バナナの木

演劇学を学ぶ大学四回生です。自分の勉強のために観劇の感想を書こうかと思っているブログ

ウェストエンド観劇②ー『Best of Enemies』・『HEX』―

こう思い返してみると、前回の『Wicked』、『RUINATION』に続き、『Hex』と魔女物を観ることが多い今回の観劇旅行。課題にかかりきりになって全然ブログを書く時間が取れなかった!ということで、曖昧で簡単なブログになります…。

『Best of Enemies』in Noël Coward Theatre

ジェームズ・グレアム作・演出のアメリカ政治劇で、Young Vicからウェストエンドにトランスファーした上演。

好評ということを聞いていたし、かなり楽しみにしていたのにも関わらず、

①見切れ席、②満腹、③ポカポカ温かい、④予習不足、⑤政治劇で英語が難しいという複合的な要因のせいで途中一幕では逃れられない眠気が襲い掛かった。しかし、その眠気の中でも、ビジュアル的な要因、映像の使い方や、照明のネオンっぽい照明が額縁舞台を強調し=TVのように見せている所、二階建て構造になってて、TV局のマスター室になったり、映像がそこに映し出されたりする装置などは楽しむことができた。この二階建てのセットNTLiveで観た『メデイア』に似ているなと思ったが、同じデザイナーというわけではなかった。

二幕では正気を取り戻して、話の筋、保守派のWilliam F. Buckley JrとリベラルのGore Vidalが、TVで生放送されている討論の場でどんどん相手を挑発する方向に進んでいって、とうとういうべきではない罵倒をしてしまう、そのような過激さを加速させてしまうTVというメディアの在り方考えさせるというような流れは掴むことができた。今回の反省は日本でもよくやっているのだが、金がないからと言って見えにくい一番安い席だと集中力を失うということだ。とはいっても金がないので今度観に行くミュージカルも軒並み最安席を取っている。当日券で上手く見やすいチケットを手に入れるというのが良いのかもしれないが運の要素もあるし、難しさを感じている。

 

『HEX』in National Theatre

開演前の舞台の様子

皆さまお馴染みナショナルシアターのオリジナルミュージカル。「眠れる森の美女」の物語をベースに、彼女を眠らせてしまった魔女に焦点を当てている。実はこの魔女は妖精の世界の中では、羽の生えていない落ちこぼれなのだが、ひょんなことからお城の使者に、あまり眠ってくれない赤ちゃん王女を眠らせる魔法をかけるように頼まれる。最初は快諾するものの、王女自身が望んでいないため魔法をかけようにもかけられず、周囲に侮辱された彼女は王女に呪いをかけてしまう。この呪いによって全ての魔法の力を失い、彼女は深く後悔する。王女を目覚めさせる王子を探し出すが、人間の王子たちは行く手を阻む棘によって同じく眠らされてしまう。偶然食人鬼がこの棘に抗体を持つことを発見した魔女はこの食人鬼が腹に宿している男の子を成長させて、王女を助けてもらうことを画策する。魔女は自身の子供を食べそうになってしまう食人鬼に食欲がなくなる魔法をかけたと偽り、王子も無事成長する。城に向かった王子はキスによって王女を眠りから覚まし、彼らは結婚、子供も生まれる。しかしながら、助けてくれた恩人だと思っていた魔女が実は呪いをかけた張本人だという事、王子の母親が食人鬼であることが判明し…。という話だ。

例によって、直前まで予習をしておらず、客席で急いであらすじを読み始めたが、サイト上のPDFが内容を詳しく説明してくれていたので非常に助かった。眼鏡をかけているので使わなかったが、字幕を表示できるグラスのようなものもロビーで貸し出していた。かなりサービスが手厚いのはさすがだと思う。

道具や装置、照明のレベルの高さはさすがのナショナルシアターで、幕開きから、三人の魔女が天井からつられて降りて来るのだが、裾の長いドレスとそのドレスに映像が投影された様は非常に美しかった。歌も音楽もすごくコミカルなナンバーが多く、面白かった。ただ、食人鬼というのは今まで見たミュージカルや演劇を観てきた中でもあまり見ることのないキャラクターだったので、そもそも食人鬼ってなんだという引っ掛かりがあり、ストーリーも上手くできているというよりはよく思いつくなという感じである。また、魔女や食人鬼、王女のシスターフッド、母親の大変さ的な童話の語り直しだとは思うのだが、王子のキスでめざめるという王道の部分がそこまで変更されていないのが意外だった。直ぐに子供が生まれるのだが、16歳のまま眠ってしまっているのでかなり若年出産だな…とか子供と母親代わりと言ってもまだまだ精神的には幼い魔女しかいないけど大丈夫かなとか考えてしまった。

また、食人鬼の住む森の家のシーンでアンサンブルが灰色の袖長めの服を着ているシーンがあり、全体的に森のセットになっているのだが、プルカレーテの演出するファウストのアンサンブルや、野田版『夏の夜の夢』の美術や世界観に近い雰囲気を感じた。題材によるものかもしれないが…。

youtu.be

観劇前に路上で観たET、

 

 

ウェストエンド観劇①ー『Wicked』『One Woman Show』『Ruination』ー

初めてロンドンに行ってウェストエンドで観劇してきた。完全に観光モードで観劇中のメモもあまりしなかったので、このブログもただの思い出語りになる可能性が高いがせっかくなので書いていく。

『Wicked』

開演前の様子。当日券なのに意外といい席。

 当日の高速バスの中で、Today Tixでチケットを取った。Today Tixは毎日10時からその日の当日券を25ポンド位で安く販売してくれるし、アプリで全て管理できるのでオススメだ。その日は正直、『The Book of Mormon』を狙っていたのだが、先着順に敗れ、マチネがあり興味のあった『Wicked』を代わりに取った。ただ、興味があるといっても、小学生の時に劇団四季で見ていて大体知っている感じがしたし、新しいミュージカルでもないので安くはないチケットを買うまでにはかなり逡巡した。

 迷いながらも買って、近くのウェストミンスター寺院やバッキンガム宮殿の周りをウロウロした後、14時半からの公演を観にTHE APOLLO VICTORIA THEATREへ向かった。まず、ウェストエンドは初めてだったので、あの劇場自体が公演の雰囲気に染まっている感じが新鮮だった。あらすじは省略するが、『オズの魔法使い』の前日譚で西の悪い魔女エルファバが主人公になっている。今後の全てのパフォーマンスに共通することだが、舞台セットや照明効果は概してレベルが高い。専用劇場ということもあってか、意外と狭い舞台上にこれでもかというほど装置が仕掛けられているようだった。

 また、小学生で観た時はもちろん気づきようがなかったのだが、特に多国籍社会のイギリスで、様々な肌の色の俳優がいるステージを見ると、緑の肌をしたエルファバは、人種的なマイノリティを示しているという事は改めて強く感じた。エルファバ役のLucie Jonesの力強い歌声が良かった。

 一方で、段々変化していく部分が舞台の胆ではあるものの、善い魔女グリンダはステレオタイプ的なおバカなブロンドといったキャラクターで全然好きになれない。また、羽の生えた猿を全員肌が黒い俳優が演じるのはいいんだろうか、考え過ぎだろうかと思った。話を知っているミュージカルだとどうしても感動するか否かが演者の歌声や当日の客席の位置に大きく依存するなと感じている。

『One Woman Show』in the ambassador theater

劇場外観の様子、右手が「ねずみとり」の劇場。

それにまつわるジョークもあったが、アガサ・クリスティの『ねずみとり』がロングランで上演されている横の劇場。

Liz Kingsmanが創り、自身で演じている一時間ほどの一人芝居で、フリンジ公演などで話題を集めてウェストエンドにトランスファーされたらしい。

メモを取らなかったせいで、細かい部分をすっかり忘れてしまった&劇評を読んでみても一部ピンとこない、つまり英語力不足で全てを理解できていないので簡単に触れることにする。劇は、異化効果だろうか、メタシアター形式になっていて、スタッフのような人物が舞台に上がってきたりハプニングが起こる。『フリーバッグ』のパロディで、一人芝居で演じられる主人公は現代を生きる、しかも性格のかなり曲がった問題を抱える女性である。大枠はジョークを挟みながらコミカルに彼女が自身の生活について話していくというものだ。こういうコメディは理解が追い付かないところが多いので、笑えるところもあれば、頭にもやがかかったような状態の場面もあるという感じだが、最後の視覚的効果は私でもわかる面白さで満足したような気分になったので、私は本当に単純な人間だと思う。また、今作品のような元々小劇場で上演されていたようなものでも、装置や照明効果が洗練されていた。

 

『Ruination』in Royal Opera House

劇場外観。

この旅の一番の目的がこの公演だ。元々一月に行く予定で宿をとっていたのだが、エウリピデス『メデイア』の翻案作品であるこの作品がかなり評判が良く、12月末までだったので、急遽12月中にもロンドンに行くことを決めた。Lost DogというBen Dukeが芸術監督を務めるダンス、コメディ、演劇を中心としたパフォーマンス劇団による公演。

話の大筋としては、冥界にいるハデスとペルセポネーが、やって来たイアソンとメデイアを裁判にかけて、彼らの証言を確かめていくという裁判劇形式のメデイアという感じだ。一番大きな改変は、メデイアが徹底的に人間として描かれていることで、魔女や神的な要素は捨象され、最後の自分の子供を殺したということも本当はやっていないんじゃないか、イアソンの結婚式でメデイアが新妻を殺した(これもメデイアの陰謀ではなく夫に嫌がらせしようとして塗ったピーナッツバターに彼女もアレルギーがあって死んだことになっている)と思い込んだ大衆が彼等を殺したんじゃないかという解釈が示されることだ。

メデイア=人間とする解釈は良くあるし、イアソンがメデイアにDVなどハラスメントを行っていたというのをある種、告発するような話になっているのでフェミニズム的でもある。一方で、私個人の好みとしては、メデイアは魔女的に力を持っていてほしいし、復讐のために子供を殺してもいいし、最後には竜の車で天高く跳びあがってイアソンをコケにしてほしい。というのは、人間メデイアにしてしまう弊害として母性愛的なテーマになってしまうということがあり、今作もその轍を踏んでいたからだ。最後まで子供を守る母、子供を殺さない母、冥界にわたっても三途の川を渡れない子供を案ずる母というのはまあいいのだが、そういう母親像を望んでいるんだろうという男の製作者の願望が透けて見えてキショという気持ちになる。

後半の話に入るまでのハデスの面白いキャラクターや、クリスマス劇「くるみ割り人形」のジョーク、冥界に新しい登場人物が登場したらピンクの紙吹雪が飛ぶシュールさ、コンテンポラリーダンス、手前に四つ重ねてあるブラウン管テレビ、照明、装置、対位法的な音楽の使用、等々、演出・パフォーマンス全部よく、中盤までは良い翻案作品を観れたという気持ちが強かった。その分、終盤に向かうにつれ発狂しそうになり、光の中、メデイアがしっかりと「歩いて」来世へと向かっていく最後の場面では、「うわーやめてくれー」と叫びそうになった。

一番楽しみにしていて評判も良かった作品が、もやもやする結果で終わり、SNSで呟くほか上手く気持ちを処理することもできず、悶々とした。他の劇評も普段は参照するし、上演前には観ていたのだが、大絶賛の嵐だと逆に怖くなるので見られていない…。ここに貼っておいてまた落ち着いたら冷静に分析したい。

www.theguardian.com

www.timeout.com

 
 

交換留学記:Dramaコースの授業振り返り in イギリス

2022年内に終わらせられなかったが、せっかくなので一学期で受講した授業を簡単に振り返りたいと思う。

私は、交換留学の一年のプログラムでマンチェスター大学に通っており、特に演劇学の授業をとっている。三つの授業だけの限られた経験であるものの、このような情報共有ブログに助けられてきたので、私もどのようなことを学んだかシェアして行きたい。

 

1.演劇とパフォーマンス(一年生の必修)

1-3. Pretext, performance text,

演劇学の基礎的な理論、テクストについて、シーン分析の方法等

4. Ancient Greek Tragedy

古代ギリシャ劇-「アンティゴネー」

5. The Island (Fugard)

アソル・フガードの ”The island”(アンティゴネーの翻案)

7. Revenge Tragedy(The revenges tragedy)

復讐悲劇「復讐者の悲劇」

8. City Comedy (A Chaste Maid in Cheapside)

都市喜劇「チープサイドの貞淑な乙女」

9. Serious Money (Churchill)

キャリル・チャーチルの "serious money"

10. Victorian Melodrama (The Octroon)

メロドラマブシコーの"the octroon"

11. An Octoroon (Jacobs-Jenkins)

"the octroon"の翻案作品

12. Presentation preparation

火曜日の授業。1時間レクチャーと呼ばれる先生の講義があり、その後15人くらいに分かれて1時間半のセミナーと呼ばれる討論の授業がある形式。

授業は、then/there, here/nowという形で、古典を基にした最近の上演がどのようになされていくかを見ていく形式。古代ギリシャ劇やチャーチルなど自分の興味関心にもかなり近い題材が多かった。w4とw5、w9とw10、w11とw12は翻案や同じテーマを扱った新旧作品という感じで対になっている。

予習は、戯曲や研究論文を読んで、たまに質問が出ている時はそれに対する準備をしていかなければならない。授業内でグループプレゼンテーションがあって、その週のテーマになっている作品の最近の上演の情報、批評などについて分析するというものだった。私はw5のアンティゴネーの翻案作品のThe Islandで発表をした。

課題は、授業の一環でみた、二つの劇ーgeckoの『Kin』、もしくはoutboxの『Groove』での作品分析2000文字と、15分のグループプレゼンテーション(取組中)

セミナー担当の先生Kateの英語が私の英語力の問題もあるが小声で早口なので聞き取りにくいところがあり、しかも20分で調べて発表みたいなことを授業内に課してきたりするので授業前には緊張することが多かった。でもこの先生がフェミニズムと古典の研究者でキャリルチャーチルについても研究しており、一番私の興味関心に近いので何とかがんばりたい……。

 

2.演劇と近代化(2年生の準必修)

1.都市と大衆文化について (日本の歌舞伎やストリートパフォーマンス、パリの見世物芝居)

2.帝国主義とスペクタクル(インドのパルシ劇場とイギリスのメロドラマ上演)

3.自然主義、伝統と変化(ゾラの自然主義理論とチェーホフ桜の園」)

4.社会改良と全体主義マリネッティのイタリア未来派、メイエルホリドと構成主義イプセンの「人民の敵」)

5.フェミニズムとサフラジェット劇(サフラジェット劇、中国のフェミニズムと越劇)

7.アジプロと労働者演劇(スペインのアジプロ劇、

8.アジアとヨーロッパの出会い(ブレヒト「セチュアンの善人」、異化効果、中国の革命バレエ)

9.ポストコロニアル演劇(エジプト演劇、アラブの演劇、ストライキで授業なし)

10.暴力と戦争(アルゼンチン:Griselda Gambaroの劇, ミリグラム実験、グロトフスキ「アクロポリス

11.グループプレゼン

12.15分の先生との面談

 

木曜の授業。同じく一時間の講義に一時間半の少人数討論クラスだが、二年生だからか授業に参加している人数が少なく、元々15人くらいいるはずなのに5人しかいないような時もあった。人数が少ないと、グループワークというより先生との対話に近くなるので、ちょっとついて行くのが難しい瞬間もあった。ただ先生がめちゃくちゃ面白くて、英語も分かりやすくて、優しいこともあり、この授業が一番楽しかった。

詰め込み教育という感じで、どんどん色んな19世紀から20世紀頃の各国の演劇が紹介されていく。戯曲+いろんな人の理論を一回の授業で学ぶので、予習がめちゃくちゃ大変ではあった。「西洋演劇論アンソロジー」を持ってきたのは我ながら素晴らしい判断だったと思う。全世界的なつながりとか、挙げられている演劇形態の関係性を解き明かしていくというのは面白かった。

課題は15分のグループプレゼンテーションで、この授業のテーマの一つである、一次資料を基に発表するというものだった。この授業で仲良くしていた友達?二人と歌舞伎『三人吉三』の初演の錦絵で発表した。波乱も少しあったが、初演の『三人吉三』がどのような衣装だったか等、知らないことばっかりで調べるのも楽しかった。

また、最終的な課題が3500文字までのレポートで、イプセンの『人民の敵』の上演について書く予定だ。

 

3.アートと映画(一年生の必修)

1.映画史

2.撮影様式、モンタージュ

3.ミザンセーヌ

4.物語

5.作家理論

7.ジャンル

8.映画音楽

9.スター

10.観客

11.アダプテーション

12.クリスマス特別授業、エッセイの書き方

 

映画の基本的な理論をさらって行くような授業。授業形態は今までのものと同様。毎回予習で二本映画を観て、質問の答えを準備しなくてはならず、更にリーディングが50p以上で少し多めに課されていたのでかなり重たかった。しかも、セミナーの授業は、中国人の友達一人以外は、西洋の映画オタクの集団という感じで、バズ・ラーマンとかスパイダーマンとか色々ですごく議論が盛り上がる。私は、勉強不足や西洋の映画に疎いことがあって、そういう会話にはついて行けないので、毎回授業終わりに中国の友達と反省会をして愚痴を言い合うというのが定番だった。映画について勉強できたのは面白かったが、前提知識が少ない領域を英語で初めて勉強する難しさを感じた。

課題は、コース内の映画のシーン分析1500文字のエッセイと、コースに関するお題に関わる期末エッセイ2500文字。映画は新しく勉強することばかりなので、日本語でも知識が補完できる黒澤明の「用心棒」と時代劇のジャンルについてで書いている。

 

全体として、コースの担当が三人以上おり、相談しやすい環境が整っている部分や、エッセイの点数が出て、細かく添削を受けることができるのは日本の大学でも真似してほしいと思った(金がないので無理だろうが)。ただ、かなり生徒の自習に任されている部分も大きく、出席点がないからか授業に全然来ない人もいる。私は、交換留学で来ていてイギリスの高額な授業は払っていないが、元々留学生だけ二倍以上の高い授業料が設定されているのは良い気持ちがしないし、その授業料を三年間、計1000万円近く払うだけに見合っているかと言われるとそこまでではないかなと感じた。ただ、日本には演劇学を学べる大学は少ないし、在籍する研究者の数はケタ違いなので、卒論とかの段階になったらまた違うかもしれない。それにしても高すぎるが…。

交換留学に更に奨学金ももらっていることに感謝しながら来学期も頑張りたい。

現実と悪夢の混濁-ナショナルシアター『The Ocean at the End of the Lane』

ニール・ゲイマンの小説を原作にした作品。ナショナルシアター制作で、2019年に初演したのち、現在ツアー公演を行っている。私はソルフォードのThe Lowryで14日と16日の二回観劇した。

二幕開場前の舞台

 

物語は、中年の主人公が父親の葬式で故郷に戻り、昔の家を訪れる所から始まる。そこで、仲の良かった少女レティの家を訪れ、レティがアヒル池を「Ocean」と呼んでいたことを思い出すと、思い出が次々蘇ってくる。子供時代、母親を亡くし、父親、妹と暮らしていた主人公は、読書が好きで、内向的な性格だった。父親の車の中で自殺していた人、その車の中に放置されていた誕生日プレゼントのグローブ、不思議な力を持つ少女レティとその母親・祖母…。主人公は、レティと親しくなり、一緒に過ごす中で昆虫のような怪物(フリーク)にも遭遇することになる。戦いの末、レティが倒したものの、怪物の攻撃でけがを負った主人公の体の中にその怪物は入り込み(?)、新しい父親の恋人として家にやって来る。当然恐怖を感じ拒絶する主人公だが、父親はそんな頑なな主人公を𠮟りつけるばかりで…。という感じで、ネグレクト気味で暴力をふるう父親、新しい女性の登場などの現実と、子供時代の悪夢が混ざり合うような感じで、ファンタジーの世界観が作られていた。

 

電飾のつけられた森のような木、LEDライトで四角く光る家の扉など、シンプルなのだが装置がどれも美しく、調和していて世界観を作り出していた。アンサンブルの黒いワイシャツを着たコロスたちの操縦する怪物の大きな人形も迫力があるし、波布も何の材質で作られているのか不思議なくらい綺麗にたゆたっていた。

 

子供の頃の不思議な悪夢とか、大人の気持ちが分からず、すべて陰謀のように感じてしまうというのは誰しも皆経験あることなのかもしれないが、私も例外なく、主人公に共感できた。父親の新しい恋人というのはどうしてあんなにも恐ろしい、相いれないものように感じてしまうのだろうか。ニール・ゲイマンが自分の子供時代を書いたそうだが、私の子供時代を書いたと言われても驚かないくらいだ。

 

最後にハンガーバードと戦ったレティは主人公を守って別の世界に行ってしまう(死んでしまう)。レティの母親は主人公の記憶を消し、レティはオーストラリアに行ったということにするのだが、主人公は以前も何度かこのレティの家を訪れ、思い出してはまた記憶を消されているという事が示唆されて終わる。

 

この主人公は少年時代と中年時代の俳優が異なり、中年時代の俳優(Trever Fox)が少年時代の時は父親役を演じているのだが、弱弱しい主人公と、愉快に振舞うが問題のある父親との演じ分けが良かった。またレティ(Millie Hikasa)は、同じ年齢の日本に所縁のある女優さんが演じているということもあって、気になった。溌溂と面白く演じられていたと思う。もちろん、主役のDaniel Cornishも本当にひょろっとした弱弱しい思春期男子に見えるし、新恋人怪人役のCharlie brooksの妖艶な雰囲気も良かった。

 

分裂して、瞬間移動しているように見える父親の新しい恋人、バスタブから出る赤い手、急にやって来るハンガーバードなど、恐ろしい瞬間もあるのだが、やっぱり、三階席の時に比べて一階席で観た方が臨場感があった。一つ感じるのは、初演の劇場に比べて、The Lowryの会場がデカすぎるということで、三階席のような席から見ることは元々は想定されてないんじゃないかとか、反対に机の上のものが見えにくかったりするので、一階席も初演はもっと傾斜があってこんなに舞台と客席が平行じゃなかったんじゃないかとか感じる部分はあった。

 

今、昔の舞台上演に関する最終エッセイを書いており、過去の劇評に、形容詞はいいからもっと舞台の内容を伝えてほしいと不満を抱いていることもあって、長めになってしまった。邦訳が出てない作品で、少しの解説でもありがたかったので、私のブログも上手いことを言えなくても、何かいつか誰かの役に立てればいいなと思いながら…。

www.nationaltheatre.org.uk

 

カオスな議会ロックショー(一部)―ロイヤルエクスチェンジシアター『Betty! A sort of musical』

 この劇は全体的に観るととびぬけて面白く優れている訳ではなく、その点は前回同じロイヤルエクスチェンジシアターで観た、『Let the Right One In』の方が良かったのだが、二幕頭の議会場面のあらゆる扮装をして様々な政治家が歌い踊る場面が非常にトンチキスペクタクルで、この瞬間を見るために私は劇場に通っているんだよ…の気持ちになった。ということで、分かる範囲で出来るだけ詳しく紹介していく。

 

 今回が初演であるこのミュージカルは、オリジナルのミュージカルで、脚本がMaxine PeakeとSeiriol Davies、作曲・作詞がSeiriol Davis、演出がSarah Frankcomによって務められている。このSarah Frankcomは、上演が行われたロイヤルエクスチェンジシアターの元芸術監督(2008-2019)だったようだ。

 

 劇は、1992年に女性として初めてのイギリス下院議会議長になったベティー・ブースロイド(Betty Boothroyd)について扱っている。しかしながら、伝記劇的なミュージカルとしてベティが主人公として描かれるのではなく、あるアマチュアの劇団がベティを基にしたミュージカルを作るという劇中劇の構成で、メタシアター的になっている。この劇中劇にすることによって、ベティ役は劇中で主演のMaxine Peakeに演じられる前に、他の二人の俳優によって演じられ、まさに異化効果が発揮されていた。存命の政治家を題材にするには不可欠な演出だったのだと思う。

 

 このDewsbury Playersというアマチュア劇団は、Maxine Peake演じるMeredithというキャリアウーマン風の女性がディレクターを務めており、彼女がかなり高圧的で、無理解に基づくような発言を繰り返し、娘のAngela含む他のメンバー達は振り回されている。そんな彼らが劇のリハーサルをしているという設定で進み、1930年代から1990年代まで大体年代ごとに普通の劇団員としての場面と劇中劇とが交互に繰り返されて進んでいく。劇中劇として描かれるベティの生涯のサブプロットとして、このMeredithと劇団員たち、特に娘の関係が悪化してまた改善していくという話、またBBCの取材としてやって来たAdritaと娘のAngela(どちらもレズビアンとして描かれている)の恋愛関係の話が挿入される形だ。正直言うと、この部分の話は、ジョークや他のミュージカルを引用したギャグ等、コメディ的な掛け合いで面白くはなっているのだが、典型的で予想がつく展開であり感動や面白みに欠けていると思った。こういった点で、ガーディアン紙などでは星3に留まっているというのは、納得がいくところであり、惜しいなという部分でもある。

www.theguardian.com

 ミュージカルシーンに注目すると、それぞれのモチーフからイメージするミュージカルのパロディ的な要素に満ちていて、ミュージカル史の変遷とも重なるように展開していくようだった。といっても、正確に当てはまるわけではないのだが、1930年代は、ベティの幼少期で田舎の家族の様子が描かれ、『オクラホマ』や『サウンド・オブ・ミュージック』のような雰囲気だし、1940年代は、ベティがロンドンのショーパブでダンサーとして働いていた時代で、『コーラスライン』のような雰囲気だ。1950-70年代は、ベティが政治活動を始め、冷戦や共産主義、ロシアでのスパイ活動がボンド物のように描かれた。更にベティはアメリカで政治家の助手を務めたこともあったため、歌詞がキャピタリズムになったアメリカの国歌「星条旗」が歌われたりした。

 

 中でも、一番の見どころは、前述の第二幕はじめの1990年代だ。まず暗闇で衣装をネオンに光らせた人達とたぶんその当時有名だったマスコットキャラクターが出てきて踊り狂っていると、舞台の天井から、豪華な議長椅子に座ったベティが吊られて降りて来る。この椅子は四隅が光っており、スモークがたかれることで、SFで出てくるUFOの着陸のようであり、神々しい瞬間だった。そしてロックミュージカルのような雰囲気に変わり、ベティと政治家たちの議会でのバトルが描かれる。この場面は議会がそもそも演劇的な空間だという事を想起させられた。最初がKISSのような格好をした○○(特定しようとしたがわからない)、続いて赤い帽子でラップバトルをするデニス・スキナー(野次の名手として知られているらしい)、アイリッシュダンスで戦う緑のドレスのイアン・ペイズリー、最後の大ボスが、白塗りに青い隈取のような化粧をして、青いトゲのついた『SIX』のような衣装を着たサッチャーだ。サッチャーはめちゃくちゃロックンロールで、最終的に議場でハンドバックで殴り合っていた。

 

天井から逆さにビッグベンが出てきたり、火花が散ったり、紙吹雪が舞ったり、照明が色とりどり七色に光ったり、天井からつられて登場したりと、やりすぎなくらいの特殊効果、大げさな演技が上手く使われて、キャンプでカオスなスペクタクルが表現されていた。私はイギリス政治にそこまで詳しくなく、英語もすべては聞き取れていないのに面白かったので、現地の人はより抱腹絶倒だったと思う。実際に隣も前もめちゃくちゃ笑っていた。

天上から伸びる逆さビックベン(?)

 

結局この90年代のシーンは夢オチのような感じで、感電したMeredithの幻のようなものであることが示される。その後は感電してBettyの人格と同一化してしまったMeredithが正気を取り戻し、すべての人が和解していくシーンが続くのだが、私の意識は90年代の方に持ってかれたままといった感じだった。他の人にも是非見てもらいたいが、再演をするにはサブプロットが弱すぎるのが問題かもしれない。

 

余談だが、劇が始まる瞬間の溶暗から音楽の入り方で、不思議とこれは宝塚に似ていると感じたのだが、劇が進んでいってもあながち間違いじゃなかったと思う。以下今作と宝塚の共通点。

・ミラーボールが回る、生オケ、オリジナルミュージカル

・古典を扱う際の、謎の劇中劇スタイル(cf. 『夢・シェイクスピア-「夏の夜の夢」-』99年、星組、バウ)

・偉人の名前を叫び続けるトンチキソング(cf.『暁のローマ』05年、月組

・主役が上からつられて登場する(豪華な椅子で出てくる様子は、エリザベートのトートのせり上がりの逆バージョンという雰囲気)

・ショーパブのシーンでラインダンスがある

BBCの社員役のLena Kaurがほぼタカラジェンヌのような風貌で、劇中劇でも男性役を演じる

・主演のMaxine Peakeがベティのキャラには完全に合っていてスター性もあるが、歌はそこまでうまくない(宝塚でも場合によるが)

www.lancashiretelegraph.co.uk -政治家やジョークの情報を得るために参照した。

障がいとクイアとSMの関係性ー『DAN DAW SHOW』ー

信頼の厚いHOMEシアターでの上演。題名の通り、Dan Dawというオーストラリアでキャリアをスタートさせて現在はイギリスで活動しているアーティストの作品で、彼が手足に麻痺を持つ障がい者であるということと、クイアであるということが作品のテーマに関わっていた。2021年初演で、National Dance Awardsにもノミネートした作品。

dandawcreative.com

作品のテーマの一つは、「ケア」であり、上演前から、誰もが安心して観劇できる場を創るという事が意識されていた。プレショーが導入されており、衣装の変化や小道具、トラウマやストレスを感じてしまうかもしれない言葉を確認したり、音響照明変化を確認したり、制作陣に質問したりできる。また、この説明してくれる人の英語が今までイギリスで合った中で一番分かりやすい耳に自然に入ってくる英語で、上演もすべて字幕がついているので、私のような非ネイティブにも優しい上演だった。

プレショーの机、右が小道具で、中心奥が衣装を説明する写真



上演は、Dan Dawと健常者のChristopher Owen演じる‘KrisX’のダンスパフォーマンスだ。最初に導入の場面があって、前述の音響照明の変化や、二人の紹介、DanのセーフワードがSpoonであるという事が説明される。更にその後の場面でも何度か確認されるのだが、Danが自分の意思で同意してこのショーを行っているという事が明言される。

その後始まるのはかなり激しいBDSM的な場面で、KrisXがDan Dawに犬のように四つ這いで歩かせたり、口の中をスマホで撮って観客に見せることで辱めたり、唾液を飲ませたり、体の上に乗ったり、水をかけたりする。彼らの関係はとても性的で(fu*kingはしないと最初に明言される)、危険な行為をした後は抱き合い、二人で囁き合っているので、信頼関係が確かに存在していることも分かる。特に目立つのは、机の上にバランスを崩さないように立つ、Danをメリーゴーランドのように振り回すという行為であり、どちらも最初はDanがセーフワードを言って中止されるのだが、その後のシーンでもう一度挑戦する姿が描かれる。もう一度挑戦する場面では、より二人が調和的で、Danが自由な存在で、解放されたような雰囲気だった。

 

また黒いラテックスの箱のような所にDanが入って空気が吸われていって、体の線がぴちぴちに見えるまでになるシーンがあった。観客から見ると窒息しそうに見えるのだが、彼はrelaxedなスペースだと語る。最後の場面では、刺のような衣装を着てそれが空気で膨らみ大きくなる。空気が抜かれたり、入れられたりするのが何か対立的なモチーフとして用いられていると思った。

 

観客はKrisXの立場になって鑑賞してくださいという事が最初に説明されているので、障がいのある人を痛め続けるSMの関係性の中で、私たちは加虐の側に置かれることになる。これは、そもそもの社会に存在する健常者と障がい者の不平等な関係性と重なってくるのだが、更にそのような関係性を超えた新しいものが提示される。というのは、繰り返し、この関係がDanの意思に基づくものだということが確認され、窮屈そうな場面でも逆にこれが快適なのだという事が示される中で、Danの性的欲望が尊重され、示されているからだ。翻ってこれは、彼らの意思というものが軽んじられる、健常者の為に作られたバリアの多い社会のことも感じさせるようになっていると思った。

 

圧倒されながらも、新しい観劇体験が得れてとても充実した夜だった。

ロングラン70年目ーアガサ・クリスティー『ねずみとり』ー

アガサ・クリスティー作のこの作品は、1952年11月25日に初演されてからコロナで休演を余儀なくされるまで世界最長のロングランを続けていたらしい。私は元々全く知らなかったのだが、幸運に同時期に留学している大学の後輩に教えてもらい、原作の本も貸してもらって予習をして観劇に臨んだ。

マチネ観劇、天気がいい

 

【簡単なあらすじ】マンクスウェル山荘で新しくゲストハウスを開業する若い夫婦のモリーとジャイルズ。ラジオではロンドンで起きた女性の殺人事件のニュースが流れ、雪が激しく降る中、5人の客と一人の刑事がやって来る。刑事は、この孤立した山荘で次の殺人事件が起きると訴え―

 

予習をしたおかげで話は理解できたのだが、本当に直前に読んでしまったために、実際の観劇の場面で肝心のサスペンスのスリルをほとんど感じられなかった。また、今回はマンチェスターでのツアー公演で観たのだが、まずこのような大きな箱でやるよりももう少し中規模小規模の舞台でやった方が良いのではないかと思った。実際ロングランを続けているロンドンのセント・マーティンズ・シアター(St Martin's Theatre)のキャパシティは公式サイトによると約550席であるのに対して、今回観劇したマンチェスターのオペラハウスは約1920席で四倍である。もちろん一番安い席に座っているので、舞台が遠すぎたというのもスリルをあまり感じられなかった一因だろう。

 

セットの転換もなく、ずっと緊迫した雰囲気で室内劇が進んでいくが、コミカルな部分もあり、上演中は日本でいう新喜劇(松竹の方?)のようなものなのかもしれないと少し思った。

 

また、カーテンコールで結末は明かさない様に念押しされるので気をつけなければならないが、本で読んだ時の印象よりも犯人が明らかにおかしい挙動で分かりやすく見えた。もちろん犯人を知ってるからかもしれないが…。

 

この他にも民宿経営者のモーリーがなぜ挙動不審な青年クリストファ・レンに優しく接するのか等、実際に観劇すると気づくことや、何故と思ってしまうことがあったのだが、ネタバレが怖いので早々に切り上げたいと思う。

 

ちなみに、ロンドンでは29000回以上上演されているのに、70周年にして初のブロードウェイ上演が決まったらしい。

www.theguardian.com

マンチェスター大学のミュージカルサークルによる『春のめざめ』

原作はフランク・ヴェーデキントの1891年出版の小説で、今回は2006年にブロードウェイで初演されたスティーヴン・セイター脚本、ダンカン・シーク音楽のロックミュージカル版だ。

 

日本でも劇団四季をはじめとして、プロ・アマチュア団体等の上演がされている様だったが、私は今回が初めての鑑賞だった。原作も未読。内容は、性教育を受けず、大人によって抑圧されている思春期の青少年たちの悲劇で、主人公のメルヒオールとヒロインのベンドラの淡い恋心(?)、メルヒオールの友人で劣等生のモリッツの苦悩などが中心に描かれる。この性教育を受けておらず抑圧されているというのが、イギリスの大学生のイメージとあまり合っていない。そのため、そのギャップから劇の古臭さは少し感じた。

 

上演をしたミュージカルサークル(the university of Manchester’s musical theatre society) に注目すると、舞台がすべて生演奏だった。楽器の姿も見えないし、演奏も完璧すぎて全く信じられないのだが、実際、指揮者の映像を流す画面も舞台中程につけられていて、クレジットもされていたので本当に演奏していたんだと思う。また、このミュージカルは元々ハンドマイクで歌う上演形式が採られているらしいのだが、このプロダクションではむしろ役者が全員プロのするような小さいマイクをつけていた。(ハンドマイクで激しく歌うのも観たかったが)

客席、ピンクの照明の下にモニターがある


照明や音響などはそういった裏方仕事を専門でやる他のサークルというのが存在しており、外注のような形になっているため、一定のレベルが確保されるのかもしれない。一方、装置というのがほとんどなく、コの字型で舞台を囲むようになっている客席も段差がつけられていない。二列目に座っていると、そもそも俳優が立っていても見にくいのに平気で地べたで演技をして全く見えないシーンがかなりあった。

 

当然ながら曲のナンバーが沢山あり、これは青春という感じで力強く歌い上げるものが多くてカッコ良かった。主人公のメルヒオール役の役者はスター性があって、雰囲気は役にピッタリなのだが、高音とか感情が高まってそのまま歌うというのはあまり上手くなく、むしろ友達のモリッツ役の方がその点は上手だった。女性達は大体全員上手で、ユニゾンのハモリがきれいだった。

 

衣装は、ドイツのギムナジウムのイメージで白と黒が基調になっている。全員アイシャドウ、アイラインを黒で引き、ネイルを黒にしていてゴシックな雰囲気だ。ヒロインのベンドラだけ、最初は純潔を表すような真っ白なワンピースで、メルヒオールと半ば強引に関係を持ってしまった後、メルヒオールの黒レザージャケット、黒いリボンに変わって変化したことが視覚的にも表現されていた。大人は男女それぞれ一人ずつ同じ役者によって全役演じられるが、衣装は変化しないので、判別ができないこともあった。

 

余談だが、本当にギムナジウムにいそうで、萩尾望都の漫画に出てきそうで、ティモシー・シャラメに似ている役者が逆に半ズボンじゃなかった。

 

全体的にレベルは高いと思うが、とにかく内輪の空気の凄さ、30分押し、見えない部分が多いということもあって少し満足できない部分もあった。

今週の観劇三種-『NOT F**KIN’ SORRY』『OODLES OF DOODLES』『LION KING』

今週は近所の劇場のしかも一時間公演だからいいかと思って、平日に二つの公演と、週末にミュージカルのライオンキングを観に行った。

 

『NOT F**KIN’ SORRY』

写真撮影が自由だった

一番家に近いコンタクトシアターでの公演。学生会員&会員割引でチケットは四ポンドだった。知的障害や神経的な疾患を持つ俳優たちによるキャバレー形式の公演で、観客いじりや、歌、コメディ、パロディ、フリンジのついたニップレスなどキャバレーの形式に従いながら、彼らの抱える問題やジェンダーの問題を告発していくというような形式だった。特にコロナの影響というのが大きく取り上げられていて、最初に全員防護服を着て出てくるし、コロナで障害を抱える人達が健常者よりもいかに危険にさらされて実際に死亡率も高いかという事が紹介された。最後に緑色のコインのようなものを一番よかった演者に入れるというのがあり、優生思想や何か作品内のテーマと関わって来るのかと思ったが、結局「またお前が一番多いのかよー」みたいなコメントで終わったので、そこは拍子抜けするところではあった。

作中では、ボリス・ジョンソン(ものまね、これもこんなに政権が変わるとは思ってなかっただろう)や問題のある社会に対してはタイトルにもある通り中指を突き立てる。そして自分の身体に誇りを持とうということや、私たちは普段隠されてるけどどこにでもいるし、いなくならないといった、力強いメッセージも発信される。参加してはないが公演後にはバーで懇親会のようなものがあったようだし、詳しいリーフレットのようなものが配られるし、作品の内外で啓蒙とコミュニティ形成を促進するような演劇だと思った。

 

『OODLES OF DOODLES

恐ろしい客席(見にくい)

大学のドラマソサエティのフリンジ公演の一つで、犬に対する飼育放棄やビジネスの問題を扱った作品。オリジナルでよく分からなかった部分も多いがコメディで、また性的魅力を強調するようなダンスが印象的に用いられていた。珍しい犬を飼い始めた主人公のDAISYがかなり無責任な飼い主で、健康診断とかは行かない代わりにビジネスとして子供を出産させて儲けようとする。彼女の彼氏のTOMは最初はそんな彼女を諫めていたが、最終的に弱った犬を殺してしまい…。という話だ。筋としては単純で問題意識もはっきりと伝わって来るが、犬を殺した時にマクベスのネタが挟まれたり、ジェームスボンドのネタが挟まれたりと色々な引用がされて面白くなっていた。ただ、会場がゲイビレッジのバーの地下のような所で、客席がディナーショー形式の円形に置かれていて、しかも観客わたし以外全員知り合いなんじゃないかというような社交が上演前から繰り広げられており、観客の盛り上がりも半端じゃなかったので、テンションとしては置いていかれてしまった。

『Lion king』

日曜の昼ということもあってか家族づれが多く、一つだけぽっかり空いた席をそれぞれ友達と20ポンドほどで買うことができた。

キャスト表

今回ツアーでやってきているマンチェスターのパレスシアターはそこまで舞台が広くないのだが、だからこそ舞台ギッチギチに動物が沢山いて迫力があった。幕開きの動物たちも、敵のハイエナたちも客席から登場するので、大きい動物が現れた時は普通に興奮した。床から蒸気が出たり、床に布が引き込まれていったりと装置や衣装の豪華さも流石のメガミュージカルという感じだった。

 

ライオンキングというと、子役が舞台に立てるまでみたいなドキュメンタリーのイメージが強く、そこで見た子ライオンのアクロバットはなかったような気がするのだが、どこまで日本独自の演出、このプロダクション独自の新しい演出がなされてるのだろうかというのが気になった。例えば、執事鳥のザズーがはけ際に『白鳥の湖』の真似をしていたのは、このパレスシアターの前の演目が白鳥の湖だからかと思ったのだが、どうなのだろう。少し調べてみると、二幕で同じくザズーが悪者のスカーに捕らえられている時にレットイットゴーを歌ったシーンは日本では富士サファリパークのメロディだったりするらしい。また最後の決闘シーンでもティモンとプンパァがおもむろにチャールストンを踊り出すシーンは日本ではやってないだろうと思ったら、チャールストンという言葉は削除されているもののやられているらしい。(参考資料https://shiki-note.com/lkhenkoten-2402.html

 

「サークルオブライフ」等全員で歌う歌はパワフルで心に迫るのだが、肝心のシンバの声量が満足いくものじゃなかった。だからこそ親が王だからと言ってハクナマタタの精神で育ってきたシンバが本当に王に適格かどうかという疑問が少し残った。

 

青春スペクタクル吸血鬼物―ロイヤルエクスチェンジシアター『Let The Right One In』

原作はスウェーデンの作家ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの小説で、2008年にスウェーデンで『Let The Right One In(邦題ぼくのエリ 200歳の少女)』、2010年にアメリカで『モールス』として二度の映画化がされている。母子家庭で、アルコール依存の母親との折り合いも悪く、学校でもいじめられている主人公のオスカー。彼の家の隣に謎の人物エリが引っ越してきて、孤独な二人は仲を深める。ちょうどその頃、その街では謎の殺人事件が相次いでいて…。というようなストーリーだ。

 

ハロウィン時期に合わせた吸血鬼物の上演で、ポスターが恐ろしいので正直ドキドキしていたのだが、舞台の色使いは薄い水色やピンクなど明るい色も多く、オスカーとエリが関係を深めていくシーンは、観ていられない程の甘酸っぱい青春物だったのでそこまで恐ろしいこともなかった。オスカーの成長と小さなコミュニティで起こる悲劇をポップに描いている。演出はBryony Shanahan、デザイナーはAmelia Jane Hankin。役者は若い世代が多く、とちったのかなという場面が少しあったがほとんどは安定していた。

www.royalexchange.co.uk

ロイヤルエクスチェンジシアターは円形の特殊な形状の劇場なのだが、座付の演出家ということもあってか、その劇場の様々な機構を存分に生かしていて、観客の出入り口と同じ四方の出入り口が大きく開いて大きなセットが運び込まれたり、客席の二階部分の対面する二か所が突き出し舞台のようになっていたり、はしごがついてそこに登れるようになっていたり、客席の周囲がLEDで光るようになっていたり、舞台の床も線が入って区切られている部分が光るようになっていたり、スモークがめちゃくちゃ焚かれたり、雪が降ってきたり、人が吊られたりと特殊効果のオンパレードだった。特に吸血鬼物なので、吸血シーンは血糊、フラッシュ、瞬間移動などで最高潮に盛り上がった。非常に大雑把に語ってしまうのだが、ある授業で歌舞伎を調べていることもあって、このハロウィン吸血鬼物のスペクタクル性は、夏に納涼で怪談物をする歌舞伎のようなものなんじゃないかと思った。

畳みたいな床の境界線が光る、二階席三階席の側面も光る

 

また、同じ週の月曜日の映画学の授業がヴァンパイア特集で、先行研究を読んでいた。そこで、ヴァンパイア映画の特徴として「ヴァンパイアは必然的にクイアである」という項目があった。この劇でも、エリは、性別についてオスカーに聞かれると「Nothing」と答え、後に元々名前がエリアス(男性名)だったことを明かす。エリは執拗に「私が女の子じゃなくても好き?」ということをオスカーに訪ねるのだが、この時、性別と吸血鬼ということと二つのことが含意されているのだ。エリは男でも女でもないクイアな存在で、オスカーとの関係は単純な異性愛を超えたものだった。この孤独なものが惹かれ合うという感じ、最後に旅立つ感じ(漂流者であることもヴァンパイア映画の特徴)、『ポーの一族』と同じだ。これが吸血鬼物の特徴なんだということをよくよく学んだ。