バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

宇宙空間の桜の園ーVinay Patel翻案『The Cherry Orchard』

マンチェスターHOMEシアターでの上演。二列目のほぼセンターで観劇した。前列も誰も座っていなかったので最前列ではあるが舞台をかなり見上げる形になるので見えにくい部分もあった。二年生向けの近代劇の授業の一貫で無料で観ることができた。無料チケットなのに全然申し込む人が少なく、不思議に思った。忙しいのだろうか。

homemcr.org

本題に戻ると、翻案はヴィネイ・パテル(Vinay Patel)、演出はキャリル・チャーチルの劇を多く手掛けるジェームズ・マクドナルド(James McDonald)だ。舞台上には円形の回転式のセットが組まれていて、大体回り続けている。中心の軸が何らかの操作盤がある。そこに、声のみの登場で、AIになったメイドのドゥニーシャが組み込まれている。

開演前の舞台の様子

理解できているか怪しい部分もあるが、宇宙船の中にも階級があって、舞台となってる場所の下に下級の一般の人達が暮らしている。宇宙の外に移住できる星が見つかったので、ロパーヒンは桜の園の木を切ってシェルターにするなりしてすぐにでもそこに行くべきということを提言するが、現在の生活に満足しているラネーフスカヤ達はあまり賛同せず…という筋だった。SF版にしたことで生まれる、上手い思いつきのようなものが所々に挿入されていて、特にロパーヒンが新しいキャプテンになったという事が、彼が曲を変えてとAIドゥニーシャに頼み、彼女が「はいキャプテン」と答えるということで示されているのはスマートだった(最初の場面でキャプテンじゃないと曲を変えられないという事が明示されていた。)

 

舞台全体としては、SFになったことでより喜劇的な要素が増していたように思う。例えばエピホードフがドゥニーシャに惚れているというのは相手がAIになったことで更に面白みが増しているし、フィールスが老人ではなく古いお手伝いロボットになったことで、彼のボケの痛ましさ、実際のおじいちゃんを想像してしまう感じが少し和らげられていたようだった。更に養女ワーリャというと堅物なイメージがあるが、この作品ではぶっきらぼうではあるもののかなりはっちゃけた激しい気性の女性として描かれていて、コミカルな部分もある。アーニャの恋人のトロフィーモフを嫌っているところが、彼とだけダンスを踊らなかったり、両手でfサインをしたりと表情と行動から明確に示されていたのが面白かった。また、彼女はトランプマジックをしたり、第二幕でニンジンを生のままかじるので、省略されたシャルロッタの面白い人格が少し影響しているのではないかと思った。もう一人の気性が激しい登場人物がロパーヒンで、最後の二人が結局別れてしまうシーンは熱海殺人事件並みの熱い演技だった。

一方でアーニャとトロフィーモフカップルはこのAIが中心にずっといる空間では完全に二人きりになることができず、NT版「桜の園」など以前見た上演よりも更にプラトニックだ。ワーニャが強烈な個性を発揮する中、アーニャの印象が薄い。

 

キャストは途中やって来る浮浪者役(宇宙服を着て外からやって来る)を白人女性が演じている以外は全員南アジア系だ。舞踏会では伝統的な踊りが用いられているのだが、長い間宇宙で過ごし、代を重ねたことによってその先祖文化や歴史というのは薄れているようだった。というわけで作品内でインドに関することが言及されることは特にないのだが、宇宙船の中にも存在する階級制や、イギリスとインドの植民、被植民の関係性の反転のテーマということが意識されているかもしれない。

 

回る装置も見事だが、差し込んでくる太陽の光など照明効果も美しく、ロパーヒンの昔の記憶という形で息子の映像が幕切れに使われる等、映像も効果的に使われていた。桜の園のト書きにかなり忠実な部分(エピホードフの音の鳴る靴、ワーニャはSFに不釣り合いな鍵の束をジャラジャラいわせている等々)と変化している部分(木を切る音がチェーンソーになっている、ドゥニーシャが踊れない代わりにロボットロパーヒンが舞踏会で踊っている等々)のバランスが面白く、これこそ翻案の舞台を見る楽しさという感じだった。

脱炭素演劇ーPigfoot 『Hot in here』ー

Pigfootというイギリスの脱炭素劇団(Carbon-neutral theatre company)の公演で、タイトルからも分かる通り気候変動を扱う作品だ。演出はHetty Hodgson (she/her) と Bea Udale-Smith (she/her)。

www.pigfoottheatre.com

 

気候変動を直接的に扱う劇は、シビウで観たFocus and Chaliwaté Companyの“Sunday”がコミカルでそれでいてテーマもしっかり表現していて面白かったのだが、今回の作品も例にもれず面白かった。教育的な目的の演劇として突き詰めていくと、子供を含めた多くの人に理解されるために少しポップなテイストになっていくのかもしれない。

 

この劇団は脱炭素を標榜しているので、もちろん当日パンフレットやチラシの類は配られないし、舞台のセットも段ボールだったり、木だったりでできている。舞台の下手奥にある円い装置には映像が投影され、その前方に東京フレンドパークの足で光を止めるやつ(フラッシュザウルスというらしい)みたいな装置があり、演者がこの上で飛ぶとその下に巻き付けてあるネオンのライトが光るという仕掛けになっていた。

開演前の様子



また、話の筋とは絡んでこないのだが舞台の下手側に手話通訳の人がおり、その人の手話がかなり雄弁で感情表現が豊かだったのでたまに目を奪われた。

 

話は大きく分けて導入部と、女性三人のそれぞれの生活が描かれる本筋、間に挟まれる各国の若者へのインタビューで構成されている。

導入部は、ペルーの神話、文明社会を表すワシと自然との共生社会を表すコンドルが一緒に飛ぶべきだという事が紹介される。この話は日本語調べた時も環境系のブログがヒットしたので、良く引用されている話なのかもしれない。そして、あまり知られていない初期の三人の環境活動家、Eunice Newton Foote, Benny Rothman, Hazel M Johnsonが紹介される。

続いて、舞台は2022年のイギリスに移る、三人の女性キャラクター、Alice, Stelle, Zeldaのそれぞれの生活が描かれ、俳優はそれぞれ自分がメインではないシーンでは脇役を演じている。AK Golding (they/she)演じるAliceはリサイクルセンターで働く一児の母で、仕事中に光るペットボトルを拾って、テレビのインタビューを受けるという妄想(?)を繰り広げる。Elizabeth Ayodele (she/her)演じるStelleはインフルエンサーでよくインスタ投稿やユーチューブ動画の投稿をしている。Keziah Joseph (she/they)演じるZeldaは映画製作者で、妊娠しており、おなかの赤ちゃんに話しかける。大きな筋としては、彼らが例えば熱波で飛行機が飛ばないであったり、実際に経験したであろう異常な暑さであったり、ハリケーンだったりを経験するというのが描かれる。Aliceの妄想のシーンであったり、Stelleが飛行機の問題の時にすぐにSNSに投稿するというのはとても面白く描かれているが、同時に最後のハリケーンのシーンでは三者三様に窮地に立たされ、問題の深刻さというのも描かれていた。

 

若者の環境活動家のインタビューは、場面の間に前述の本筋と少し関係のある話が挟まれる。様々な国の人々の証言が使われることで、世界全体の共通の問題だという事が分かりやすく示されていたと思う。

 

一番会場が盛り上がっていたのが、環境問題を解決する気の無いイギリスの歴代の首相をものまねをしながら戯画的に描くというシーンで、トラスまでは映像があったが、スナクは口頭で言及されるだけだった。観劇した日(11/3)の時点で就任から一週間と少ししか経っていないし、こんなに変更が必要だとは想像していなかったんじゃないかと思った。あとボリス・ジョンソンまでの人はあまり馴染みがなく爆笑の波に置いていかれた

 

話だけではなくて、ダンスや身体表現もあり、映像ありと盛りだくさんの舞台だった。最後には観客全員でウェーブをするように促される、凄い政治的な時間だ!と思った。

個人的には、Alice役のAK Goldingが信じられないくらいチャーミングで魅力的で最高だったので今後も注目したい。

上演後の様子、QRコードからは感想フォームじゃなく、公演資料にアクセスできる

 

完成度の高いヒップホップパフォーマンスーBoy Blue”Black Whyte Gray”(おまけにジャージーボーイズ)

授業でオススメされたこともあって、観劇した。歩いて20分くらいのHOMEシアターでチケット代は、2000円くらい。

Kenrick Sandy と音楽プロデューサーのMichael Asante によって2002年に設立されたヒップホップダンスカンパニーBoy Blueによる公演だ。全然知らなかったのだが、The Guardianの紹介記事によると、オリヴィエ賞をPied Piperという作品で受賞したり、オリンピックでも振付をしたり、イギリスの演劇界でヒックホップの地位を確立した偉大な劇団であるようだ*1

www.boyblue.co.uk

 

この作品は、2017年にロンドンのバービカンの劇場で初演されたもので、レパートリーとしてツアーで公演しているらしい。先月がブラック歴史月間だったので、その関係もあって上演されているのだと思われる。

 

上演を観ていくと、一時間半ほどのダンス作品で、場面はホワイト、グレイ、ブラックの三つに分かれている。場面に応じて、衣装やコンセプト、ダンスもシーンごとに少しずつ変化する。

ホワイトでは、白い衣装を着た三人のダンサーが登場し、ロックダンスと呼ばれる、停止を大事にするダンスとロボットダンスが融合したようなダンスを踊る。牢獄のような照明が当てられ、腕を後ろにするような振りから、監獄の中に閉じ込められているような雰囲気があった。

Grayは、背中ばいのようにダンサーが出てきて、カンパニー全体の8人で構成する場面だ。こちらのダンスは、足を蹴り上げるような振付やバク転があり、ダイナミックでアクロバティックな雰囲気だ。銃を構えるような動きがあって、戦争が想起させられた。

Blackでは、一人のダンサーが他の人達の前で何度も失敗するようなダンスが繰り返され、強い男性性が求められるということとその崩壊を描いている様だった。

 

全体的に小道具は使われず、その分スモークと照明効果というのが強調されていた。

特に、観てもらいたいのだが、スポットと全体照明が音楽と振りに合わせて切り替わるというのが何度か繰り返されるというシーンがカッコ良すぎた。思わず調光卓を見てしまった。また、ズボンや化粧に発光するペイントがつけられていて、照明が暗くなったら光るという効果もあった。

兎に角、ダンスに寸分の狂いもない、ハイパーテクニックという感じで、完成度が高かった。言葉では表しきれないし、後半に行くにつれ全然メモを取っていないので、チャンスがあれば観てほしい。

youtu.be

結構HOMEシアターのキャパは小さくて、しかも空席もあったので、客入りは多くない、200程度ではないかと思われるのだが、それくらいの小さな劇場でこの演目が観れるのは贅沢だと思う。

イギリス初の完全なるスタンディングオベーション

 

この次の週には、オペラハウスに「ジャージーボーイズ」を観に行ったのだが、席が後ろ過ぎたからか、ボーカルのフランキーが全く歌が上手いと思えなかったからか、隣の観客がめっちゃ歌うからか、特に一幕は全然楽しめなかった。

原作になったフォー・シーズンズの曲を聞くと、似せているという事は分かるのだが、その特徴的な声が受け入れられなかった。

二幕は隣一列の客が全員いなくなり(そんなことある?)、見やすい場所に移ったこともあり、知っている曲が増えたこともあり、一幕よりは楽しめたと思う。

日本でも同時期に上演されていたと思うので、曲を知らない人も多いであろう日本では同上演されていたのか、いつか観てみたい。

前方の一人が視界を遮っている図、舞台上方も傾斜がつきすぎてて全く見えない(トートの登場が見えないエリザみたいな)

 

ブラックミュージカルの間演劇性-『The color purple』-


ピューリッツァー賞を受賞したアリス・ウォーカーの1982年の小説を基にしたミュージカルで、1985年にはスピルバーグが映画化している。

劇場前のポスター写真

 

劇場はThe Lowryという大学からバスで30分くらいのところで、割引チケットで三列目を実際の値段の半額以上の3000円くらいで買うことができた。また、字幕がある回の上演でより理解することができた。毎回やってほしい。

The Lowry、BBCとかが近所に合ってキラキラ新興都市という雰囲気。

 

奥行きが半分位で、家のような形の高さのある二対の壁によって区切られている舞台。この壁がすごく圧迫感があって、明らかに家庭内に押し込められている主人公セリーの家に対する恐怖感だったり抑圧だったりを視覚的に示しているようだった。

三列目からの景色。壁の圧迫感…。

この壁は、映像も映せるようになっている。最後絶対取り払われると思っていたが、流石に動かせるサイズではなくて、壁の扉が大きく開かれただけだった。

舞台には進行役の女性シンガー達が三人いて、コミカルにテンポよく話を進めていく。

とにかく、子供の時から父親に性暴力を受けて、無理やり結婚させられた夫にも奴隷のように扱われて、暴力を振るわれて、妹からも引き離されて、辛いことしか起こらない。それだけでなく、彼女もそういう思想に慣れきってしまって、義理の息子ハイポに結婚相手のソフィアの尻に敷かれていることを相談されたら、(夫の監視下ではあるものの)家庭内暴力を肯定するような返事をして、ソフィアに失望される。 

ただ、夫の元彼女である、歌手のシャグ・エブリーが体調を崩して家に滞在し、友情関係を育む中で彼女は変わっていく。セリーのシャグに対する感情は明白に恋愛感情として描かれていて、新鮮だった。

 

彼女たちの関係は、最終的にセリーの仕事にもなる衣装によって示されている。良い関係性の時は二人ともタイトルの反対色であるオレンジを着ていて、別れる場面でシャグが紫っぽい服に着替えるというのは分かりやすかった。

 

授業で学んだ、間演劇性、インターシアトリカリティというのを考えてみると、大体少しずつ形は違うものの以前見たドリームガールズとほぼ一緒の型だということに観劇中に気づいた。というのは、主人公の黒人女性が苦境を経て成功を掴む、黒人男性が最悪な家父長制男、最終的に勧善懲悪で黒人女性が黒人男性を打ち負かすという一連の流れだ。観客のマジョリティは白人で、彼らがこの酷い黒人男性にブーイングをするのだが、そもそもの問題というか、白人と黒人間の差別が周到に隠蔽されているような印象を受けた。二作品を短期間で観たことで気づいたことなので、これがまさに間演劇性だと思う。

ダンスフロアドラマツルギー-OUTBOX『GROOVE』

OUTBOX『GROOVE』@CONTACT THEATRE(寮から徒歩三分くらい)

 Ben Burattaという演出家の元、2010年に結成された劇団で、“Outbox create spaces where queer people can dream and imagine”というキャッチコピーにもあるように、LGBTQの人々の出演する、彼らがテーマの作品を創っている劇団だ。

 今回の『GROOVE』は、クラブがテーマになっており、若者から老人のクイアな人々がクラブに集まるという枠組みで踊ったり、歌ったり、と明確な筋の無いシーンが続いていく。どのように理解すればいいか、ブログにまとめればいいか非常に難しい作品なのだが、彼自身がHIV/AIDSについて扱った前作『Affection』に関わる論文*1で、自身の作品を以下の三つのドラマツルギーを用いて説明していた。

「ダンスフロアドラマツルギー」:①クイアなダンスが行われる空間、②政治的社会的な空間、③劇創作のプロセスに通じるような劇的な空間(p.58)

「クイアドラマツルギー」:キャラクター、時間、場所などを固定せず、規範とされる表現に反対する。異なる創作プロセスで制作される等々

「バイラル(拡散的な)ドラマツルギー」:ダンスフロアで上演することで、普段演劇に触れない層にも広める(p.59)

(日本語翻訳はテキトーです、信用しすぎないでください…)

 

 これらの理論に基づいて、前作はダンスフロア、つまりクラブで上演していたものが、今回は作品のテーマ自体がダンスフロア、クラブになっていた。筋が無いシーンの連続での構成は、「クイアドラマツルギー」に基づいており、私たちも西洋演劇の伝統のような、従来通りの基準で評価するべきではないのだろうと思う。

配役:

Fraser Buchanan (he/they), ダンサー

Lavinia Co-op (he/she/they), ドラァグパフォーマー

A de Castro (they/he), クラウンなどのパフォーマー

Sky Frances (they/them), RADAの卒業生、プロデビュー作品

Jacob Seelochan (all pronouns),ダンサー

Kim Tatum (she/her)黒人トランス女性、女優、活動家

 

 舞台の話に移っていくと、舞台上は上下に階段のような、座ることもできるセットがつけられ、また、舞台中央から出ることができるようになっている以外は特に何も置かれていない。舞台奥の壁は映像を映せるようになっている。舞台下の右手からスーツを着た年老いたおじいちゃんという印象を受ける人(Lavinia Co-Op)が出てきて何かを探すようにしながら舞台上に上がっていくと、グルーブ感のある音楽が始まって、出演者が集まって来る。それ以降はずっと舞台はクラブで、Kim Tatumがクラブの主人のような感じで歌い上げたり、ローラースケートで滑走したり、Sky Francesが自由になることができるクラブへの愛着に関わる独白をしたりする。私たちを勇気づけるような明るいシーンが多い。

 印象的なシーンがいくつかある。まずは、ブロンドでピンクの可愛い服を着て、長髪という女性的な記号を纏っているJacob Seelochan、Fraser Buchananの二人が男らしさを見せるような、上腕二頭筋を隆起させるような振付をしながら、衣装を脱いでいって男性的な身体を見せるシーン。また、Lavinia Co-Opが登場から来ていたスーツを脱いだら青いワンピースになって、舞台上でドラァグのメイクアップをするシーンだ。こういう性別の記号を脱ぎ着して変身していくような、曖昧にするようなシーンは刺激的だった。また、A de Castroが観客をみて、こちらに「レズビアンレズビアントランスジェンダー…、あとへテロも」というような台詞を言う所はクイア版の綾小路きみまろかなと思った。

 ダンスは舞台上だけでなく、頻繁に客席で観客の周りで、観客を巻き込みながら行われる。やはり元々はこの作品も劇場ではなくて、クラブのような境界の無いより狭い空間で上演することが意図されていたのではないだろうか。授業ではこのようなダンスフロアでのダンスは即興的なもので、相手がいなくてもできるからヘテロセクシュアルの構造の外にあるものだと言っていた。私は本当にヨーロッパで過ごす中でクラブ的な空間が苦手だったのだが、この作品を見て良い部分をたくさん知ることができた。だからと言って行くことは無いと思うが…。

 

追記:

この作品かGECKOの『KIN』で英文2000文字以内のレポートを書くことになった。本当に先に言っておいてほしいという感じだ(記憶が曖昧なので)。いくつかの場面を抜き出して論じることになるので、Lavinia Co-Opに着目しようかと思うが、老いとドラァグについて考えると大野一雄とかとも結びついてくるなと思った。

 

劇場、メンバーシップに加入したので半額でチケットが買える(元を取れるかは怪しい)

 

*1:Buratta, Ben (2020) Dance-Floor Dramaturgy: Unlearning the Shame and Stigma of HIV Through Theatre. Theatre Topics, 30 (02). pp. 57-68.

移民をテーマにしたダンス作品 -Gecko『Kin』-

Geckoは、2001年に芸術監督のAmit Lahavによって結成されたフィジカルシアターカンパニーだ。イギリス全土や国際ツアーも行っている有名なカンパニーのようである。

 

今回の作品『KIN』(家族、親族などの意味)はイギリスのナショナルシアターの委託で作られた作品で、移民をテーマにしている。今回私が観劇したマンチェスターのHOMEシアターでの上演が初演だったようで、課題として出たある一場面の作品分析をするのに、レビューが全くなく、メモと記憶が頼りで大変心もとなかった。

www.geckotheatre.com

 

 舞台は、大きく分けて、入国を管理しているような役人たちと、青い服を着た人達と、赤い服を着た人たちで構成される。青い服の人達は、劇序盤に迫害され、背中に一本線を書かれる場面があり、四人ほどの仲間全員その一本線が服に書かれていることから、ホロコーストから逃れてきたユダヤ人を表現していることが想像される。赤い服の人達は、劇の途中に、壁を模したセットを超えてやって来た人々でアジアや南米にルーツを持つ人が多い。

 

赤青どちらの服を着た人も、入国管理局のような所では追い払われて入国することができず、移民として大変な暮らしを余儀なくされている。青の人がもともと住んでいたところに赤の人が押しかけてくることで、争いも起きるのだが、戦争によって最終的には皆ボートでまた新たな地を目指す。オープンエンドで彼らの航海が成功したのかどうかは語られない。

 

ことばで説明するとあらすじは簡単なのだが、場面場面がダンスで表現され、反復が印象的に用いられる。例えば、舞台は最初入国を管理している役人たちの酒を飲みながらのダンスで始まるのだが、その時はこの人たちが何者かという情報がないのでとても楽しそうに見える。しかし、青や赤の人を無下に扱うのを見た後で同じような場面が繰り返されると、自分の見方が変わったことに気づかされる。また、舞台奥に月か太陽のような円い舞台照明が出てきて踊るというシーンは、抽象的で、移民の様子なのか、新しい生活の希求なのか解釈が広がるのだが、青と赤それぞれで同じ場面が繰り返され、彼らの境遇が同一であることが示されている。また、最後のボートのシーンでは、青赤どちらの服を着た人も、全員がライフジャケットを着けて、同じ振付をする。しかも、入国管理の役人の人達もライフジャケットを着けて登場するので、誰もが移民になりうる、また移民の歴史が繰り返されることを示しているのかもしれないと思った。

 

印象的なシーンとしては、赤の人チームの一人が入国管理の役人にいじめられて、民族のアイデンティティーを示す帽子を奪われ、西洋風の帽子、ネクタイを着けさせられ、顔に白い粉をつけられるという明らかに人種差別を表しているシーン、また、祖先を表すようなパペットが出てきて、青赤同士の争いを止めようとするという、歴史から学べというようなシーンだ。

 

またGECKOという団体の特徴として、パフォーマーが様々なルーツを持っており、劇中でも英語以外のスペイン語、中国語などの様々な言語が用いられる。更に最後のシーンでは、それぞれ自身のルーツ、「両親が中国からの移民だけどイギリスで育ちました、今は○○で活動しています。」というようなことが語られ、誰もが移民になりうる、移民としての経験を歴史的に持っている、移民問題は他人事ではないというメッセージが強調されていると思った。

 

ダンスは躍動感があるし、音楽は美しいし、コメディ的な要素もあるし、盆回りはあるし、問題意識もあって、言葉が必要ないので、どこかの演劇祭に招聘されそうだ。授業で見ていなかったら見逃している可能性が高かったので、教えてもらって本当に良かった。

vimeo.com

劇場外観、歩いてこれる距離なのに友達とUberで来てしまった(みんな金持ち)

 

身体とジェンダーに関わるテーマ①SO LA FLAIR『HOW TO KEEP UP WITH THE KARDASHIANS』

 観た作品が溜まっていくばっかりで全然ブログを更新する時間が無い今日この頃、日本に来ている「スカーレット・プリンセス」チームのインスタグラム投稿を見ては、なぜ私は今日本にいないのかという気持ちになっています。日本は何故秋にばっかり劇を上演するのか、というか女王の葬式で現地での説明会が結局オンラインになったからそんなに早く来なくても良かったんじゃないか、市原佐都子の新作くらいは観てから行っても良かったんじゃないか…。まあ、日本にいても、東京に住んでないと結局そんなに演劇見れてなかっただろうと思って気を落ち着かせています。今回は、一年生向けの演劇学の授業の実習的なもので見た作品群の中でも、身体とジェンダーに関する作品(一つ目)の感想です。

 

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『HOW TO KEEP UP WITH THE KARDASHIANS(直訳:カーダシアンに追いつく方法)』 @Martin Harris Centre(大学の劇場)

上演前、奥にキム・カーダシアンのポスター

 この作品は、SO LA FLAIRというマンチェスター大学ソサエティ(サークル、クラブ活動のようなもの)出身の人達を中心としたアーティストグループによって作られた作品だ。コロナ前の2019年から創り始められ、今年のエディンバラ国際演劇祭のフリンジにも参加したらしい。

 タイトルは、自らの補正下着ブランドに「KIMONO」と名付けようとして炎上したことでも知られる、キム・カーダシアンを始めとする一家が出演する有名なドキュメンタリー番組「KEEPING UP WITH THE KARDASIANS(邦題:カーダシアン家のお騒がせセレブライフ)」を基にしており、実際に舞台上にも水着を着たカーダシアンのポスターのようなものがでかでかと掲げられている。しかし内容は、そのようなカーダシアンの番組や広告を通じて世の中に広められる画一的な美への懐疑であり、批判的に言及がされる。

 劇が始まると、七人の俳優が登場し、体を挑戦的に見せつけるような、キャバレーのようなダンスを行う。5歳から60歳位の女性やノンバイナリーの人にインタビューした自分の身体や美、アイデンティティーに関するインタビューを基に作られており、シーンの途中途中で、ボイスオーバーのような、俳優が音声に口を合わせる形で挿入された。また、それぞれ七人の俳優一人一人にフィーチャーするシーンがあり、実際に俳優と演出家が話し合いを重ねながら創ったらしい。例えば、鏡の前での経験だったり、ダイエットの話だったり、黒人女性が抑圧されるという話だったり、移民で美の価値観が変化したという話だったり、カウンセリングの話だったり、クラブの話だったりがそれぞれ展開される。かなり痛切でつらいような部分もあるのだが、それぞれのシーンで大体最後は、私の身体は他者に定義されないというような形で自信を取り戻す、パフォーマンスをするという形式になっている。コメディ的な要素も交えていて笑いもたまに起こっていたのだが、正直こういう話の筋が無くワークショップを通じて作られた作品はあまり予想もできず、何を言っているか分からないところがかなりあった。音楽も有名な番組やコマーシャルのミキシングみたいなものがされていたようなのだが、これもその背景を知らないので難しいなと感じた。

 フェミニズムや家父長制や資本主義と結びついた美の価値観への反抗はとても興味のある分野で、フラッシュを使ったパパラッチされているようなシーン、たばこを吸う、酒を飲む動きを使った振り付けなど個々のシーンは興味深いのだが、深く理解は出来ていないと思う。またこういう芝居は筋というものが無いため、異なるシーンの組み合わせという感じで散らばった印象を受ける。最後のシーンではアンバーの照明の中、一人が歌を歌うのだが、一回「I AM NOTガンダーラ」と聞こえてしまってから、頭の中がゴダイゴに支配されてしまった。本当に最悪な感想なのだが、このように自分の英語力のせいもあって消化不良のまま終わってしまったという感じだ。

 上演後に俳優、演出家、スタッフを囲んでの質疑応答があった。今までの感想でも述べてきたような、創作の背景やプロセス、作品の意図などが話された。まず俳優が名前を言ってから「I pronounce she/her, they/them」などと言うのが印象的だった。その後も友達同士でもそのような自己紹介があるので、こっちではもうそれが一般的になっているようだ。また、公演ごとのアドリブ、変更はあるかという質問で、フランスでの上演では客のほとんどが白人男性で劇場が静寂に包まれたというのが、容易に想像されて面白かった。

 

これはフェミニズムだったんだ‼パレスシアター『ドリームガールズ』

 大学から歩いて行けるマンチェスターパレスシアターには、ブロードウェイやウェストエンドでも上演のある大型ミュージカルのツアー公演がやって来る。今公演しているのが、来年日本でも日本版で初上演される『ドリームガールズ』だ。

パレスシアターの外観、一見ライオンキングをやってるのかと思ってしまう

 

 梅田芸術劇場で多分『メリー・ポピンズ』を観た時に、『ドリームガールズ』が上演されるという特報チラシを貰ったときも、今パレスシアターで上演されているのが『ドリームガールズ』だと知った時も少し古い作品すぎないかという考えが頭をよぎっていた。というのもミュージカルの初演が1981年で有名な映画化も2006年である。

 

 しかし、作品、特にミュージカル版を見るとテーマは全然古くないことに気づいた。観客の歓声と演出のおかげで、めちゃくちゃフェミニズムであることに気づいたからだ‼。

 

 『ドリームガールズ』全体のあらすじは省くが、とにかくソウルフルなボイスを持つエフィが元々プロデューサーのカーティスと恋愛関係にあり、グループでもセンターを務めていたのにも関わらず、カーティスが大衆の人気を獲得するために容貌のいいディーナをセンターに変更する。エフィはその変更が気に入らないことや体調不良(実は妊娠)によって悪い態度を取ったことでグループから追い出される。エフィの脱退後、彼女たちはスター街道を更に上り詰め、カーティスは特に注目を集めるセンターディーナと付き合い始める。

 

 このカーティスが悪い男で、エフィを捨てるし、ディーナは商品としか見てないし、悪事にも手を染めまくりなのだが、こちらの客席では、カーティスが彼女らに酷い態度を取るたびにエエとかハ?とか日本ではほとんどの観客が心の中に留めておくであろう感情が外に出る人が多い。そのような声で観客が一体となり、最終的にエフィがカーティスに言い返すところやディーナがカーティスに別れを告げる所では、激しい歓声とともに「Yes!!!」「よくやった!」というような野次が飛び交い、左前方の客はガッツポーズをして、カーティスにはブーイングを飛ばし、その場面は彼が絶対悪の勧善懲悪物を見ているようであった。

 

 また、映画版を予習で見ていたのだが、映画では短い会話のシーンだけで終わってしまうエフィとディーナの仲直りの場面にミュージカルではナンバーがあり、二人のデュエットが繰り広げられる。舞台上も観客のボルテージも最高潮で二人の絆というのがより強調されていた。その後の解散コンサートで歌われる主題歌のDreamgirlsは、映画でもミュージカルでも大きく盛り上がる感じはなくパッとしないし、エフィの登場も特に演出されずただ下手から出てくるだけだったので、仲直りのシーンがクライマックスで解散コンサートはエピローグという感じだった。

 

 まだまだセンサーの鈍い私は、これらの演出や客たちの反応によって、「あ、これは女達が自立し、友情関係を回復する話だったんだ」と気づいたのだった。

 

 ミュージカルとしては、ナンバーとナンバーのつなぎ方がかっこよくて、ダンスがアクロバティックだった。作品としてはどう考えてもエフィが主役という扱いで、エフィを演じるNicole Raquel Dennisの声がソウルフルだった。特に一幕終わりの“And I Am Telling You I'm Not Going”と再起をかけた“One Night Only”は圧巻だった。

 

 不思議なのは、あんなに盛り上がっておいて、カーテンコールはスタンディングオベーションをしないどころか拍手もせずにみんな結構帰ってしまうということ。それまでにも途中退席する客は結構いたのだが、直前まであんなにガッツポーズをして、感情移入して観ていたお客さんたちまでもがするするといなくなってしまうのがカルチャーショックだった。

 

https://www.manchester-theatre.co.uk/theatres/manchester-palace-theatre/dreamgirls.php(公演情報)

Atri Banerjee演出・ロイヤルエクスチェンジシアター『ガラスの動物園』

 マンチェスターに交換留学にやって来て絶賛言語の壁にぶつかっていますが、演劇のおかげでギリギリ元気にやってます。日本では全然書かないのに海外行った時だけブログ書くやないかと思われそうですが、ただの備忘録・感想でもあまり日本語で記録が残っていない公演だと面白いかなという一心なのでゆるしてください‼

https://www.royalexchange.co.uk/whats-on-and-tickets/the-glass-menagerie-2022(公式サイト)

https://www.theguardian.com/stage/2022/sep/08/the-glass-menagerie-review-royal-exchange-manchester(ガーディアン紙の劇評)

https://www.whatsonstage.com/manchester-theatre/reviews/the-glass-menagerie-at-royal-exchange_57320.html(WhatsOnStageの劇評)

 

 日本でも新国立劇場での招聘公演が決まっているテネシー・ウィリアムズ作の『ガラスの動物園』。昨年も上村聡史演出、岡田将生主演で行われた上演を観ていたので比較する部分も多かったが、上村版が原作の時代感に沿ってリアリズム的に作ったとすれば、新進の演出家Atri Banerjee版は現代により近づけていて、ほとんどセットが無い抽象的な舞台だった。

 ロイヤルエクスチェンジシアターの円形の舞台の中央にはアパートの外にあるクラブの“PARADISE”の文字がセットとして置かれており、冒頭にトムがライターで火をつける動作をすると反時計回りに回り始める。その後は、トムと母アマンダの口論のシーンになると回転が速くなったり、日が暮れたら白から暖色になったり、停電したら消えてしまったりと作品に呼応しながら回転し続ける。この大きなネオンサイン以外には、舞台と観客席を分けるように等間隔においてあるスピーカーと四脚の椅子以外はほとんどセットが無く役者も時計回りか反時計回りかで動きながら演技をする感じだった。

PARADISEのネオン

 印象的だったのは、ローラ役のRhiannon Clements、ビリー・アイリッシュのような格好をした現代の若者というような雰囲気で、一幕ではかなり母親に強気に言い返しているように見えた。原作では足を悪くしているという設定だったが、そのような演技は無いので不思議に思っていたところ、二幕で袖の短い服を着た時にはじめて彼女が左腕を欠損していることに気づいた。結構強気な印象だったのが段々段々弱さを見せていくような感じで、一幕の最初の雰囲気からすると、ジムに恋しているのが奇妙に思えるような感じでもあった。

 また、一幕でトムがローラに与えるスカーフがレインボーで、抽象的なほぼ色のない舞台ではこのレインボーが強烈に印象を残した。2019年の文学座の公演でもスカーフがレインボーだったというのを北村先生のブログ(https://saebou.hatenablog.com/entry/2019/06/29/171430)で読んでいたので、トムもしくはローラがLGBTQであるという解釈が広くなされているのだろうかと思った。今回の劇では、ローラがその後レインボーのスカーフを着けているので、彼女が異性愛規範に収まらない女性だということにトムが気付いていることの示唆かと思ったが、脚本には手を加えられていないので、劇はそのまま彼女がジムへ片思いしていたという話につづいていく。しかし、もしそうだとしたら、母親の結婚しろという圧力はよりつらいだろうなと感じた。

 

 その他の配役は、アマンダ役がハリーポッターシリーズでハリーの母親のリリー役をしたGeraldine Somerville、ローラ役が、トム役がJoshua James、ジム役がEloka Ivo。やはりアマンダはかなり強烈で、客席は笑いもかなり起きていた。

 上演前に女王への一分間の黙祷あった。3割くらいの観客は立っていなかった。

10年に一度の受難劇inオーバーアマガウ 'Passion Play' 感想

 7/7、七夕の日にオーバーアマガウの受難劇を観てきた。

例によって無事ここまでたどり着くのに必死であまり予習できておらず、今までの知識の蓄積とコロナ禍にオンラインで観たジーザス・クライスト・スーパースター、ヨセフの不思議なテクニカラー・ドリームコートといったロイド・ウェバー作品を思い出しながら観ることとなった。

 

 場面はキリストの最後の七日間に関わる話が進んでいく物語のパートと、黒い衣装を着た人たちの合唱シーンという二種類に大きく分かれていて、大体交互に進んでいく。合唱パートではソロに移った時に舞台奥がもう一つの額縁舞台のように開き、前述のヨセフだったり、モーセの話だったり、宗教画の再現のようなものが挿入されて、見どころのような感じになっていた。

 

 前半は14時半から始まる。登場する人物の多さでスペクタクルさを表現して来るのが力技感もあるが、子供たちはかわいいし、キリストはロバに乗って出てくるし、オーバーアマガウの宣伝を観た時によくでてくるこの入場のシーンには感動した。(このシーンのマグネットが欲しかったが、高い価格設定の場所でしか売ってないし、結局買えずに少し後悔している。)ロバ以外にも、上演では馬、鳥、羊、ラクダ等沢山動物が舞台に登場するが、それだけでも興奮してしまう。

その後、キリストがマグダラのマリアを救ったり、商人を追い出したり、色々あって第一部の最後は最後の晩餐だった。

 

 第二部は長めの休憩を挟んで20時から、裏切り者のユダの後悔とキリストの処刑、復活の匂わせなのだが、ユダの後悔は、比較的に丁寧に描かれていたように感じた。この部分の演出は時代や他の作品の影響を受けるのかもしれない。

 また、キリストがいたぶられるシーンがかなり延々と続くのが、クリスチャンではない私でも非常に可哀想に思えた。10ユーロという高値でブランケットを買ってしまうくらい、寒い会場でずっとほぼ裸のような状態で耐え、磔にされた状態で震えることなく死体として存在し続けるというのはかなり大変なのではないだろうか。キリスト役に関しては演技力以上に体力と忍耐力が必要な役だと感じた。

 ただ、キリストが磔で処刑されてしまってからエンディングまでは盛り上がるというよりも二人のマリアの哀しみ、監視のローマ兵の場面など粛々と進んでいって、5時間ほどの上演時間で疲れも蓄積していたのであまり集中して観ることができなかった。光を放ちながら復活して来たりするのかなと期待していたのだが…そういう復活場面は具体的には描かないことで想像を膨らませるというようなものなのだろうか。

 

 そのような奇跡に関する特別な演出はあまり無かったが、最後の晩餐やユダの後悔の場面で激しく雨が降ってきたり、キリストが父なる神に話しかける場面で雨が降っているのに日も差してきたときには、自然の不思議な力を感じた。

 終演は22時40分くらいで、カーテンコールが全く無いことに驚く。ほとんどの公演でスタンディングオベーションが起きるルーマニアを経験して、ヨーロッパはスタンディングオベーション文化なのだなと思っていたが、先日のドイツはオベーションところか1回のカーテンコールででほとんどの客が出てしまっていたし、色々国とか地域の特徴が出ていて面白い。

ともかく、客席からの退場もスムーズに進み、終電に間に合ったことに安堵しながら、宿泊地へ。

めちゃくちゃ夜に戻って、朝すぐに出発するのにホテル代が高い‥‥ドイツ二日目、そして観劇三昧の日々終了。

ミュンヘンとルートヴィッヒ二世の城をめぐった後、今またルーマニアにいます。