした毛皮のようなものだったり、トゲトゲしたものだったり、素材が不思議。舞台の上手側に階段のような壁のような白いセットがあって、印象的に使われていた。

舞踏の授業のレジュメを引っ張り出して来たいくらいなのだが、その授業で習った「ケルパー(身体)」と同じく終盤ではダンサー同士が体をお互いに触りあったり、髪を振り回したりしていて、最後はその関心に帰結するのかなと思った。また、壁を使ったシーンでは、お互いに支えあったり乗り越えたり、そのあと叫んで他者に苛烈にあたる一人のダンサーがトゲトゲの衣装を着てその後出てきたりと、現代の社会問題や人々のコミュニケーションに関する問題を扱っているのだろうなということを感じた。

殆どのショーで男女問わず人の裸をみることがかなり多く、構えてみてしまう部分もあるのだが、日本でその女性の裸というものが性的対象物として扱われすぎているのだろうなと思った。

 

ルーマニアAndri BeyelerのRosalinda the cow

牧場の人と牛、豚、犬などの動物という設定で歌いながらストーリーが進んでいく。最初に町の様子が説明されるのだが、右に何々~そこから何キロ進んで~というような説明は「わが町」みたいだなと思った。牛が飛行機に乗ってアフリカに行ってしまうなど、色々面白いのだが、オリジナルストーリーであるため、英語の字幕を追い続けるのが大変で回りの人ほど楽しめていないかもしれない。

 

韓国Theatre Hooam & AtoBIZ LtdのBlack and White Tearoom – Counsellor

男二人の密室芝居で、最初から中盤まではかなりシリアスでスリリングに進む。

話は元々警官で今はカウンセラーになっている男性とそこに相談に訪れる男性の話で、二人の過去の因縁が明らかになるというものだ。作劇の基本に忠実に従っているというような感じで、相談に訪れる男が実は耳が聞こえていなかったということが、最初の登場で入っていいよと言われているにも関わらずドアをノックし続けていることで示唆されていたり、聞こえない音に関わる道具や金魚の餌、砂糖、遺骨などの粉といったモチーフが繰り返し用いられていたり、骨格がしっかりしているのだが、終盤でかなり変な方に進んでいく、そのギャップが面白かった。基本的には静かな演劇という感じなのだが、途中途中でかなりヒートアップして、叩いたり、飲み物をかけたり、叫んだりと、つかこうへいチックになり、それも私は好みだった。

途中途中で字幕が遅れることがあったのだが、もしかしたら耳が聞こえないという設定の芝居であるため意図的なものだったかもしれない。そうだとすると、彼らの話している言語の理解できない海外での公演の方が作品意図の伝わりやすいものになるだろうと思った。

 

イタリアTeatro per CasoのWorld of Wonder

大きいデカい光る白鳥の練り歩き。

 

スペインBatucada de Murcia & Carnival Group de AlicanteのBatucada in Carnival

オレンジのデカいカーニバル衣装を着た女性達の練り歩き

シビウ演劇祭五日目・六日目

五日目は担当している公演が終わり、ラドゥスタンカ劇場の看板女優オフィリア・ポピーの出演する「三人姉妹」を観るかどうするか散々迷った結果、宣伝の写真が面白そうだったダンス作品を観に行くことに決めた。

 

ベルギーCompagnie Mossoux-Bonté ‘Les Arrière-Mondes’

混乱、戦争、疫病の中を生きてきた、昔の贅を尽くした人々が蘇ってくるというようなコンセプト。舞台が幕で6つに区切られており、古ぼけたドレスなどを着たそれぞれのダンサーがそのスペースを使ってゆっくり動き出してくる。このプロローグは昔の亡霊が蘇ってくるというようなもので、かなり能と似ていると感じた。

 

最初は一人一人がそれぞれ動いているのだが、その身体表現はかなり舞踏に近いものだと感じた。服装も性別がよくわからないような装いをしていて、坊主だったり白っぽかったりする場面がかなり多いので、山海塾とかに影響を受けているのではないかと思う。

 

その後、中盤以降にかけては、ダンサー同士が交流するようになる。それはいいのだが、あまりにハプニング的な、驚かせようとするような要素が多く、首なし人間、手がたくさんある表現、急に顔が外れる等、その異形の演出が芸術的に面白いというよりは、お化け屋敷のような感じであまりいいとは思えなかった。

 

終盤、急に激しい音楽と共にヘドバンのような動きをしだして雰囲気がすごい変わったので、このまま終わっていくのかと思っていたら、突如として真顔、静寂に戻るというのを何回か繰り返すところが一番意味がわからなくて面白かった。

 

SWEDENのThe Art Group Fulの‘Baba Karam – through Jamileh and Khordadian The Summer Sneak Peek’

ハーバルマンでの野外パフォーマンスでイランの人気ダンスBaba Karamを利用したドラァグなショー。確かに、女性ダンサーが髭を付けていて、日本でいうROLLYみたいなダンサーが踊っていた。

 

宣伝画像からはもっと現代的でスタイリッシュなダンスを勝手に想像していたが、すごい古めかしいといったら悪いが、懐メロというような感じで、皆で踊ろうという感じで盛り上げる。なぜか最前列いたので私も踊っていた。

 

正直、自分自身が疎いこともあってパフォーマンスだけでは宣伝に書かれてるようなイランのテーマやドラァグさをあまり感じれず、ダンスもものすごい技術の高いものというわけでもないのだが、シビウの人たちは盛り上げるのがとても上手でかなり楽しかった。

 

六日目

カンパニーが昼に帰国したため、その後は暇になり沢山公演を観れた。

 

TrioMix

日本のJTのインターナショナル部門?JTIがGigi Căciuleanu și Fundația Art Productionと協力している公演のようで、VR作品だ。

自分の周囲を男性一人、女性二人のダンサーが回りながら踊るというもので、どこで誰が踊っているか分からないのでくるくる回りながら今踊っている人を探したり、自分の好きな人を追いかけることができる。日本の演劇でも最近VRは話題だが、自分の好きな俳優とかだとかなりいいだろうなと思った。

 

イタリアFormati Sensibili & BeSpectActiveのCONTEXT / SOLO

GONG Theatreの舞台に水が張ってあって、そこでひとりの女性ダンサーが踊る。非常にゆっくり、低い姿勢で舞台上に出てくるのだが、二階席からはほぼ何も見えなかったので、さすがに照明が暗すぎるように思う。舞台奥の画面にも水の流れのような映像が流され、水面も反射して、三角形の舞台装置がきれいに四角の形に見えたりする。舞台装置は美しいのだが、肝心のダンスの方は静寂という感じで、舞台から遠い席で見るとよくわからない部分が多かった。

 

イスラエルVertigo Dance CompanyのPardes

自分が担当していたカンパニーと異なるイスラエルのダンスカンパニー。こちらは手足を伸ばし体をダイナミックに使った群舞と、舞台奥と横にダンサーたちの影が美しく投影されるのが印象的だった。全員の衣装が統一されていて、その他の小道具も少なく舞台上のダンサーの身体に集中させるような雰囲気だった。面白かったのがダンサーの待機場所が舞台の三方にあって、踊っていないダンサーも思い思いに舞台上に待機しているということで、ブレヒト的な何か意図があってのことなのか、でもダンサーは特にこの公演では何かを演じてるわけではなさそうだし…、それとも稽古と本番の境目を曖昧にしているのか…等と考えてしまった。最後列の階段に座ってみていたので見えていないだけかもしれないが、あんまり水も飲んでなさそうだったのでその点は心配になった。

 

ルーマニアTeatrul Național Târgu-MureșのBetrayal

ハロルド・ピンターの「背信」の上演。そもそもこの男同士の友情と、女性と不倫と三角関係という話自体にあまり興味がないのだが、舞台美術が「リーマン・トリロジー」みたいに回るようになっていて宣伝写真が魅力的だったので観劇した。

 

驚いたのは、役者が全員、操り人形で操られているように非常にオーバーに動いて、台詞も全部録音で実際には喋ってはいないことだ。劇が一番新しい時から時を逆行していくという構成になっているため、何かその演出が後半効いてくるのかなと思いきや最後まで何も変わらずそのまま終わってしまって、何の効果を狙ったものなのか全く分からなかった。また、細かい部分ではあるのだが、ジェリーとロバートは親友であるという設定で、実際妻よりも愛しているというような男同士の関係を匂わせる台詞(笑いが起こっていた)もあるのだが、二人の演技では、人形仕掛けだからか全く親密そうには見えず、ロバートが白髪で歳の差がかなりあるように見えてしまった。

更に、終盤でウェイターがでてくるのだが、白いマスクを被ったスケキヨ状態で出てくる。これには、客席からも乾いた笑いが起きていたし、不必要な仮面の使用は個人的に俳優に対して失礼だと感じてしまう。

 

このあと、プルカレーテの「スカーレット・プリンセス」を二列目センターで観劇したのだが、また今日も観るつもりなので次回に回したい。

シビウにせっかくいるのにブログばっかりに時間をかけるのも良くないので、出かけたいと思う。

シビウ演劇祭四日目・五日目~ASYLUM~

 担当している、Kibbutz Dance Companyというイスラエルのダンスカンパニーの公演「ASYLUM」。去年、オンラインの配信でこのカンパニーとバットシェバというイスラエルの他のダンスカンパニーを観て、その表現に惹かれていたので担当できているのは嬉しい。

 

6/27の22時からと6/28 の18時からFabrica de Culturăという元々廃工場だったところのファウストホールでの公演で、どちらの公演もスタンディングオベーションだった。

 

ボランティアとしてはルーマニアの子たちがもうあと二人いて、その子たちが非常にしっかりしていたので、色々チェックしたり、頼んだり細かいところで少し動くだけだった。会場が他の会場からかなり離れているため、長時間他のインターナショナルボランティアや現地の友達にも会えず、自然な事ではあるが、ルーマニア語が頭上を飛び交う環境のなかで無力感もあった。言語、文化の違いなどもあるが、自分の内気な性格も問題だなと強く感じ、もう少し何かできたんじゃないかという気持ちと、いやギリギリ食らいついていけてるという気持ちのせめぎ合い。しかし、最後には色々ダンサーの人達と話したり(やっぱり舞踏butohは有名なのだなと再確認できた)、日本の人と繋いだりできたので良かったと思いたい。

 

私がリハーサル合わせて四回見た「ASYLUM」(https://www.youtube.com/watch?v=ysG-CESyw8k)は日本語では「避難」「亡命」という意味で、振付家はRamiBe'er。コンセプトはタイトルからも分かるように、アイデンティティ、外国人、抑圧、差別、支配、自由、帰属、移民、祖国、あこがれ、故郷等のようだ(下記HPを参照)。

 

In his work the ‘Asylum’, Be’er examines concepts such as identity, foreignness, oppression, discrimination, domination, freedom, belonging, immigration, homeland, longing, and home. These concepts are relevant to every human being from an existential view, wherever he or she may happen to be situated in place and time. The quest for a place that is identified as a home is part of the human existential experience.

In relation to the present moment in which we are in, the reality touches subject matters within Asylum as we are all witnesses to the millions of asylum seekers that are are escaping wars and conflicts across the globe, trying to find their place where they will feel safe.(キブツダンスカンパニー公式サイト

https://www-kcdc-co-il.translate.goog/en/show/asylum/?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=op,sc

より引用)

 

 舞台はまず拡声器を持った人が現れるところから始まる。彼は「712213」という数字を繰り返す。そこから他の20人近いダンサーが登場してきて群舞になるのだが、腰を下ろした姿勢が基本姿勢でなんだが能に似ていると思った。腰と手の動きが印象的で、脱力系の自分も踊ってみたくなるような中毒性のある振付。

そこから、少人数の踊りに移っていくが、この作品で印象的なのが、口を大きく開けて叫んでいるような表情と、歩く振付だ。歩く振付は、ソロやデュエットでの踊りの間に挿入されて、客席側に向かってきたり、後ろ歩きになったりする。それは移民の移動、逃亡を表しているのかと思うが、後ろ歩きの時は時が戻っていくような表現にも思えた。

 またその他にも印象的だったのが、男女が親密な雰囲気で踊るデュエットダンスで、男側が段々女性に対して支配的、暴力的になっていく場面や、舞台上に倒れている10人程度のダンサーたちを、他のダンサーが助けおこそうとするというような場面だ。これらの場面は、印象的に繰り返された。

 最後の場面では、プロローグと同じような振付の繰り返しなのだが、微妙に変化がつけられていて、銃を構えるような動作が途中かなりの回数挿入される。客席にも向かってきて緊張的な雰囲気になった後、全員倒れて去り、一人のダンサーが拡声器を舞台上において終幕。

 

全体通して音楽が耳に残るもので、今も頭の中を繰り返し流れているのだが、上手く表現する言葉が見つからない。どの音楽も少し不穏な雰囲気を醸し出すようなものだった。

 

まだ日本に行ったことは無いそうなので、いつか日本でも観れたらいいなと思う。あとは、もっとダンスの批評が出来るように勉強したい。

シビウ演劇祭二日目・三日目


忙しい、というかあまりなにもやってないけど公演は見れないような時間もありつつで、Indoorのパフォーマンスは全然見れていない。 
担当する劇団の公演はかなり深く入り込んでみれているし、仕込みとかを観るのはすごく面白いのでそれはそれで充実しているはず。 
公演はまた観客としてこよう。 
 

ドイツのOakleafのNatural Cumbia

魚とかタツノオトシゴとかの高く竹馬みたいにしての練り歩き 
大きくて、蛍光色で目を引く 
なんか海月姫の衣装みたいだなとも思った。 
見た目には海の生き物で涼しげだけど、演者は大変そう(隠して演じてるけど)

スペインのEfimerのTraps 

三体の可愛いでかい恐竜が人にちょっかいを出しながら練り歩くというもの。帽子が狙われて帽子を被っている人が教われていた。絶対子供が好きなやつという感じ  

ルーマニアの学生の銅像パフォーマンス

Departamentul de Arte și Media, Facultatea de Litere, Universitatea din Craiovaというルーマニアの大学生の公演。The Living statue festival(生きた銅像のフェスティバル?)を平行して開催しているようだ。 
シェークスピアの登場人物のキャラクターをブロンズ像の機械的な物質的な動きで表現するというもの。テーマが愛らしく、ロミオとジュリエット、リチャード三世とレディ・アン、フォルスタッフと娘たち(ウィンザーの陽気な娘たち)が出てくる。愛がテーマということもあって?登場人物のほとんどがキスをする。結構笑いをこらえきれてないというか、人間的な部分が見えていて、いいのかなと思った。 

フランスのLes P'tits Brasの'Cabaret Bruits de Coulisses'

初日と同じような空中ブランコを含んだサーカスだったが、中世?(本当のその時代のパフォーマンスをあまり知らないので?を付しておくが)がコンセプトらしく、歌あり、髪を使ったつり上げあり、なんでもありのカオスさがあり、そのカオスさが初日の正当派なものよりも自分の好みだった。 
舞台がHebermanの中心にあり、バックステージが見えるようになっていた。カーテンが閉まると表のパフォーマンスは見えず、演者の待機や着替えが見えるので、どういう意図で見せてるのかわからなかったが、それも含めてパフォーマンスということらしかった 

スペインのEfimer(恐竜とおなじとこ)のDance of Death

他のボランティアの子たちとhuman chainになって、観客が進行を妨げないようにしながら、ちゃっかりかなりいい場所でパフォーマンスを見た。大きなスケルトンの操り人形?のようなものが通りを練り歩くもので紙吹雪や水がでる演出があって、クラブに流れているようなアゲアゲの音楽で、途中までは楽しんでいた。しかし、一時間くらいたつと、さすがに同じことの繰り返しということに気づいてしまって、急激に周りのテンションについていけなくなって途中離脱してしまった。

 

兎に角今は、自分の担当以外のIndoorの公演が見たいという気持ちにさいなまれている。今日はどうにか見れるはず‥‥。

シビウ演劇祭一日目観劇録

①フランスCompagnie DyptikのD-Construction(脱構築?) in Habermann Market 
 
 フェンスが舞台の中心に立っていて、演目の半ばでフェンスの内と外が入れ替わる形式、最初はフェンスの外側がメインステージのようになっていたので、逆側がメインなんだなくらいにしか思わなかったが、こちら側に演者が移ってきて反対側の客がフェンスのギリギリまで詰めてくると、急に壁に隔てられた人々、移民問題というようなメッセージが鮮明に浮き立ってくるような仕掛けになっていた。 
 ダンスはヒップホップでアクロバットな動きもあるパワフルな雰囲気だが、ところどころセンチメンタルというか落ち着いた身体表現があったり、こちらをじっと見つめてきたりして緩急があった。 
 
 カーテンコールはスタンディングオベーションだったが、観客のひとが間にはいって礼をみんなでしていて思わず誰!?って日本語で口から漏れ出てしまった。 
 
②フランスのCirkVOSTのPigments 
コンテンポラリーサーカスで、空中ブランコがメイン。ところどころ衣装の早着替えとか一時停止とかあってもメインは空中ブランコであまり言及するようなことも逆にないが、やっぱり技が決まったらすごいし、最後にみんなで回りまくるところは圧巻だった。 
 
最後はDrone & lasers show 
初日と最終日に開催されるショー、今までは花火だったが結構危ないから?環境への配慮?等でドローンに変わったらしいラドスタンカ劇場の上でドローンで本とか花とか蝶々とかが表現されていた。 
23時からとなっていたが結局色々トラブルもあって30分おしではじまる。皆花火が名残惜しいのか、ドローンショーに花火のヒュードーンという音を口々に言っていて面白かった。 
 
案の定すこし遠いホストファミリーの家に帰れなくなった(これを見越してホストシスターも誘っていた)が、結局どうにかなったのでよかった。 
 
他のメンバーは皆バーに向かっていったので元気だなあと思う夜だった。たぶんノリ悪いと思われてるだろうな... 
 

ふじのくにせかい演劇祭雑感 ストレンジシード静岡編

ふじのくに世界演劇祭は知っていたが、初めて現地に足を運んだ。5/2-5/3 と滞在し、ストレンジシード静岡という主に野外で短い演劇やダンス作品を上演するという企画でいくつかの劇団の上演を観たので簡単に記録と感想を残しておきたいと思う。SPAC の「ギルガメシュ叙事詩」とオマール・ポラスの「私のコロンビーヌ」も観劇したが文字数が多くなりすぎそうなので、別記事としていつか執筆したい。

・ままごと「マイ・クローゼット・シアター」
スイッチ総研など野外での実験劇にも取り組んできたままごとの企画。衣装の持ち主のドラマを、観客が着て、その人になりきり、自分の足でそれぞれ静岡の町にある指定されたスポットまで赴き、体験するというものだった。私が選んだ人は本が好きな人であったが、指定された場所の前に古書店があるのは仕組んだものなのだろうか。役の人はどのような本が好きなのだろうかと想像しながら、普段はあまり見ない本棚を見るのは面白かった。(この古書店の演劇コーナーには唐十郎とか寺山の本ばかり置いてあった)
ただ、私はあまり意識しないまま選んでしまっていたのだが、物語が恋愛であることにはあまりノれなかった。女性と男性の異性愛規範に囚われていたわけでもないし、嫌悪感をもたらすような内容でもなかったので、それは個人的な問題として、帰りに見せてもらった友達のものも恋愛の話だった。こういう体験型の演劇は沢山ある選択肢の内一つしか選べないし、ネタバレも良くなさそうだし、友達のを見るのでさえ謎の罪悪感があったので、全体がそういう甘酸っぱい系だとは言えないが…。感想とか批評をするのも難しい形式の演劇かもしれないと思った。

・劇団かいぞく船「この道であい」
途中からしか見れなかった。地元のミュージカル劇団のパフォーマンスで、なんだかままごとっぽい、特に「あゆみ」に雰囲気が似ている印象を受けたが、パンフレットによると実際に柴幸男作品を上演しているらしかった。中高生の学生たちが皆上手に歌ったり踊ったりしていたが、唯一の高齢の女性の方の立ち姿が非常に美しいと思った(今回見た演目で高齢の方を見たのはこの公演だけであった)。衣装がこれぞセーラー服というようなセーラー服だったので脱線して考えると、実際に制服を着ているような中高生はこのような中高生役を演じたいのだろうか。大人の役とかどこか現実と異なる役がやりたいのではないかとか、私たちが見たい学生像を現実の若者に押し付けていないかとか、年下が出てくる作品だと考えてしまう。

・範宙遊泳「かぐや姫のつづき」
タイトル通り、かぐや姫のつづきを紡ぐ物語であり、子供にもオススメの作品とのことだった。かぐや姫の別の世界線という設定は、異世界物の氾濫の中よくありそうな話ではあるのだが、静岡ネタを上手く取り込み、俳優の方々の安定感もあって非常に面白かった。他の世界線かぐや姫や竹取の翁が出てくる部分の演技は、憑依の演技であると思うが、この一人二役の演じ分けというのが面白く、子供にも分かりやすそうだなと感じる。
一緒に行った友達も言っていたが、子供向けで大丈夫なのか?という夫婦仲に関する問題が扱われる。(平和で楽観的ではあるものの)解決の方向に向かうので良いのかもしれないが…まあ子供は大人が思っているよりも大人だったりするので、そんなに過保護に思わなくてもいいのかもしれない。気になりつつ見れていなかった劇団の一つだったので、短編でも生で観れてよかった。また YouTube で公開されている公演映像も観たいと思う。

~「私のコロンビーヌ」観劇・浜松餃子を食べる~

・「ホナダンス部とウララーズの!お外でディスコ!」
これも途中入退場で一曲目の途中と二曲目に参加した。楽しそうな音楽につられて会場に行ったが、大人がみんなで踊っていて、遊具で遊んでいる子供たちも踊っていなくても興味深そうに見ていていい雰囲気だなあと思った。自分で踊ってみるのも楽しかった。

・壱劇屋×サファリ・P×SPAC ストレンジチーム「Team Walk」
何年か関西にいて、関西の劇団でオススメも受けているのに生で観ていないこの二団体(コロナのせいにしておこう)。歩くという行為をダンスやパントマイム音楽の力で劇的なものにしていくというような作品だが、観客を巻き込む力、周囲の人に関心を持たせる力があった。また、ノせられた観客が音楽に合わせてみんなで飛び跳ねたり、不思議な歩き方をしている集団はそれ自体が異質だろうから、通りかかった人としてこの謎の集団を見るのも面白いだろうなと思った。

少年王者舘「トオトオデン」
途中から見たので、話の流れは良くつかめなかったのだが、半ズボンの少年に度肝を抜かれてしまった。そして、その後ブルガリアレバノンスマトラ‥‥など国の名前を音楽に載せてラップ調に言っていてさらに度肝を抜かれた…極めつけに最後「おーい」と叫んでいた、王手、チェックメイトだ。松本雄吉の「維新派」の作品に似すぎているがこれでいいのだろうか。維新派っぽくなかったら純粋に楽しめていたかもしれないが、さすがに似すぎというか‥.。
不勉強で「少年王者舘」という劇団は知らなかったのだが、実際、松本雄吉と交流があったようだ。何も知らないのでのれん分けのようなものなのかもしれないし、事情は何も分からない。ただ、私は地方育ちで、演劇に出会う・成長するのが間に合わず、生で観れなかった、がゆえに「維新派」への思いを少々こじらせている。映像で観た「維新派」の舞台に非常に似たシーンが繰り返されるものの、規模が小さく、オリジナル的なハンドベルや風船を使ったシーンは初日だからかあまり調和もとれておらず、あまりよくないのではないかと思った。あの会場の中で維新派を知ってる人はどれだけいるのだろうか…、生で維新派を観ていたという人や関わっていた人や、いろんな人に意見を聞いてみたいと思った。

他にも安住の地、コトリ会議、田村興一郎など気になる団体は多いが、時間の都合で見れず悔しい。上二つは関西の劇団なのでまた観ようと思う。贅沢な時間だった。

めぐり合いは再びnext generation/Gran Cantante!!初日感想(ネタばれあり)

 4月23日(土)に開幕した「ミュージカル・エトワール めぐり会いは再びnext generation 真夜中の依頼人」「レビュー・エスパーニャ Gran Cantante!!」を早速観てきた。普段は天飛華音(パネル入りおめでとう)をオペラグラスでずっと追ってしまうのだが、少し我慢し、俯瞰的に観るように努めたので、鮮度重視・備忘録として感想をまとめたいと思う。 

めぐり合いは再びnext generation

 まず、今作は2011年の「めぐり会いは再び」(以後1stと表記)、2012年の「めぐり会いは再び2nd」(以後2ndと表記)の続編である。どちらも元々好きだった柚希礼音(様)の主演作ということもあり映像で何度か観劇済みだ。その上演から10年が経過したということで、宝塚や星組から去った人も多くどのような話にするのか…初心者が見ても楽しめるものなのか…正直非常にハラハラしていた。

 

 結論は、「楽しい」「最高」というポジティブなものなのだが、ただそれは私が特に星組ファンで、挿入されているネタが大体わかるからということがあるかもしれない…。以下にネタの一部を挙げる。

・エルモクラート(真風涼帆)・ケテル(芹香斗亜)が他の国に行っている

・コソ泥の天飛の「パン泥棒だなんて情けねえ」の台詞(2ndでかぼちゃを盗んでいた十輝いりすクラウスより)

カストルポルックスの双子が「父親に似て落ち着きがない」と言われる(親のブルギニョンは紅ゆずる…)

・レオニード(音波みのり)の脈絡のあまり無い男装、マリオ(涼紫央)との結婚

・「食聖」風のカンフーしてる瞬間があったような

…等々気づいてない部分でも、まだまだありそうだ。

 

 宝塚のネタではなくても、小柳先生が好きだと公言しているインド映画の影響を感じさせる場面もあった。私は人並み程度にしかインド映画は見れていないので、有識者が見たらより発見があるのではないだろうか。

アンジェリークとルーチェをくっつける作戦会議中のひろ香祐「きっとうまくいく」(インド映画「3idiots」の邦訳より?)

・婿選び審査中のクラブでの突然のダンス審査

www.youtube.com

・婿選びでのオンブル伯の策略を明らかにする場面、劇作家(天華えま)による劇仕立てで、半仮面をつけている(「オーム・シャンティ・オーム」のオペラ座の怪人風の場面)

www.youtube.com

 元々「めぐり会いは再び」自体が劇中劇のような構造を取っているものの、演出した経験もある今作から引用していることは間違いないように思われる。

 

 また、小柳先生はファンが求めている需要に的確に答えるのである。序盤から、友人同士のことせお(礼真琴・瀬央ゆりあ)で一緒にブランケットに入ってみたり、せおみほ(瀬央ゆりあ・有沙ひとみ)はカップルだったり、何故か瀬央さんと天寿さんはキスをし…もう一杯一杯で受け止められないくらいの出血大サービスだ。退団者三人に向けての場面も豊富にあり、トップスター二人とともに音羽、天寿が歌う場面は泣いてしまった。

 

 劇の全体を見ていくと、①恋人、②家族、③モラトリアム・成長の三つの王道の話が混ざり合って進行していくようである。

①恋人

このテーマは言わずもがな、ルーチェとアンジェリークの恋路である。彼らの関係が回復し、結ばれることが作品の大きな軸になっている。

②家族

 ルーチェ(礼真琴)もアンジェリーク(舞空瞳)も母親を早くに亡くしており、母親が不在である。

 ルーチェは亡くなった母親の手を取れなかったことをずっと後悔しており、自信を失う要因の一つとなっている。アンジェリークも、危険が及ぶことを恐れた父親によって、身分を隠し、親戚とともに暮らしている。これらの家族の問題を解決することも主題の一つだ。

③モラトリアム・成長

 「モラトリアム」という言葉が歌詞にも何度か出てくるように、探偵所の手伝い(?)をしてまともに就職していないルーチェ、そしてそれぞれ夢を持っていながらも未だ大成していない友人たち(瀬央・有沙・天華・水乃)はモラトリアムを謳歌している存在として描かれる。そんな彼らの成長物語でもある。

 

 更に、ジェンダーの観点から見ていくと、アンジェリークが庇護心の強い父親から自立することや、剣を持って戦うヒロインであることも印象的だ。前作の夢咲ねね演じるシルヴィアよりもより強い、従来の守られる、受け身のお姫様ではないことが明確に示される。

 

 とはいえ情報量が多すぎる面は否めない。前作までの背景があるためにどうしても説明台詞は多いし、視覚的にも前作のおとぎ話風のメルヘン衣装と、今作のモチーフであるスチームパンクが混ざり合ってゴチャゴチャしていた。音楽もゲーム音楽のような、昔のボカロ曲のようなものが増えているが、正直前作までの曲のリプライズの方が好みである。

 結末は大怪盗ダアトの伏線・正体も解明されず、次回につづくというオープンエンドであった。果たして実際に上演されるのか、オタクの想像にお任せしますということなのか、結果が分かるにはまた10年必要なのかもしれない。

 

Gran Cantante!!

 「素晴らしい歌い手」というタイトルにもあるように、礼真琴、美穂圭子の歌声を存分に味わえるものとなっており、幕開きは「アパショナード??」という印象は、その歌重視のスパニッシュという点で変化した。

 娘役の活躍する場面も多く、万里柚美元組長も登場する(ロミジュリで身につけたフラメンコを披露してほしかったが…)。退団者への餞別の場面も多い。中でも、トップスターの礼が今まで全国ツアー等でも組んで来た音羽みのりと踊るを見れたのは嬉しかった。

 この作品で、応援している天飛華音がスパニッシュドレスを着て、所謂藤井ショーの「女装」をしていた。「エル・アルコン」でも娘役(?)はやっていたが、最初は面食らった。茶化したりするような場面ではないので、問題はなく、当人はキレキレの踊りに表情もバシバシ決めていた。結局ファンなのでショートで美しい…デコルテのライン好き…とみてしまうのだが、お馴染み感が過ぎる面もあるのではないか。これは開演後すぐに三人案内役のようなキャラクターが出てくることにも言える。

 天飛華音の衣装話の続きだが、その前の馬のシーンも、衣装は悪くないが、好色な馬といわれるとギリシャ神話の「サテュロス」を想起してしまってかっこよく思えないし、その後の牛の場面での衣装も中性的なものだったので、中詰周辺はカッコいい天飛少なくないですか…?状態だった。

 音楽に関しては、前大劇場作品のクール・ビーストではJPOPを頻繁に用いていたが、今回は宝塚のスペイン物の曲を引用が多く、J-POPの使用は抑えられていた。J-POPもよいが、やはり宝塚なのでショー・レビューとして溶け込み調和するのは宝塚の歌だろう。

 それにしても、最近スペイン物が多いような気がする、「Éclair Brillant」のボレロスペインシーン、(え、最近じゃない??)、ロミジュリのフィナーレ、マノン、花組の哀しみのコルドバ宙組のネバセイ‥‥。前作の記憶がよぎるので、比較しても面白いのではないかと思われる。簡素な舞台美術や、音楽の引用、衣装の使い回し等も…注目点は多いのだが、これを記述するのは今後の課題にしたい。

 

 場面場面の全体でも星組生熱演相まって情熱的で、それでいて落ち着いた雰囲気もある。非常に安定感があり、礼さんはじめ歌と踊りとを堪能できるレビューだが、フィナーレでは天寿さんエトワール→天飛階段降り→え、瀬央さん片羽根??→あれ、なこちゃんも片羽根??どういうぼかし方??と感情がジェットコースターのようになった。人事のモヤモヤを抱えることなく作品を見せてくれよと歌劇事業部には頼みたいところだ。

 

 

 

 

冬霞の巴里感想(ネタばれあり)~ギリシャ劇の翻案という視点から~

 

 チケットは取れなかったが、4月2日(土)16:00~配信を見ることができた。

『冬霞の巴里』は古代ギリシャ劇、アイスキュロス作「オレステイア」を原案にしており、現代での古代ギリシャ劇上演という私の研究テーマに通ずる。(http://hdl.handle.net/11094/80625

ギリシャ劇は、様々な社会問題と絡めながら様々な演出方法で現在も上演されている。まだまだ勉強不足な事甚だしいが、普段よく見ている宝塚歌劇でどのように上演されるのかという点では非常に面白く、発見も多かったのでブログに残しておきたいと思う。

あらすじ

時は19世紀末パリ、ベル・エポックと呼ばれる都市文化の華やかさとは裏腹に、汚職と貧困が蔓延り、一部の民衆の間には無政府主義の思想が浸透していた。

そんなパリの街へ、青年オクターヴが姉のアンブルと共に帰って来る。二人の目的は、幼い頃、資産家の父を殺害した母と叔父達への復讐であった。父の死後、母は叔父と再婚。姉弟は田舎の寄宿学校を卒業した後、オクターヴは新聞記者に、アンブルは歌手となって暮らしていたが、祖父の葬儀を機にパリへ戻った。怪しげな下宿に移り住む二人に、素性の分からない男ヴァランタンが近づいて来る。やがて姉弟の企みは、異父弟ミッシェル、その許嫁エルミーヌをも巻き込んでゆく…。

古代ギリシアの作家アイスキュロスの悲劇作品三部作「オレステイア」をモチーフに、亡霊たち、忘れ去られた記憶、過去と現在、姉と弟の想いが交錯する。復讐の女神達(エリーニュス)が見下ろすガラス屋根の下、復讐劇の幕が上がる…!

公演解説 | 花組公演 『冬霞(ふゆがすみ)の巴里』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

 

食卓の演出

 長机を用いた食卓の場面は第一幕と第二幕で繰り返され、家族な不穏な関係を示し、クライマックスのドラマを巻き起こす場となっている。

 このような食卓のシーンは、「オレステイア」に特に指定がされている訳ではないが、その他の翻案上演でも使われている。例えば、ケイティ・ミッチェル演出のロンドンナショナルシアター版(1999)(参考写真:https://www.photostage.co.uk/people/katie-mitchell/oresteia-the-nt-1999.html)や、日本で上演されたものでも、ヤエル・ファーバー演出「モローラ―灰―」(2006)、ロバート・アイク作・演出「オレステイア」(2015)等がある。特にロバート・アイク翻案版は2019年に新国立劇場でも上演されており、元宝塚雪組トップスターの音月桂エレクトラ(=アンブル)役で出演していたので、もしかしたら参考にしているかもしれない(参考写真:https://www.nntt.jac.go.jp/enjoy/record/detail/37_015599.html)。

 このような演出は、家の中で家族が過ごす場のリアリズムを追求した結果ということも考えられるが、アトレウス一家の呪いにまつわる話に関連しているとも考えられる。というのは、ギリシャ神話ではアガメムノン(=オクターヴの父、和海しょう)の父アトレウスとアイギストス(ギョーム、飛龍つかさ)の父テュエステス同士が兄弟であり、王権をめぐって激しく争った。そしてアトレウスは妻が弟テュエステスと姦通していたことを知り、復讐のために彼の子供を料理し彼自身に食べさせたという伝説がある。先祖の代から食卓を囲み繰り返し復讐が行われているのだ。

つまり、(どこまで反映されているか分からないものの)あの一家は呪われており、食卓のシーンで血塗られた手が出てくるとき、そこには父(=アガメムノン)のみならず、そこに至るまでの様々な死者、復讐の女神たちがうごめいていることが示されていると考えられるかもしれない。

宝塚歌劇で上演するための変更について

 大きな変更は、19世紀末のパリに時代を移したことだろうが、時代を移すという翻案は盛んに行われており、非常に宝塚らしい変更のように感じた。作・演出の指田先生はフランス語学科出身(歌劇三月号座談会よりp.67)であるようなので、フランス物は得意なのだろうし(憶測)、もしかしたらジャン=ポール・サルトルが「オレステイア」を翻案した「蝿」(1943)を読んでいるかもしれない。

 一方で、宝塚歌劇に合うように、表現が抑えられている部分も多いと感じた。特に大きな変更は、血縁関係に関わるものだろう。オクターヴ(=オレステス、永久輝せあ)は、父と愛人の子供であり、姉のイネス(=イフィゲネイア、琴美くらら)とアンブル(=エレクトラ、星空美咲)はクロエ(=クリュタイムネストラ、紫門ゆりや)の連れ子であるため、姉弟そして、オクターヴと母クロエの間に血縁関係はない。

 そのような設定によってまず、オクターヴとアンブルの姉弟愛・近親相姦的タブーを回避している。(ただ、以前母子での結婚が描かれる「オイディプス王」(2015)を上演している。)ちなみに元となったオレステスエレクトラ姉弟の深い関係は、母殺しの後日談であるエウリピデス作「オレステス」でも描かれ、“禁断の”ものとして妖しい演出をする上演が多い。自殺しようかという前の二人の台詞を以下引用する

エーレクトラー 最愛の弟よ、姉にとっては懐かしく、愛しいその体、ひとつ生命をもつお前

オレステース その言葉に融けてしまいそうだ。そして、僕からもあなたを腕に抱きたい。ここまで来て恥じることがあろうか。ああ姉さんの胸、抱きしめる愛おしい人。惨めな二人にはこうして呼び合うことこそが、子供にも結婚の臥所にも代わるもの。

エーレクトラー ああ。許されるなら、二人で同じ剣に果てたい。杜松の木のひとつ棺に収まりたい。 (1045-1054行)

中務哲郎訳「オレステース」『ギリシア悲劇全集』第八巻 pp.313-314

本劇では母殺しをしなかった二人だが、しかしながらお互いに依存しあい、罪を共有してどのように生きていくかというのは気になる所である。

 また、アガメムノンは長女のイフィゲネイアをトロイア戦争の出航の為、人身御供として捧げるが、オクターヴの父とイネスは血縁関係がなく、また問題はあるものの自殺に追い込むという点で直接手を下してはいない。クロエもアンブルも配役によるものもあるだろうが、原作のクリュタイムネストラエレクトラに比べるとかなり落ち着いており、それぞれ殺人に積極的に手を貸しているようには見えない。そして結局母殺し、義父殺しは起こらない。これらの変更は、宝塚歌劇にふさわしいものにするためのものか、演出的な工夫かはっきりさせられるものでもないが、陰鬱とした時代を背景に、ギリシャ劇がじめっぽい日本式復讐劇に見事に変貌していると感じた。

 父と子の特別な結びつき

 古代ギリシャ劇では、オレステスは幼児の時に父アガメムノンは死に、他国の親戚の元に預けられる。そのため、オレステスが父親の仇討・母殺しを行う理由というのはアポロンの信託によるものであり、家父長制の維持に関わる論理だ。個人的な愛情や関係、思い出というのはオレステスには全くと言っていいほどない。

 一方、オクターヴの劇中の回想シーンでは、父親と過ごした平和な日々、大人になったら父親の事業を継ぐのだということが繰り返し強調される。このような父と息子の特別な結びつきは、前述したようにオクターヴが唯一血のつながった父親の子供であるという変更によって、ギリシャ劇がもともと持っていた他の姉妹との性別的な差異に血縁的な要素が加わり、より現代の観客が納得しやすいものとなっている。

 父の事業を引き継げず、仕事に精を出すこともなく、貧しい人々と暮らして、「こんなはずではなかったのに」という状況は、「王になるはずだったのに」というオレステスの抱える思いと同様である。偉大で英雄的な父親と落ちぶれている自分というのは対比構造になっているが、本劇ではオクターヴが偉大な父親(=アガメムノン)の偉大な姿の裏には有害な男らしさ、恐ろしい面があったということを認知するというシーンが描かれる。この点は翻案における工夫点で、作品全体のテーマにもつながっている。

 対して、エレクトラ・コンプレックスと名付けられるほどのエレクトラの父親への深い愛情は、アンブルの場合はあまり描かれず、加えてクロエの連れ子で実の親子でもない。これは主役があくまでも男役である宝塚のシステムによるものも大きいと考えられる。このようなアンブルの復讐にかける動機の薄さが、弟を共犯関係にするため、共依存的な関係にするために復讐をしようともちかけているのではないかという考察を盛んに生む要因の一つのようにも感じられる。

友人―ピュラデスとヴァランタン

 本劇には、一見オレステス大親友で復讐を手助けするピュラデスは存在しない。ピュラデスは原作では、出番がほとんどなく、その他の上演でも省略される場合が多いものの、彼の励ましがオレステスに復讐を踏み切らせることになるため、ピュラデスがいない上演は配役の段階で母殺しが失敗すると考えてしまう。

 少々脱線したが、ヴァランタン(=聖乃あすか)は、素性には謎が多いものの、オクターヴと同様に復讐者であり、オクターヴに悪い遊びを教える仲間・共犯者のようでもあり、最後の復讐劇の目撃人のようでかなりピュラデスとの共通性がある。一方で、最後にはテロリストとして、家族の劇に介入してくる。既存のギリシャ劇を土台に存在しない新しいキャラクターを投入するというのは、まさに異物が投げ込まれるようなものだ。今回のヴァランタンとその佇まいは変化を起こしていくキーとなる役として非常に魅力的だった。

 

おわりに

 その他にもイネス(=イフィゲネイア)と父(=アガメムノン)が幽霊として出てくる演出の共通性や、拳銃自殺した父が血まみれなのにに比べて真っ白な衣装のイネスに関する一言、復讐の女神たち三人を男役も演じたこと等語りつくせないが、取っ散らかりそうなのでここで筆をおきたい。

 前回の忠臣蔵もそうだが、ギリシャ劇も三大作家の作品でさえ簡単に言えば神話を基にした二次創作であり、同じオレステスの復讐劇を扱っていても作家ごとに様々な解釈が存在する。今回の作品もそのような見事な翻案作品の一つであり、これからも更に様々な作品(二次創作含め)が増えることを願っている。